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田澤稲舟(たざわ いなぶね)

「若い女性に“自由”のなかった明治時代に、いさましくもこれに体当りしこれを突き破って自由奔放に生きようとし、ついに敗れた若く美しい小説家 —— これが田沢稲舟である。—— 」(大宝館 田澤稲舟紹介文より)

 

Ninabune田澤稲舟(本名 錦[きん] 1874-1896)は、1874(明治7)年、山形県鶴岡市の医師の家に、二人姉妹の長女として生まれました。家系をひも解けば、かの加賀藩前田一族まで辿ることのできる由緒ある家柄で、比較的自由な空気の中、伸び伸びとした少女期をおくりました。

 

時代は明治。『金色夜叉』で有名な作家尾崎紅葉率いる硯友社発行の文学誌『我楽多文庫』が人気を博し、国中の文学少年少女たちの胸をときめかせていました。錦もその熱狂的読者のひとりでした。特に彼女がのめり込んだのが青年作家山田美妙です。「です、ます調」「おじゃる言葉」など、まだ馴染みの薄かった文体で目を引き、小説『蝴蝶』の挿絵に日本文壇史上初の女性のヌードが描かれたことで一気に話題をさらうなど、当時最も旬な人気作家でした。

 

故郷鶴岡で何不自由ない生活を謳歌する錦でしたが、跡取りのため父が将来錦の婿にと選んだ青年が同居するようになると、強く反発します。「女は子を産み家庭を守るのが本分」当時の女性に求められていた役割を嫌い、家や男性に縛られず、作家として自らの足で立って生きたい。口実を設けて父を説き伏せた錦は、1891(明治24)年ついに上京し、敬愛する美妙の門を叩きます。そして美妙の指導と保護のもと、“稲舟”の号で作品を発表し始めます。

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そのひとつ、『文藝倶楽部』に掲載された小説『しろばら』は、文章こそ未熟でしたが、ストーリーのあまりに奇抜で悲惨な展開が文壇の物議をかもします。良家の令嬢が、親が決めた縁談に真っ向から反発し自立の道を探るが、許婚にクロロホルムで眠らされた上に暴行され入水自殺、その遺体をかもめがついばむ。—— 女性としての品位を欠くといった批判のほか、読者の意表を突くこのような手法が師匠美妙のおはこでもあったため、“女美妙”と揶揄され、“稲舟”錦はたちまち注目を浴びます。このような中、美妙との関係が恋愛に発展するのに時間はかかりませんでした。1895(明治28)年、二人は結婚します。

 

同時期に活躍した作家に、樋口一葉がいます。『しろばら』が掲載された同じ雑誌には、一葉の『十三夜』も掲載され、こちらは文壇から絶賛されました。夫から手ひどい仕打ちを受けたお関が、二度と戻らないと決意して実家を訪れる。しかし、心を鬼にした父親に諭され、子どものため泣く泣く婚家に帰って行く。—— 『しろばら』と違い、こちらの主人公は世の風潮に従って生きる道を選ぶのですが、一葉は我が身を犠牲にするお関の姿を描き切ることで、時代に強く抗議したのだといわれています。一葉自身、小説の師匠である半井桃水との恋愛を、桃水の将来を憂慮する人々によって引き裂かれたのでした。そのことがあってなのかどうか、当時の一葉の歌稿の余白には「いな舟、稲舟、かの女、羨まれ候」との走り書きが見られます。母や妹を支える自分には叶わぬ、独自の道を迷わずまっすぐに進んでいる女性。一葉の目に田澤稲舟は眩しく映っていたのかもしれません。

 

あこがれの美妙との恋愛を実らせた稲舟には、すぐに辛い現実が待っていました。スキャンダラスな結婚に対する容赦ないバッシング、夫の恋人の存在、厳格な姑と大姑、お嬢様育ちの稲舟に耐えられる生活ではありませんでした。もともとが虚弱体質だった彼女はたちまち体調を崩し、迎えに来た母と共に鶴岡へ帰ったのは、結婚わずか3ヶ月目のことでした。その後実家で執筆を続けるも、体調は悪化の一途をたどり、1896(明治29)年、稲舟は急性肺炎のため21才9ヶ月の短い生涯を閉じます。

 

ある年の春、稲舟の故郷鶴岡を訪ねました。当時、近代日本女性史に登場する女性たちの生涯を追っていた私は、長谷川時雨の『近代美人伝』で初めて田澤稲舟の名を知りました。そして文学博士塩田良平の『明治女流作家論』等を読み進めるうち、稲舟の生涯と作品の異色ぶりに強く魅かれるようになりました。マッチョで堅苦しいイメージしかない明治の時代に、叩かれてもあざ笑われても自分の道を貫こうとしたこんな女性がいた。山形県はもちろん、東北という地域にも足を運んだことのない私でしたが、大阪から寝台特急「日本海」を利用すれば乗換えなしで鶴岡まで行けることを知り、いつも通り半衝動的に「とにかく行ってみよう」と決めたのでした。

 

ただ、不安もありました。田澤稲舟はどちらかといえば山田美妙との関係で取り沙汰されることが多い人で、生前はスキャンダラスな恋愛騒動の当事者、死後は一転して身持ちの悪い美妙に捨てられた悲劇の人扱い。“文学者”稲舟を、批判も含め正当に論じたものは、今日に至るまで少ないのが現状です。故郷鶴岡といえども、どこまでその足跡を辿ることができるものなのか。しかも、鶴岡出身者には高山樗牛もいれば藤沢周平もいます。稲舟に果たしてどれほどの“取り分”が与えられているのか。ずっと以前、大正の詩人生田春月を求めて鳥取県米子市を訪ねた時は、古書店頼みでまわったため、そこで収穫が得られないと途端に旅は意味を失ってしまいました。同じ轍は踏むまいと、今回は古書店だけでなく、市立図書館や郷土資料館へも行く準備を整えて向かいました。これが結果的に役に立ったのでした。

 

初日は断続的な吹雪で、30分も外を歩いていると凍えてしまいそうでしたが、2日目は晴れて気温も上がり、散策日和となりました。両日とも、稲舟の文学碑と胸像を訪ねることから始めました。内川沿いにある文学碑から道路を一本隔てた向かいは稲舟の生家です。田澤家は既にそこにはありませんが、別の人が引き継いだ医院は今もその場所で開業しており、稲舟の部屋も当時のまま残されているそうです。病を得て帰郷した後、世間の目を避けほとんど外出することのなかった稲舟が、家の前の土手で水を汲む姿が時折見られたといいます。ちょうどその辺りだったのでしょうか、1971(昭和46)年にできた稲舟の胸像は、川を背に生家を正面から見守るように立っています。しかし、この像は厳密には稲舟のものとはいえないのです。

 

Tomi_3稲舟の死を報じるため、生前の写真を求めて田澤家を訪れた関係者に、父は薄幸の娘がこれ以上さらしものにされるのはあまりに不憫と、二女富(とみ)の盛装した写真を託したのでした。したがって、その後長年にわたって伝えられた稲舟の姿の多くは実は富で、胸像も富の顔を模して造られたものだったのです。般若寺にある稲舟の墓には、くっきりと大きく“田澤錦子墓”とだけ刻まれていました。娘の短すぎる生涯の刻印を永遠に留めおこうという父の深い想いが込められているようで、しばらくその場を離れることができませんでした。

 

 

インターネットで探し当てた「阿部久書店」は鶴岡随一の古い書店で、郷土関係の古書を多く取り扱っているとのことでした。店主さんに尋ねてみると、「ああ、それならこれがいいですよ」とすぐに1冊の本を棚から取り出してくれました。笹原儀三郎作品集『ふるさとへ』(1979年刊)。鶴岡に生まれ、教員生活を続けながら、歴史に埋もれていた高山樗牛や田澤稲舟を掘り起こし紹介し続けた方だそうです。本書でも半分はこの二人について書かれています。中でも『青春哀詞 田沢稲舟』(1969)は、中学・高校の教師として多くの若者たちを育ててこられた笹原さんが、短い青春を駆け抜けた稲舟に注ぐまなざしの温かい、感動的な評伝でした。

 

鶴岡市指定有形文化財の大宝館(郷土人物資料館)では、鶴岡ゆかりの人々が写真と遺品を中心に展示されていました。稲舟のコーナーはショーケース1枚分にも満たないほどのスペースでしたが、ロビーでは稲舟と樗牛それぞれの生涯がビデオ上映されていました。生前の稲舟を巻き込んだスキャンダルへの言及は抑えられ、女性の自立が困難な時代に、自分らしさを追求して懸命に生きたひとりの若い女性として描かれていて好感が持てました。その視点がなければ、稲舟の存在など、ただ愚かで向こう見ずな不良少女のひと言で片付けられてしまったでしょう。そして実際郷里鶴岡では、数十年にもわたって“田澤稲舟”はタブーだったのです。目立つことを嫌う保守的な風土で“あんな騒動”を起こした娘。人々の沈黙と共に、稲舟の存在自体も長らく封印されていました。それを解き放ち、庄内の文学者として正当な位置づけを与えるべく尽力されたのが、先の笹原さんであり、数々の郷土史研究家だったのです。

 

その努力が実を結び、1996(平成8)年には稲舟没後100年記念事業として、講演と朗読のイベント、展示会などが町をあげて開催されました。その記録冊子『田澤稲舟 かくも激しく、短き命の輝き』と展示会の目録を、市立図書館で閲覧することができました。企画の中心になったのは、地元鶴岡在住の女性たちだったそうです。“不良少女”から“時代の先駆者”へ。この意識変革は、没後100年という節目がもたらしたものではなく、鶴岡の女性たちの心に稲舟の志がひっそりと、しかし確実に受け継がれてきた結果と捉えるべきなのでしょう。 

 

常に“従属の性”として歴史に埋没し、教科書を開いてもほとんど姿が見えない女性たち。けれどこうして一人の人物を追っていると、その生涯の周囲に同時代を生きた女性たちの息遣いを感じることができます。社会の制約の中で、自らの人生を自らの手でつかもうと、主張し試行錯誤を繰り返している姿が活き活きと迫ってきます。時には私自身がその時代に降り立ち、彼女らと同化していくような感覚を持つことすらあります。過去の一時代を生きた彼女らと現在を生きる自分が、1本の線上でつながっていることを実感する体験。田澤稲舟の旅は、歴史上の人物を辿ることの意味をまた少し教えてくれたのでした。

 

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コメント

【田澤稲舟】と平成28年4月5日《紅花慕情》でプロデビューされました【羽山みずき】(本名・田澤瑞姫・平成3年12月7日生)山形県鶴岡市大山の出身・平成28年日本レコード大賞新人賞受賞者とは、遠い親戚関係があるのでしょうか?、生まれ年に約117年の歳月の隔たりがありますが、両者ともに上品さ・気品さ・美人の面において非常な共通点が感じられるのですが・・・

投稿: 大阪野里の高等遊民 | 2017年5月24日 (水) 08時20分

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