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『パプストとルイーズ・ブルックス』 ロッテ・H・アイスナー

 亡命先で書いた本の中で、私はドイツ無声映画の技術的創造性の研究に、より詳しく取り組んだ。というのも、当時の私には偉大な名作映画に接する手立てがあった。そのタイトルをいくつか挙げるだけでも、『巨人ゴーレム』『プラーグの大学生』『戦く影』そして『カリガリ博士』、どれも私が映画評論家の活動を始める以前に制作され、トーキーの到来と共に忘れ去られたが、ある収集狂のフランス人、後のシネマテーク・フランセーズ館長のアンリ・ラングロワの天才的な洞察によって保存されていたフィルムだ。そのコレクションを、私は役立てることができたのだった。

 まず私は、映画に関連するものすべてに興味を持った。中でも一番は、もちろん俳優だった。私の時代、偉大な映画スターは、同時に最も名高い舞台俳優でもあった。ラインハルト学校を出た俳優たちは、皆いつしか映画に進み、劇場と映画スタジオを行き来していた。マックス・ラインハルトは、これをよく思わなかった。彼は映画を低級な芸術とみなす者の一人であり、部下の前で見下したように“映画”を語っていた。彼が最も腹を立てたのは、スタジオに足止めされた俳優たちが、舞台のリハーサルに遅れた時だった。おそらくこの反感は、彼が制作した三本の映画が、どれもうまくいかなかったことと無関係ではないだろう。

 俳優によっては、身振りの大きい舞台演技を、映画の抑制した演技に切り替えることが悩みの種となった。『カリガリ博士』『戦く影』『朝から夜中まで』といった生粋の表現主義映画ならば、俳優たちは歪んだ遠近法で作られたセットに動きを合わせることができたが、ほとんどの映画は、その形式やテーマに応じた写実的な演技が求められた。例えば、ルビッチュの辛辣な社会批判、パプストの人間的なリアリズム、そして、スタジオの作りもののセットから脱出し、自然を背景に撮りたいというムルナウの強い欲求などだ。G・W・パプストの無声映画の最高傑作『パンドラの箱』では、二人の俳優の演技が激しく衝突した。表現主義俳優の最高峰フリッツ・コルトナー、そしてルイーズ・ブルックス ―― 二つの世代、二つの大陸の激突だった。

Louise_brooks   ルイーズ・ブルックスは、21歳でハリウッドからやって来た。彼女の所作は気ままな子猫のように優美だが、感情を表現するため手足を動かしたりはしない。カメラの前で全部の毛穴を開き、眉をかすかに寄せ、黒い瞳をぱっと輝かせるだけで十分なのだ。

 「偉大な映画芸術は、台本通りの表情や動作をつくることによってではなく、深い孤独を介して考え、感じる中から生まれるのである。」 (ケネス・タイナン『興行師』サイモン&シュスター社1979年P.316)

 ブルックスの澄んだ眼差しを前に委縮してしまうことがないよう、相手役は健全な自意識の持ち主でなければならない。コルトナーはどうやらそうではなかったらしい。自分のパートナーが演技をせず、ただそこにいるだけであることに、彼は苛立った。

 コルトナーはアメリカに亡命後、ハリウッドでスクリーンテストを受けたが、その誇張された演技を見慣れていなかったプロデューサーたちは、ただ大笑いするだけだった。Lulu_kortner

 30年後に私と知り合ったルイーズが語ったところによると、彼女をとことん嫌っていたフリッツ・コルトナーが劇場のシーンで彼女の腕を揺さぶった時、思いきり手に力を込めたため、腕が青あざだらけになってしまったということだ…。

 私が実際にルイーズ・ブルックスを初めて見たのは1929年、彼女が再びG・W・パプストの演出のもとで『淪落の女の日記』を撮っている時だった。私はパプストと話をするためスタジオへ出かけ、ちょうど撮影の休憩時間に到着した。そこには、椅子に腰かけて本を読んでいる主演の彼女がいた。目を上げることはなかった。気品ある物腰、澄んだ額、麗しい横顔、スタジオのライトに照らされて銀色に光る漆黒の髪。私は、この世のものとは思えないその姿から目をそらすことができず、声をかける勇気もなかった。ただ、彼女がどんな本を読んでいるのかが知りたくなった。本のカバーを見ようと、彼女の後ろへそっと立った私は、そのタイトルを見て仰天した。『ショーペンハウエル:金言』彼女は確かに文字を追っていた。にもかかわらず、私の中にある漠然とした疑念が起こった。パプストは私が来たことを知り、宣伝用のおふざけに、彼女の手に素早くこの本を押しつけたのではあるまいか。1958年に彼女とパリで再会し親しくなった折、私は尋ねた。「ところでルイーズ、あなた本当に、休憩時間にショーペンハウエルを読んでいたの、それとも読むフリをしていただけだったの?」すると彼女は笑って言った。「私、実家にいる頃から、父の書斎にあった古典や哲学書はみんな読んでいたの。それが普通だったのよ。でもハリウッドでは誰も本を読まないの、その方がずっと不思議だったわ。私あそこでは変わり者で通っていたの。本に取り囲まれた私がエキゾチックだと言った監督がいて、こんなおかしな写真を撮られたりしたのよ。」Brooks-books

 こんなにも美しい女性が知性に富むわけはないと、私は愚かな先入観に目を閉ざされ、ルイーズ・ブルックスの真の姿を見ようともせずに、傍らを通り過ぎたのだった。英語で何度か言葉を交わしたりはしただろう。しかしそれは、気落ちした彼女を元気づけられるような“楽しいおしゃべり”ではなかった。ベルリン時代の彼女は、孤独で辛い思いをしていた。ドイツ語はまったく話せなかった。誰もが欲しがる主役をアメリカ人に取られ、憤っている共演者たちからは無視された。そして、撮影中は彼女に思いやりの限りを尽くしたものの、プライベートでは数々の失態を演じたパプストとの関係は、むしろ問題含みだった。

 もし勇気を出してルイーズのもとへ行っていたら、私はその雪白の額の奥にある芯の強さに気づき、私たちは30年間、友人として実り豊かな時間を過ごしていたことだろう。女性相手に深い友情を結ぶことなど、私の人生にはめったにない出来事だったのだが。

 それでも、スタジオでパプストがこの主演女優と仕事をする様子を見ていた時のことは、多少記憶に残っている。拙著『取り憑かれたスクリーン』の初版に私は書いた。「そして、ルイーズ・ブルックスは撮影中ほとんどしゃべらなかったにも拘らず、私はその受身的演技と存在感が奇妙に混じり合った姿に、絶えず引きつけられていた。」この印象が正しかったことは、作品を見た時にわかった。「しかし、私はいまだに決めかねている、この力強さが彼女の中から無意識に出ているものなのか、或いは実際に、彼女はそれほどまでに優れた芸術家なのか。」そこで私は、まだルイーズと知り合っていなかった1952年に出たこの本の中に、『ルイーズ・ブルックスの奇跡』と題して、ある疑問を記した。「彼女は本当に偉大な女優なのだろうか、或いは単に、そのまばゆいばかりの美しさに目をくらまされた観客が、実際には備わってもいない様々な特性を、彼女に授けてしまったのだろうか?」

 同僚のエルンスト・イェーガーは、この無名のアメリカ人にさっさと見切りをつけた。彼にとってブルックスという人間は、「無能で」「生気のない」まがいものでしかなかった。

 本の改訂版が出たのは、ルイーズのことをよく知った後だった。私はそこに、次のように書くことができた。「今では、ルイーズ・ブルックスが単に美しいだけではなく、途方もない知性に恵まれた素晴らしい女優であることは周知の事実だ。」

 残念なのは、自らハリウッドを後にして以来、ルイーズが執筆をやめてしまったことだ。ルイーズ・ブルックスが当時の映画界の大物について書いたエッセイほど、辛辣で自主独往で楽しい文章に、私はめったにお目にかかったことがなかったからだ。もし彼女が自らの全生涯を書き残すつもりでいたなら、私は自分に都合の悪いことは言わずに胸にしまっておいただろう。彼女は、当時のことを書いた他の人々の本との兼ね合いで、自伝の執筆をやめた。しかしその断片に目を通すだけでも、彼女の包み隠しのない真っ正直さに驚嘆させられもし、また嬉しくもなる。

 だが、ルイーズは世間というものをよくわかっていた。私への手紙に彼女は書いている。「私、もう書くのはやめるわ。ゴシップ話を食べて生きているような人たち相手に、ありのままの事実を伝えるなんて、無駄なことだもの。」

 黄金の20年代に活躍した女優に期待されるものは、魅惑、うわさ話、スキャンダル、みだらなエピソードだ。彼女が語るのは味気ない裏話である。誰も耳を貸すまい。また、彼女はこうも思った。その人物の恋や憎しみ、葛藤の本質を理解しない者には、その性格や行動もわかるはずない。それを知って初めて、読者は一見無意味に見える無数の振舞いにも理解を示すことができるのだと…。 

 ビクトリア王朝時代に制限された性の自由を、完全に取り戻したと、皆得意になっている。確かに、人にショックを与え、興奮させ、金儲けをするために、おびただしい暴露本が書かれたが、真面目な本に出てくる人物の性格は、昔と変わらず謎で不可解なままだ…。
 私の性についての真実も書く気はない、それが読む値打ちを決めるのだとしても。私にバイブル・ベルトははずせない。

 確かにそのとおりだ。数多くの有名人と浮名を流したその恋愛遍歴抜きに、彼女の生涯を正しく語ることなどできはしない。彼女の女優としての経歴は、活気、恋、誘惑、男性の心を手に入れることと切り離すことはできなかった。そして恋愛から期待するものも、私よりずっと大きかった。彼女は絶えず自分の身を危険にさらしたため、心の支えを求めて苦しんだが、いつも失望を新たにするだけだった。

 あなたの言うとおりだわ、私に安っぽいセンセーショナルな自伝を書かせようとしても無駄だというのも、「ルイーズが短いエッセイを書き続ければ、…それで本が出来上がる」というのも。―― 今ちょうど、『マルコム・セントクレア』の初稿ができたところなの。次に『パプストとパンドラの箱、パプストと淪落の女の日記』の補足章を書いて、その次はたぶん『ビリー・ウェルマン★★』よ。私のことは、ほかの人に書いてもらうしかないわ。自分のことはまったくわからないから、何を書いていいのか思いつかないもの。誰かのことを書く時、私はいつも、その人と一緒に体験するような気持ちで書いているの。女優たちのことを色々調べて思ったのは、どれも似通っていて、名前を入れ替えるだけで、誰のストーリーになってもおかしくないということだったわ。 
 それをよく考えてみればわかるけれど、これが映画スターというものなのよ。自尊心をくすぐるものや役に立つもの以外は全部遠ざけられて、自由に生きることができなければ、女優たちは平凡な想像力しか持たない規格どおりのおもちゃになるしかないわ。だから私は自分を表現するために、監督たちをフィルターとして使ったの。  ルイーズ・ブルックス(ロッテ・アイスナー宛1966年2月5日付)
     ★アメリカの監督。ローレル&ハーディのコメディなどがある。
  ★★ウィリアム・A・ウェルマン。アメリカの監督。『つばさ』(1927)等。


  疑いもなく、G・W・パプストは、ルイーズの俳優としての経歴上、最も重要な監督だった。そこで彼女はこう書いた。

 ベルリン駅のプラットホームに降り立ち、パプストと顔を合わせた時、私は女優になった。彼は礼儀正しく、敬意をもって私に接した。ハリウッドでは受けたことのない扱いだった。パプストは、あたかも私のこれまでの人生と経歴をたどり、今私が必要としているのが励ましと保護であることを、ちゃんとわかっているかのようだった(…)。   
 彼はささやいた。「ルイーズ、明日の朝、君とコルトナーの大ゲンカのシーンを撮るから準備しておくように。」あるいは「今日の午後、最初のシーンで君には泣いてもらう。」こうやって彼は私を導いていった。彼は、ある聡明な俳優に対しては、隣りに腰を下ろし綿密な説明をした。地方回りの老舞台俳優とは、舞台の隠語で話した。しかし私については、彼はまるで魔法にかけるかのように、私を澄んだ気持ちで一杯に満たした。そして水門を開け放ったのだった。

Pabst

 また、こうも書いた。

 パプストは、その人物の心の中まで見通して恐れを追い払い、内在する力を引き出す天才だった。それが観客の心を揺さぶったのだ。

 パプストの演出の才能に敬意を表し、ルイーズはエッセイ『ルルとパプスト』の中で、彼に礼を尽くしているが、会話や手紙では、この謎の人物のいかがわしさをはっきり口にした。私はそれを知りすぎるほど知っていた。他のあらゆる芸術家たちが、政治的状況を自覚して責任ある行動をとったにも拘らず、パプストが1933年に殺人者の巣窟ドイツを去らなかったことを私は責めた。それどころか彼は彼らに屈し、順応し、恥ずべきつまらない映画を撮ったのだ。

 1946年、私はウィーンに彼を尋ね、釈明を求めた。私は言った。「G・W、今日は古い友人としてではなく、シネマテーク・フランセーズの使者として来ました。」

 彼は答えた。「でも貴方は、みんなが私について話していることを、全部信じたわけではないでしょう?」(彼は、レジオンドヌール十字勲章を剥奪されていた。)

 そして続けた。「アメリカ人とロシア人によって、私の潔白は証明されています。」

 私:「ひどいわ。」

 パプスト:「待って下さい、証拠の品を持って来ましょう。尋問はそれからです。」

 私:「パプストさん、なぜミュンヘン協定の時ウィーンにいたのですか?」

 パプスト:「単純な理由です。父が重態だったからです。死亡通知がありますよ、日付をご覧なさい。」

 私:「では戦争が起こった時、なぜパリではなくベルリンにいたのですか?」

 パプスト:「それも簡単です。義理の父が重態だったからです。これが死亡通知です、日付をご覧なさい。」

 私:「一体全体どうしてベルリンに残ったのです?」

 パプスト:「これは息子二人と妻と私の特等キャビンの乗船券です。私が出発しなかったのは、重い鞄を持ち上げた時骨折してしまったからなのです。これが病院と手術の請求書です。」

 それ以上はもう我慢できなかった。私は彼に言った、私はエドガー・ウォレス ―― ブレヒトの好きな作家の一人 ―― の本をたくさん読みました、彼によれば、鉄壁のアリバイを持つ人間こそが常に犯人であるということですよと。

 私に言わせれば、パプストはナチでないとすれば日和見主義者である。私の拒絶的な態度を見た彼は、脚本の原稿をシネマテーク・フランセーズではなく、ミュンヘン映画博物館に遺贈した。ルイーズ宛ての手紙で、私はパプストの戦争中の振舞いを話した。彼はナチだったという私の主張に、彼女は大きなショックを受け、ベルリン時代について記した『パプストと淪落の女』の第二章を、書くことができなくなったと言ってきた。

 『パプストと淪落の女の日記』は、この問題が終わらない限り書けないわ。あんなに恐ろしく自分本位な人が、映画のためだけに生きているような人が、ただ見せかけで人とつながっているだけの人が、ナチだなんて私にはとても信じられない。彼は映画を撮れる場所がほかになくてドイツへ帰ったの。―― ハリウッドに少しずつ蝕まれて ―― でも、だからってナチになんかなるものですか。彼はプロパガンダ映画だって一本も撮っていないわ。  ルイーズ・ブルックス(ロッテ・アイスナー宛1977年11月7日付)

 私は折り返しルイーズに書き送った。ナチ時代にパプストが撮った映画は、ごく一般的なウーファ・スタイルの、退屈でありきたりで無意味な作品ばかりだったこと、そして責められるべきなのは、彼の順応性と消極的態度だと。これに対し彼女はこう書いた。

 あなたがパプストを、本当はただナチに抵抗しなかっただけの人と思っていることがわかってほっとしたわ。あなたの立場からするなら、その言い分はもっともよ。私の立場で言うなら、それは…。     
 誰も彼を心変わりさせることなんかできなかったということ。―― 実の妻ですら。(あなたの言ったとおり、息子さんのペーターが障害を負って帰って来たのは彼の責任よ。)
 今でも思い出すわ、夕食の席で、トゥルーディー**が私たちを見つめていたあの眼つきとむっとした表情、―― そして、そんな彼女の嫉妬を鼻で笑ったパプストの冷たい態度。それから1929年、彼は私に会いにパリに行こうと思い立って、さっさとそれを実行したの ―― 金切り声を上げる妻に目もくれずにね。  ルイーズ・ブルックス(ロッテ・アイスナー宛1977年12月31日付)
    *パイロットだったペーターは、重傷を負って帰還した。
       パプストが外国に留まっていれば、起こらなかったことであった。
  **トゥルーディーはパプストの妻。


 パプストは、さしあたって人間としてのルイーズには一切関心がなく、映画作りのための材料としか思っていなかった。それを彼は、いらなくなればいつでもケースに入れ、次にまた使う時まで、皺ひとつない真っさらな状態で取っておくのだ。

 彼はルイーズを、まさしくそのように扱った。『パンドラの箱』の撮影中、彼女はボーイフレンドのジョージ・マーシャルをベルリンへ連れてきた。それがパプストの気分を損ねた。翌日の撮影を控え、彼女をみずみずしいままにしておきたかったのだ。マーシャルがアメリカへ帰ると、“巨匠”は撮影後彼女をホテルの部屋へ監禁し、“軽率な行動”をとれないようにした。1929年にパプストは、ルイーズ主演の映画『ミス・ヨーロッパ』の制作をパリで企画した。ある晩、ほろ酔い加減の彼女は、この“尊敬すべき”ドイツ人を誘惑しようと思い立った。彼女はあらゆる手を尽くした。―― 事が成し遂げられた後、彼は固く心に決めた、これからも今までのやり方を貫くぞ、彼女はもう自分のものなのだからと。しかしルイーズには、彼の身勝手な干渉にさらされる気などなかった。ドイツでは自分の監視下で行動すること、そんな彼の命令などどこ吹く風だった。 

Tagebuch2  これについて、ルイーズは1231日の手紙にこう書いている。

 私、賢くはないけれど、パプストに対する予感や実感に間違いはなかったわ。1929年の『淪落の女の日記』の撮影中、パプストは私に激怒したの。ドイツを出るな、ドイツ語を学べ、自分の言うとおりに演じろ、こんな彼の要求に私が従わなかったから。彼には好きなだけわめかせておいたの。―― そうすれば私にうんざりして、パプスト急行から降ろそうとするに決まっているわ。―― 手足の自由を奪われたと感じてね。

 ありのままの自分でいるというルイーズの決意は、なまやさしいものではなかった。彼女が帰国した“トーキー”初期のハリウッドでは、かつての無声映画スターたちが、トーキー転換に乗じ、あるいは金をだまし取られ、あるいはスターの座から転落し、引退を余儀なくされていた。ルイーズ・ブルックスは、そのキャリアの絶頂期に自らの意志で引退し、名もなき人に戻った。そして時を経て、再び彼女の映画が注目され始めた頃、優れたエッセイストとして語り出したのだった。

 バスター・キートンに関するエッセイは、彼がまだ存命中に書き始められ、その死後に完成したもので、私のお気に入りの一つだ…。

 1966年2月5日付の手紙に、彼女はキートンの死について書いている。

 バスターは、スペインから帰って数ヶ月してから人間ドックを受診したの。息をすると胸が痛む症状があったからよ。そうしたら、手遅れの肺がんが見つかって、死の宣告を受けたの。本人には伏せておかれたわ。そして月曜の夜いつものようにベッドに入ったら、そのまま昏睡状態になって亡くなったの。 
 人間が痛みに打ち勝つ力って本当にすごい、それを彼は見せてくれたわ。バスターは痛みを感じているようにはまったく見えなかった、そして最後の瞬間まで、一切不平を言わなかったの。彼がしっかり自尊心を持ったまま亡くなったことは、忘れないでいたいわ。

 この間ルイーズ自身も、呼吸をするたび激しい痛みを伴う重い肺気腫のため、入院生活となった。そもそも彼女がまだ生きていることを知っている人自体少ないが、その少数の人とさえ、彼女はめったにつき合うことはない。私には、折に触れ短い直筆の近況報告をくれる。

1983年9月27日Keaton

親愛なるロッティー

二通のお手紙ありがとう。

バスター・キートンのことは、ロディー・マクドウォールの『二重露出』(1966年)という本に書いたの。

バスターはいつも酔っぱらっていたわ。

ナタリー・タルマッジと別れた後、彼はМGМのコーラスガールと結婚して、彼女が看病していたの。ロディーによると、肺がんになった時、ベッドに寝ていないものだから、病院から追い出されたそうよ。ある晩ロディーが訪ねた時、バスターは寝床から出てきて、ウィスキーをごくりと一杯飲んでから、またベッドへ戻ったの。ロディーとバスターの奥さんが様子を見に行ったら、バスターはもう亡くなっていたそうよ。

私は肺気腫のせいで息が苦しくて、寝ていなければならないの。それから、腰も骨関節炎になってしまったのよ。
食べ物が原因で体調を崩したなんて、あなたも大変だったのね。―― でもお世話をしてくれる人がいると聞いて安心したわ。

愛をこめて

ルイーズ 

    *ルイーズ・ブルックスは1985年にロチェスターで死去した。

 

(Lotte H. Eisner  "Pabst und Louise Brooks"  "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)

 

*:原注

★:訳注

 

*掲載写真は、原書から転載したものではありません。


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