『エルンスト・バルラッハの軌跡』(タルノヴスキー/バーボヴィック)

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(1) ~ エルンスト・バルラッハ(1870-1938):一途な人の多難な生涯

 20世紀前半において国際的評価を得たドイツ人芸術家の中で、エルンスト・バルラッハは例外的存在である。彼の全く特異な芸術は生涯を通じて人々を当惑させ、芸術界に烈しい論争を巻き起こした。彼を崇拝する者が、その作品に見られる独創性と確かな表現力を指摘し、「新しい際立つ素朴さ」「芸術的な深淵」「内面への傾聴」そして「象徴を用いた思考」を認めた一方で、敵対する者は、彼は「田舎者」「ヒステリックな予言者」であり、その彫刻作品は「美術工芸品」のようで、その象徴的な戯曲は「煙が立ち込めるように憂鬱」、或いは、評論界の大御所アルフレート・カーの粗野な言い回しを借りれば、「正真正銘最低のたわごと」だと中傷した。また、たとえ私情を抜きに議論したところで、両者の見解は全く相容れることはない。まさにそれは、周囲にも時代にも迎合しないバルラッハという鬼才、彼と彼の作品に近づけば誰でも感知する、その挑発的な“特異性”が、今日に至るまで放つ独特の過激さを反映するものといえる。

 この終わらない論争に独自の見解をもたらそうと欲するなら、まず第一に、バルラッハの作品に見られる桁外れの多様性を知っておくべきである。というのも、この評価の分かれる芸術家は、世間一般の美術愛好家たちの頭にまず浮かぶ“優れた彫刻家”という認識には到底収まりきらない人物なのである。それどころか、造形芸術家としてのエルンスト・バルラッハが体現するのは、のみや粘土と同様素描具や他の画材をも易々と使いこなしてしまう、稀少なマルチタレントを備えた人物である。かつてギュストロウの彼の遺品から、息詰まるほど強烈な2,000枚ものスケッチを取り出し、じっくりと見比べる機会を得た者は、これら傑作の作者が、20世紀最大の素描画家の一人であることを自ずと理解した。にもかかわらず、木彫彫刻やブロンズ彫刻、スケッチ、リトグラフ、そして木版画は、バルラッハの創作の一面を表しているに過ぎないのである。その傍らで独自且つ同等の権利を持って屹立するものに、彼のほとんど知られていない文学作品がある。長々と難解なその作品群は、戯曲、未完の長編小説、文学的日記、自伝的手記、散文の下書き、そして生き生きと描写された書簡から成り、徐々にその虜になった専門家によって、いつしか高い地位を確保されていったものである。

 彫刻家、素描画家、劇作家、小説家 ― この多様さは並外れている。しかし同様に並外れているのは、バルラッハの驚くべき独自性である。まぎれもなく近代芸術家に属するにもかかわらず、近代芸術の熱狂的な綱領やアピール、タブー打破は、彼の心をほとんど動かさなかった。ピカソやカンディンスキー、ベックマン、ノルデら芸術革命家による形(フォルム)の実験を、彼はきっぱりと拒絶した。彼とアヴァンギャルドとの接点は、芸術の語り部的要素や叙情的な要素の意識的な放棄、形(フォルム)の単純化の徹底、そして事物の内なる本質を表現し得る手段の探究といったところがせいぜいである。ところが彼の作品は、そういった永続的なものを背景に、彼がただ彼自身の内面から汲み上げたものなのである。

 自伝『自叙伝』の中でバルラッハは、数々の手本が彼にとっていかに意味薄いものであったかを書き記している。「私はある時こう思い至った。今や私には、自分を伸ばしてくれる手本はもう存在しないのだと。」このような断言は、一見あまり説得力があるとは思われない。しかし、彼の生涯と製作の軌跡がこの主張を裏書きする。世紀の天才ロダンが彫刻界に革命を起こし、芸術的にも精神的にも活気あふれる毎日が、若き芸術家たちに無限の刺激を与えた続けた、世紀転換期(1895~1897年)のパリ。当時そこに二度にわたって研修滞在したこの根っからの北方ドイツ人は、そのどちらからも強い感銘を受けることなく帰郷し、ある手紙の中でこう所感を綴った。「私のパリでの数年は不思議なほど実りがありませんでした。経験をするということがなかったのです。」また、奨学生としてフィレンツェに滞在した10ヶ月(1909年)については、街ぐるみ美術史の博物館のような有名なイタリアの都市を散策した折、冷静にこう語っている。「イタリアには驚くべきものはなかった。私はどんどん冷淡になっていった。」そして、この判断が覆ることはなかった。それに続く10年間に起こった近代芸術の華々しい革新もまた、若き日の芸術の牙城パリやフィレンツェ同様、この内向的な孤高の人の前を、ほぼ痕跡を残さず通り過ぎただけだった。確かに彼もこの革新の諸段階に敏感に関心を寄せはしたが、自身はその成果の恩恵に預かることはほとんどなかった。マックス・リーバーマンは、この高名な同業者の60才の誕生日(1930年)を祝う有名なスピーチの中で、この点について彼の特性をこう語った。「無類の芸術家バルラッハのような人物は他にいません。彼の芸術はまさに彼自身なのです。」

 ただ内なる声にのみ従う、この断固たる姿勢にもかかわらず、比類なき独自の芸術の確立という彼の夢はなかなか叶わず、遂にはその実現に向けて死に物狂いで格闘しなければならなかった。芸術家としての経歴に踏み出して10年余り経った1906年、36才の彼の人生にようやく突破口が開いた。帝政ロシアを旅行した際、彼は素朴な農夫や羊飼い、市場の売り子や物乞いの自然なままの姿に、まるで自ずと頭に浮かぶように、ある芸術のモデルを認めた。装飾も形式も排除しつつ魂を満たす芸術、その中心には「とてつもなく神秘的なものをたたえた人間」がある。

 こうして呪縛は打ち破られた。以後バルラッハはまっしぐらに独自の道を歩み、喧々囂々たる同時代人の芸術論争には耳も貸さなかった。『自叙伝』によると、ロシアで彼は「この途方もない体験」の意味をこう悟った。自分にふさわしい芸術とは、形(フォルム)の実験にこだわることではなく、自分自身の魂の深みを表現することでなければならない。予感と不安、確信と疑い、自分はそこで「そのすべてを物怖じすることなく思いきってさらけ出す」べきなのだ。「最も外面的なものも、最も内面的なものも。敬虔さの優しいしぐさも、荒々しい憤怒の身振りも。」この芸術家としての覚醒体験以降、バルラッハの彫刻・素描・文筆活動は、「人間の存在の秘密」というただ一つのテーマをめぐってひたすら収斂していく。彼自身、この制作テーマを会話やメモ、書簡の中で幾度も確認している。1924年2月、あるジャーナリストの問いに答えて、彼はこう書いた。「私の不変のテーマは、人間の持つ神聖さだと言ってよいでしょう。より明確に言うなら、天と地の間にあって常に変わることを余儀なくされる、人間の状況のシンボルです。」

 結局は測り知ることのできない人間の「崇高な由来」の秘密を、造形や執筆を通じて追い求めるうち、彼は「何か別の存在のどうにも抗い難い力によって」創作させられていること、自分はその“道具”であって、「違う言葉や作品を使って同じことを言わされている」ことを実感した。現代の神秘家たる彼は、それゆえ自身の存在や芸術家としての本質を「暗い無意識の深淵の中に」探り、こう推測する。「私の作品はほぼ全て、生まれながらの語り部や体現者として生を受けた、この未知の暗闇の一部分にほかなりません。同様に、私の彫刻たちが、“どこから?”と“どこへ?”の間で思い焦がれている中間的な者以外の何者でもないことをわかってもらえるなら、もう何も言うことはないのです。」このような陳述が、バルラッハの膨大な書簡の中に一貫した主題のようにちりばめられている。

 その芸術性をよく現わしている彼の外観について、長年の友人であり後年遺品管理を務めたフリードリッヒ・シュルトがわかりやすく描き出している。「バルラッハは中背で体重は軽く、やせて脂肪がなかった。大きな眼とその下の涙のうは、既に初期の写真で修正されている。細い鼻、くすんだ顔色、貧相な顎ひげ。歩き方はさすらい人のようで、コートを左肩に引っ掛け、右手には杖を持って、大股で長い距離を散策するのを日課としていた。服装は気楽で質素。夏は薄手の、冬はウール製のコートを羽織っていた。」

 このどちらかといえばぱっとしない、やや風変わりな外観の裏には、きわめて複雑な人間像が隠れていた。知的で非常に感じやすく、予感の鋭い(“霊能力者[Spökenkieker]”という言葉が北ドイツにはある)、同時に生真面目で、神経質なまでに落ち着きがなく、しばしば気分に左右され、内気で疑ぐり深い。「バルラッハとつき合うのは簡単なことではなかった。」と、後年フリードリッヒ・シュルトは告白している。予告もなくやって来て彼の休息を妨げる者は、それを思い知らされた。あっさり門前払いを食らうだけだったからだ。しかし、友人や古い知人は、全く別のバルラッハと楽しい時間を過ごすことができた。来客を温かくもてなして食卓を囲み、活き活きと身ぶり手ぶりを交えて語り、大声で笑い、赤ワイン一杯で終わることなどなかった。そんな時には、写真では一度も笑ったことのない彼も、文章によく出て来る飾り立てた“北ドイツ的ユーモア”を披露した。それは“極上の”ユーモアというわけではなく、常にやや嘲りを含み、時に辛辣であった。もっとも、大体いつも無口でそっけない彼が、こうものびのびとしているところを見た者はほとんどいない。彼と親しかった人物といえば、幼なじみのフリードリッヒ・デューゼルや弟ハンス、従兄弟のカール・バルラッハを除いてごく僅かだったから。

 プライベートな生活面では、バルラッハは禁欲的と言えるまでに無欲だった。そして彼の住んだ家々もまた、無欲で全く飾り気のないものだった。1911年から1928年までの17年間、ギュストロウのシュヴェリーナー通りに息子・家政婦と共に住んだ家は、粗末な貸兵舎だった。出版人且つ友人のラインハルト・ピーパーが、その有様をある訪問の際記している。「殺風景きわまりない家だ。その一階にバルラッハは(中略)住んでいた。(中略)家具は母親が用意したもので、プチブル趣味そのものだった。バルラッハは“芸術家的”環境や“整然とした”環境などには全く無関心だった。」また別の時には、花模様の壁紙や壁に掛かった複製画についても伝えている。ずっと後、58才になった彼は、市街の門の前にある、伴侶マルガ・ベーマーの家に転居し、ベーマー家の屋根裏に独自の住居をかまえた。彼はそこを、絵画を詰め込んだ洞穴に一変させた。ハンブルクの一級建築士フリッツ・シューマッハーは、これを「中世の魔法遣いの世界のようだ。」と感じた。

 巷の人々が重要と思う事柄など、バルラッハには何の意味も持たなかった。というのも、シューマッハーが更に伝えるところによると、彼は入口の前に拡がる風景をこそ、本当の住家とみなしていたのだ。天候の許す限り、彼は来客をその空間へ招いて談笑した。また何よりも、広々とした空の下、たった一人でその中を散策した。そこに行けば、自分を駆り立ててやまない大いなる世界の秘密に近づける気がするからだった。彼の生活のリズムを定めるこの孤独な森の散策を、自然ロマン派のそれと混同してはならない。それは全く似ても似つかないものだ。なぜならバルラッハは、身を切る寒さ、吹雪、冷たい霧、土砂降りの雨、轟音を立てる雷雨、嵐の暗闇と、どんな季節のどんな天候の下でも、まるで月の輝く魅惑の夜のように散策するのだ。そこに探し求め体験したことを、彼は『ギュストロウ日記』や二、三の友人に打ち明けている。自然は雄大にしてその奥深さは謎に満ち、冷たく黙りこくったまま、じっと耳を澄ます彼を神秘的な信仰体験へと呑み込んだ。そこ、広い空の下で、彼は事物の結びつきの中に、いたる所に形なく存在する、無限で測り知れない隠れた神の似姿を数多く見い出した。例えば彼は、ブレーマー財団会長のフリーダ・シュトロムに宛てた1931年の手紙の中で、こう書いている。「私は前からずっと、創造主と被造物が一つであると感じてきました。造られたものは創造主の別の姿であり、成長の段階は鏡像であると。つまり流れていく永遠の一瞬間なのだと。物事の発生、消滅、堕落、忘却という推移の中にあっても、この一致は失われることがないのです。」

 エルンスト・バルラッハの生涯は、悲劇のうちに終わる。ワイマール共和国下の大成功の後、祝福すべき30年代が始まった。体力に衰えが見られたものの、彼の内面を表現する堂々たる創作の新たな時期に入った。等身大より大きい“物乞い”“風の中の女”“唱う人”は、リューベックのカタリーナ教会の正面外壁に設置する“聖人たちの饗宴”という彫刻群のために造った作品で、壮大なる一連の仕事の幕開けであった。しかし、この計画は他の計画と同様に、1933年1月30日のヒトラー総統の就任によって突如終わりを告げる。その数年前から、NSDAPは右翼団体と手を結び、ギュストロウ、マクデブルク、ハンブルクにあるバルラッハの有名な第一次大戦戦没者慰霊碑を「英雄的でない」「異民族的だ」と中傷していた。政権掌握後、第三帝国の芸術省は、彼等の目にドイツ的でなく不名誉と映ったものの取り壊しを押し進め、バルラッハの作品を公の博物館から排除し、彼を造形芸術部会から除名さえした。重い心臓病を患い、どんどん孤立していく彼は、1937年晩夏のミュンヘンにおける「退廃美術展」での弾劾の後、1年を生き延びるのがやっとだった。1938年10月24日、第二次世界大戦勃発の10ヶ月前、孤独のうちに力尽きた彼はロストックの病院で息を引き取った。

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(2)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(3)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(4)
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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(2) ~ 少年時代と学生時代:ヴェーデル、シェーンベルク、ラッツェブルク(1870-1888)

 第三帝国時代、エルンスト・バルラッハがユダヤ人だという再三の噂がまたも起こった時、友人たちは反ユダヤ主義者たちの報復の脅威を感じた。彼らはこの危機に対処するため、公的書類に裏づけされたバルラッハの家族歴の概要を公表した。これによって、バルラッハという姓の人間が、少なくとも1585年には北ドイツに在住していたこと、一風変わった響きを持つこの姓が、噂の発信者が言い張るようなバルクという旧約聖書の中の名ではなく、ニーダーザクセンの村バルラーゲ(或いはベルラーゲ)に由来すること、そして彼の近い祖先が、およそ200年前からシュレースヴィヒ・ホルスタインに居住し、そこで農夫、船乗り、手工業者、聖職者、法律家、医師、商人と、様々な生業に就いていたことが明らかになった。要約すれば、エルンスト・バルラッハは古くから北ドイツに根を下ろした一族の末裔なのである。

 バルラッハ自身の記憶は、父方の祖父、ゴットリープ・エルンスト・バルラッハ牧師(1803-1874)から始まる。祖父は、その職務のためシュレースヴィヒ・ホルスタインを転々とした。フーズムを皮切りに、ベイデンフレート(イッツェホーエの西方、今日のバイデンフレート)、ヘルツホルン(グリュックシュタット近郊)、ズューゼル(オイティン近郊)、そして、ハンブルク近郊のバルクテハイデに至って、この精力的な牧師はようやく身を落ち着かせる活動場所を手に入れた。彼の6人の子供たちは、ここバルクテハイデの牧師館で、福音的精神と芸術活動を含む教養ある市民的伝統の下に、心おきない子供時代を過ごした。「二、三のスケッチや絵画や詩を描いたところで、家族の中では少しも目立たなかった。」と、家族一の著名人は後年『自叙伝』の中で愉快気に注記している。中でも、バルラッハ6姉弟最年長のフリーデリケ・バルラッハ(“フリーデ伯母さん”)は、イーゼルを前に相当の野心を燃やした。甥は同じ項で次のようにもらして片目をつぶる。「フリーデ伯母さんは色を使いまくってカンヴァスを台無しにした。そして額に入れたカンヴァスを、壁、居間、玄関、その他嫌と言えない者の部屋すべてに飾って家中を台無しにした。」芸術への野心においては、フリーデ伯母の妹エルネスティーネ(“エルネ伯母さん”)もまた、大いに自負するところだった。甥がちゃめっ気たっぷりに続けるように、生涯にわたり「従順な紙の上に、慎ましくまじめに色を塗り込んていった。」

 バルクテハイデ牧師館のキリスト教的環境はまた、子供たちの職業選択にも影響を及ぼし、よってゲオルク・ゴットリープ・バルラッハ(後年バルラッハの父、1839-1884)は医師の助手となった。委ねられた患者たちに対して献身的に尽くす様子を、息子は後年『自叙伝』に温かく描いている。父は「古いタイプの医者ではなかった。そして、患者の傍らにいると、凍えている馬も御者も子供のことも」忘れてしまった。それゆえ、父の惜しまぬ献身と誠意は、彼の眼には常に「善い行いの見本」、感動的な手本と映るのだった。

 町の開業外科医としての仕事を、ゲオルク・ゴットリープ・バルラッハはシュレースヴィヒのザトルプで始めた。同じ頃、アルトナの税関助手の娘で、魅力的で活発なヨハンナ・ルイーゼ・フォラートは、地元で家政の学習を終えた。息子の回想によれば、「どちらかといえば小柄で頭脳明晰、情熱的な黒い巻き毛の紳士であった」若き医師とかわいい家事手伝いの娘は、明らかに互いを気に入った。なぜなら、と彼は続ける。「村の牧歌的装いは、いつしかその最盛期を迎えていたから。そして、その最後のバラが開いた茂みの背後には、思いがけなくも結婚という道が敷かれていた。」結婚式は1869年3月2日にエルベ河畔の小都市ヴェーデルで執り行われ、若い夫婦は町の市場に面した広い家に居を構えた。そして1870年1月2日、二人の最初の息子が誕生した。祖父ゴットリープ・エルンスト・バルラッハは、心を込めてその子をエルンスト・ハインリヒと命名した。長男に続く1年半後、次男ハンスが生まれた。彼は、気むずかしい兄にとって生涯変わらぬ友であり続け、相談に乗り、慰め、支援することとなる。

 家族が増える一方で、ヴェーデルのバルラッハ診療所には思ったように患者が集まらなかった。そこで、若き医師はもっと金になる活動場所を探した。1872年、バルラッハ一家はメクレンブルクの小都市シェーンベルクに転居し、同じ年双子のニコラウスとヨーゼフが生まれた。が、シェーンベルクでも若夫婦の期待は裏切られる。4年足らず後、1876年の秋に、今や6人家族となった一家は再び転居し、今度は島と聖堂の古都市ラッツェブルクに落ち着いた。長男は回想の中で、ここを真の故郷と呼んでいる。

 利発で想像力豊かなこの少年の中で、最初は遊び半分に、やがてどんどん重要なものとなって、以後の生活のリズムを作り上げていくことになる傾向は、湖と森と草原に囲まれたこの町で培われたものだ。それは自然の中で何時間も過ごし、様々な体験をすることである。そこで身に起こったことを、後にバルラッハは『自叙伝』の中で強烈に描写している。「キツネの森をうろついていた時、眼からうろこの落ちるような体験をした。心ののぞき穴を通して、森の深奥が思いもかけずすっと私の中に入り込んだ。私は、物事や現実をありのままに意識するようになった9~10才頃、何度も似たような体験をして圧倒されたが、これがその最初だった。」この種の体験が、不規則な間隔を置いて続いた。「ある夜、こんな[中略]時間だったろう、私は静まり返った人気ない家々と庭に面したベランダで、本から眼を上げた。夏の夜のほのかな薄明かりが一面を覆い、高いモミの木の梢が、ベニングゼンの庭から納屋の屋根へ合図を送っていた。その時私はある強い感情にすっかり心を奪われた。それはほんの一瞬私の中を駆け抜けただけで、意味も根拠もなかったが、おそらく何よりも強烈な体験だった。また別の時、私は大きな湖に面した島の北端、ギムナジウムの裏手で、こちらへ静かに漂ってくる風に吹かれていた。そして波が砕けて散る瞬間、同じような感覚に捕えられるのを体験した[中略]。」

 引用したような箇所を、空想好きな少年が後から詩的に回顧したものと片付けてしまうなら、その真意を根本から見誤ることとなるだろう。実は、バルラッハはすでに1916年4月、つまり『自叙伝』に取りかかる10年以上前に、彼の神秘的な幼少体験の物語る本質を、ある文通相手に書き示している。「私はといえば、最も強烈な体験をしたのは少年時代なのです[中略]! それを私は最近こう自己釈明しました。自分は時に激しい動揺、時に穏やかな気持ちに見舞われたが、こういった感情は、無意識の世界に潜む人生の秘密に関係があるとしか思えない。そしてその痕跡が、(恍惚でもなく、喜悦でもない、言い表しようのない)形をとって、意識の世界へ投げかけられたのだと。[中略]もしあの感情がずっと変わらずにいたなら、精神の誕生の瞬間とでも呼びたくなったかもしれませんが。いずれにしろ、そう言い換えるのが最適でしょう。繰り返しますが、私はかつてごく自然に、私に与えられたのは最も深遠且つ力強いものだったのだとおおむね認め、確信するに至ったのです。私という人間の根源はここにあります。これが私の土台であり、最も高みにあるものへの私の欲求はここから起こるのです。」この箇所が、バルラッハの生涯と芸術を理解する鍵となる。少年はここラッツェブルクで初めて、はるか高みにいる者の存在、眼に見える事物の背後にある人間の理解を上回る世界を確信した。成長するにつれ、これが彼の生涯と芸術を貫く基本テーマとなっていくのである。

 数々の神秘的な体験は、空想豊かな彼の無邪気な幼少時代に刻み込まれていった。バルラッハは、この幸福な年月を『自叙伝』に生き生きと描いている。当時の彼は飽くことなき「森の疾走者」、無我夢中で「一日中動きまわり、一年中はしゃいでいる」夢想家、そして家庭の温もりの中で、行動意欲と空想に思うがまま身を任せた、片時もじっとしていない子供だった。そして彼は、当時経験した尊い出来事を、細部にわたって記憶していた。「夢中になれる面白い本さえあれば」手当たり次第むさぼり読んだこと、自作の幽霊話で弟を虜にし震え上がらせたこと、人形芝居の「冒頭[中略]から進行、結末までを易々とこしらえ」情熱的に演じてみせたこと、腹を抱えて大喝采をおくる同級生の前で、嫌われ者の「牛顔」先生への仕返しに作った叙事詩を、嫌味たっぷりに披露したこと、そして、あふれんばかりの感激で豪華版『ハウフのメルヘン』から挿画を模写したこと。父がそれを診療室に掛けた後、ある農夫が感動してこう言ったものだ、「こいつはよっぽど賢い子供に違いねえな」

 エルンスト・バルラッハの幸せな学童時代に、やがて訪れる不幸の前兆となる愛する母の病気が襲った時、彼はやっと12才になったばかりだった。少女の頃すでに、ルイーゼ・バルラッハはつまらないことで怒りを爆発させては終日収まらず、周囲をぎょっとさせることがあった。治療にあたった医師によれば、この発作は結婚当初どんどんひどくなり、「ほんのささいなきっかけで、簡単に起こるようになった。」遂に、一旦始まると抑えがきかず「狂乱状態にまで」陥るようになり、若妻は「何時間も、稀に終日激しく不平を言い続け、口汚く罵り、大声を張り上げて暴れるのだった。」そんな病的な興奮状態に加わったのが、不眠、狭心症の恐怖、耐えがたい皮膚のかゆみ、ヒステリー性痙攣、そして「時折暴力を振るうことによる虚脱感だった。その周期は非常に変則的で、平均4~5日置き、2週間程度空くこともあった。」家族や使用人たちにとって、医師にも特定しようのない母の病的状態は重い負担だった。遂に状況は耐え難いところまで悪化し、1882年9月、バルラッハの父は、取り乱す妻をシュベリーンのベツィルクスネーフェン診療所に入院させなければならなかった。1年後、母は「完治した」として退院するが、これが誤りであることは間もなく判った。1年(1882年9月~1883年9月)におよぶ母の不在は、バルラッハ家の子供たちにとって、無邪気な少年時代の終わりを告げるものだった。幸福な日々が戻って来たのも束の間、9ヶ月後には大きな悲劇が続いたからだ。1884年5月のある夜、ゲオルク・バルラッハ医師は、患者の往診に出かけた折に引いた風邪が治らず、数日後には肺炎を起こしてしまう。病床に集まり協議した医師たちは、感染症が進行し手の施しようがないことを悟る。1884年6月3日、45才の若さで、病人は息を引き取った。

 父を失った一家に、過酷な窮乏の日々が始まった。夫の死後わずか数ヶ月の1884年秋、ルイーゼ・バルラッハは4人の幼子を連れてメクレンブルクのシェーンベルクに戻り、生活はますます苦しくなったが、以後「夫の傍らに留まった。」或いは、エルンスト・バルラッハが述べるように、「彼女は日一日と落着きを取り戻し、不安だらけの未亡人生活に健気に臨んだ。」その間、長男、続いてその弟ハンスは、シェーンベルクの中等学校へ通い始めた。

 のどかなシェーンベルクで、少年は初めて、芸術活動への強い衝動を感じた。『自叙伝』によると、当時彼はとてつもない力で「翼を揺すぶられ、限りなく拡がる大空に投げ出された。」もっとも、この時彼を魅了したのは、もっぱら詩や物語の創作だった。「私の創作の発作は、強い憤りをきっかけに呼び起こされる時もあれば、陽気でおどけた気持ちから起こることもあった。」その成果が、「顕微鏡で見るような小さな文字で」書かれた広大な旅行小説だ。ヨハン・ゴットフリート・ゾイメの有名な旅行記『1802年シラクス散策』に、未熟ながらも挑んだ作品だった。

 しかし、そんなロマンティックな空想に迷う一方で、彼の中で彫塑への関心が日に日に高まっていった。「私は誇らしげに、もったいぶった指使いで、ブナの薪から動物や葉っぱを彫り上げた。そして作品は暖炉の前に飾られた。」また、「向かいの石屋ブッシュさんの工房で墓石のかけらをもらい、あれこれと不恰好だが素朴な作品を作った。」教師たちもまた、少年の明らかな天分に気づいていた。その証に、「校長夫人より、まがいなりにもチェス盤用の小鳥の駒1ダースを作るよう求められた。」彼は、まず試作品で高評価を得た後、きちんと仕事をやり遂げた。エルンスト・バルラッハ自身回想の中で、まだ意識こそしていなかったが、びくびくしながら作ったこれら初期の作品が、自らの芸術家人生の第一歩だったとしている。「扉が開いた。そして、私はある仕事の世界へと優しく背中を押された。まだ知る由もなかったが、それが生涯にわたる職業へと発展することになった。」

 1888年初旬、未だ重大な決断がなされていなかった。勉強を続けるため、中等学校の卒業試験後の復活祭に、ギムナジウムへ進学すべきか。或いは、試験を生かした職業訓練の道を考えるべきか。間違いなく心が芸術の道へ強く傾いている今、画家か彫刻家になるべきか。が、「芸術家になるなどという考え」は、―― 『自叙伝』によれば ―― 当時は彼の射程圏外にあった。ではどうするか? 決心がつかず困り果てていた彼に、偶然助け舟が現れた。「シェーンベルクの聖歌隊指揮者の息子ヘンペルが、絵心のある私を、ハンブルクの工芸学校へ首尾よく世話してくれた。そこには“職業への”レールが敷かれていたが、たぶん私はあまり乗り気でないまま、その道を進み始めた。製図の教師も勧めてくれたし、私の後見人も、決して無謀な望みではないだろうという意見だったから。」こうして、「私は自分の意志というよりは、むしろ他者の意志に従っていった。無邪気な世界の扉が私の背後で閉じられた。」

 1888年の復活祭後間もなく、新学年が始まった。中等学校をトップで終えていた18才のエルンスト・バルラッハは、ハンブルクの一般工芸学校での職業訓練に進み、絵画と芸術の教師の道を目指した。学費は、さしあたり父の遺産のささやかな取り分の利息でまかなうことができた。

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(1)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(3)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(4)
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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(6)
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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(3)探し求めて~時代の風潮の中での自己探求と夢の終わり(1888-1906)

 これに続く18年間、卒業試験(1888)から芸術家としての真の経歴が始まる(1906)までの浮き沈みの年月を振り返って、エルンスト・バルラッハは「全く余分だった」と感じていた。―― 『バルラッハとの会話』という速記ノートの中で、友人フリードリッヒ・シュルトはこう伝えている。更に「私が36才までにしてきたこと全てに、喜んで別れを告げることができる」とも。この危機の時代について、彼は後年ただ苦々しく思い返すのみだった。当時の彼は疑念に苛まれ、成功への期待とあきらめの間で揺れ、自分にふさわしい芸術の内容や形式(フォルム)をむなしく捜し求めていた。

 苛酷な道のりの第一段階は、ハンブルク工芸学校における製図家と彫刻家の3年にわたる養成課程(1888-1891)、次いで名高いドレスデン芸術アカデミーにおける4年間の学習だった。どちらの学校も学科は厳しかった。生徒はまずスケッチと塑像の訓練を受け、輪郭や遠近法、ひだ取り、その他細部にわたり「しっくりくる」まで、有名な作品の石膏モデルを延々と模倣した。その後、上級クラスとマスタークラスに進むと、脈々と受け継がれる伝統芸術に属す偉大な過去の作品や、すぐれた同時代人の作品を手本に、与えられた課題やプロジェクトに臨むよう奨励された。修業当時の数少ない作品が物語るように、若きバルラッハは、実技に厳格なこの学校の中でも飛び抜けた技術を持っていた。複雑な製図や彫刻の課題も、彼は難なくこなしていく。学科から得た芸術上の収穫について、25才の彼は懐疑的だった。ドレスデン出身の名高い師ロベルト・ディーツのアトリエは、―― と彼は『自叙伝』に書いている。―― 彼に「何の感動も与えなかった。」

 ドレスデンにおける学生時代、バルラッハは何度も表彰された。ある出版社からは、建築家向けの本『人と動物のスケッチ』への挿絵を依頼されもした。しかし、卒業試験が終わればどうすべきなのか。確信もなく途方に暮れていた彼を、偶然が助ける。優秀な同級生カール・ガルバースが、建設中のハンブルク新市庁舎の回廊に設置する像を造ることを許可され、その作品が認められたため、パリ行きの奨学金をもらえることになったのだ。ヨーロッパの芸術中心地で、彼は待ち受ける大プロジェクトのために、より多くの像を造るつもりだった。着想が豊かで仕事熱心なエルンスト・バルラッハは、その助手を務めてくれるよう求められる。彼は二つ返事でこのチャンスに飛びついた。

 しかし、期待はすぐに裏切られる。1895年4月、初めてパリに足を踏み入れた彼の眼に、この街は素晴らしくもよそよそしく映り、住み慣れるのには時間がかかった。目的もなく、仕事上の好奇心と無関心の入り混じった思いで、彼は博物館や美術展をさまよった。が、そこで見たものは彼を冷やかな気持ちにさせる。至るところにある象徴派の作品は、彼には「全く馬鹿げたもの」と思えた。では、当時バルザック記念碑を手がけ、“カレーの市民”を完成していた彫刻界の革命児ロダンは? 「彼から受けたものはほんの僅かだった。そしてその僅かなものも私に対して何も成さなかった」と、彼は『自叙伝』に記している。

 バルラッハ自身は、街の西端、ベルサイユ湾近郊に、アトリエが集まるさびれた建物のひとつを借り、あれこれとやっていた。名高いアカデミー・ジュリアンで「不快で退屈な正統派作品」をデッサンしたり、遥かにやる気を起こして、通りや公園や墓地に出向いてスケッチしたり、絵具を使ってみたりもした。が、それでも満たされることはなく、あげくの果て彼は、ガルバースのために働く傍ら、奇妙な『幽霊小説』の執筆に時間を割いていた。しかしそれさえ、断片と挿話に終始するのみだった。1年以上が経過し、1896年5月にパリを去る時、バルラッハには惜しむ気持ちは全くなかった。後に、自伝の中で彼はこう回想している。「私は[中略]変わっていなかった。得たものはほとんどなく、忘れたことも何ひとつなかった。」そして1897年3月から7月、手に余る仕事を請け負ったガルバースから無理に頼まれて再びパリに滞在した時も、この否定的結論が変わることはなかった。

 帰国した彼はすっかりふさぎこんだ。テューリンゲンのフリードリヒローダに住む母の下に滞在した頃の優柔不断な心の様を、彼は著しい不快感を込めて『自叙伝』に描いている。この地で「絶望が私を襲った。自分自身に嫌気がさし、毎日自分を糾弾したり、非難したりしていた。」しかし、自己不信がどれほど大きくとも、浪費に明け暮れたパリ滞在の後では、この先の生活手段の決断にもう猶予はならなかった。他に選択肢を持たない28才の彼は、世渡り上手なガルバースと再度行動を共にする決意をする。ガルバースは当時、ハンブルク-アルトナの工房で仕事をしていた。多くの注文を受けていた彼は、エネルギッシュな共同経営者を欲していた。1897年11月、二人はアルトナ市庁舎の北側の切妻の飾付けに取りかかった。この大プロジェクトは翌年12月にみごとに完成する。その傍ら、二人はハンブルクの新市庁舎広場の飾付けを賭けたコンクールに臨んだ。これは予期せぬ大成功を収める。というのも、1898年11月8日、審査会は彼等に一等と賞金5,000マルクを授与したのだ。ところが、勝利のすぐあとに失望が続いた。終わらないすったもんだの末、さんざん待たされたあげくに、1899年4月、市政府は受賞プランを断念した。断りの通知に激怒した若きバルラッハは、こんな俗物都市には金輪際留まるまいと心に決める。彼は、友人フリードリッヒ・デューゼルに宛てた手紙に、吐き捨てるように書いている。「彫刻家はこんな街には住めません。ただし、片手間にやっている者や、芸術とは似て非なるものに従事している人間を除いて。」今後は独りでやっていこう、意を決して彼は、1899年9月ベルリンに移った。

 彼の初めての首都滞在期間は2年足らず(1899年10月~1901年6月)で、おおむね失敗に終わった。シュトラスブールのゲーテ記念碑コンクール用の下絵は発起人に不評だった。また、オールスドルフのハンブルク墓地(メーラー・ヤッケ墓碑)のプロジェクトは、遅々として完成に至らなかった。そこで彼は、生活費を稼ぐため、ユーゲントシュティール調のランプの下絵製作など、アルバイトを見つけなければならなかった。後年有名な芸術評論家となるカール・シェフラーは、当時のバルラッハをアトリエに訪ねた直後、その印象を新聞に好意的に描いている。「彼は神経質な熱血漢で、歯を食いしばりながら独自の芸術を求め奮闘している。[中略]彼は多くを望みすぎる。全部欲しがり、どこにも行き着かずに終わる。[中略]踊りたいのに踊りに行くことができず、厳粛な言葉を口にしたいのにその言葉が見つからない、そんな芸術がここにある。」もともと無理強いするものではない意欲を、ほとんど強迫的なまでに必死に奮い立たせていった結果は、シェフラーが後年回想録に記している。「表向きの失敗、内面の苦悩、そして病的な人見知りが、若きバルラッハを[中略]ある種の荒涼感で包んでいた。」1901年6月、バルラッハは募るわびしさにベルリンでの実験を打ち切る。そしてこの没個性的な大都市を逃れ、生地ヴェーデルをこそ安全地帯と固く信じて帰って行った。

 31才になっていた彼が、何よりも欲したものは静寂だった。その中でこそ、彼がずっと自分の中に感じてきた芸術的才能と独自性が開花するはずだった。実際さしあたっての状況は上々に見えた。ベルリンで始まったメーラー・ヤッケ墓碑は、ユーゲントシュティール調の格調高い作品として完成し、落成式が執り行われた。また、壮大なネプチューン群像も完成した。これは、実現しなかった市庁舎広場プロジェクトの埋め合わせに、彼と友人ガルバーズが、ハンブルク-アメリカ便の管理ビルに築くことを許されたものだ。が、これで大金の入る大口注文は終わりだった。がっかりしたバルラッハに残された仕事といえば、アルトナの学友リヒャルト・ムッツの製陶工場用に造っている、陶器の像やレリーフぐらいなものだった。しかし、どんなにやりがいのある仕事でも、ムッツ陶器等のアルバイト程度の収入では、生活を安定させるには程遠かった。1903年9月、若きバルラッハは、またも挫折を認めざるを得なかった。自分自身の芸術という夢は未だに実現していなかった。その代りに、と彼はその頃雑記帳に記している。彼は無一文でそこにいた。「自らの責任や運命のいたずらに悩み、落胆し、[中略]疲れ果てていた。[後略]」

 赤貧から逃れるため、必死の彼は1904年9月、ヴェスターヴァルトのヘールにある陶芸専門学校に、製図・絵画・彫塑の教師として就職した。そこは袋小路だった。働き始めてすぐ、彼はこの人里離れた片田舎で、芸術とは無縁の「8時間の単調で悲惨な」学校生活に耐え続けるくらいなら、飢えに苦しむほうがましだと思った。1905年8月、卒業して早や10年、35才にして、芸術家は他に選択肢もなく、思い切ってベルリンへ出た。

 それは悲劇の始まりだった。当時の記述は『自叙伝』の中でも胸を打つ。「事態は確実に悪くなっていった。私は地獄の中にいた。そこで自分が全く無用な人間であるという思いを打ち消そうと、日々格闘していた。私は小さなブロンズ像を出品し、それを見ようと展覧会場に出かけた。[中略]月並みだ。真実の響きが無い。少なくとも、私が見たいと望むものはそこにはなかった。[中略]そう気づいた時、全く無駄な苦労だったとがっかりし、心から嫌気がさした。」

 破局の兆しが現われた。「私はひどい無気力状態に陥っていて、朝ほとんど起き上がる気にもなれず、早々と10時にはまたベッドへもぐり込む始末だった。私は破産した。そして、人生の引き潮はすさまじい流れで引いて行った。エルベ川が強い東風で干上がるように。」ここに書かずにおかれたことがある。彼はこの絶望の数ヶ月、真剣に自殺を考えていた。待ち焦がれた成功はまたも訪れなかった。重要な芸術家になるという夢は実現しなかった。誰の目にも明らかな、むなしい芸術家生活はどん底に達していた。全てを決するこの瞬間、ある幸運な偶然がエルンスト・バルラッハの以後の人生の演出を引き受けた。

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(1)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(2)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(4)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(5)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(6)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(7)
エルンスト・バルラッハ年譜

 

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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(4)突破 ~ ロシア体験と新たな出発(1906-1910)

 1906年夏に、36才のエルンスト・バルラッハを危く引き裂くところだった深刻な葛藤の正体は明らかだった。どれほど努力を重ねても独自の芸術を確立することができなかった一方で、彼は自身の芸術上の理想や目標をはっきりと自覚していたのだ。実際彼は、すでに苦境からロシアへ脱出する前に、頭に浮かぶまま芸術理論を書きまとめたいくつもの短文の中で、芸術の特性および前提条件について明確に表現している。いわく、本質へと向けられた芸術は、見る者の中に、二つの形で実現されなければなければならない。「宇宙を感じるまでの飛翔」そして「神を感じること」である。従って、真の芸術家は、作品を「太古、神話ができ上がっていったような感覚で」形造るのだ。なぜなら、「あらゆる事物は神話的であると言うことができるのだから。また、こうも言える。[中略]永遠なるものが人間の魂に向かって話すような雰囲気を汲み上げること。」芸術上の形(フォルム)に関して言えば、そのように重要且つ魂に根ざした芸術を単独で成立させ得るためには、二つの基準が満たされなければならない。単純であること、そして壮大であることである。なぜなら、「単純化と壮大感だけが、不滅の理念を私に与えるのだから。」バルラッハは結論づける。この原則に基づき、真の芸術はどれもその本質的な特徴を明らかにすると。「もし芸術家が、神秘的なものを知り尽くしたものの姿に[中略]形造るなら、彼は日常のものを通して、それを永遠へと高めたことになる。」また、別の表現も見られる。「不滅の理念をあらゆるものの中に見出すことによってのみ、問題になるものが見える。」

 このヴィジョン、神秘的なものに根ざした単純かつ壮大なる芸術という、未だ叶わぬ夢が、希望を失ったエルンスト・バルラッハを駆り立てていた、そんな時、弟のニコラウスがベルリンの「地獄」に彼を訪ねてきた。何年も前にアメリカに移住し会社経営に成功していた弟は、よりよい暮しを求めて、バルラッハ4兄弟の次男ハンスが第二の故郷に定めたロシアのハリコフへ進出しようと思っていた。彼の狙いどおり、このもくろみには勝算があった。エンジニアであり暖房技術のエキスパートであるハンス・バルラッハは、当時家族一の成功者だったからだ。ハンスは1903年、多くのドイツ人が住む南ロシアで冒険に打って出た。機械製造と暖房設備の小さな会社を立ち上げ成功させたのだ。彼はそれによって自立を果たし、ささやかな財をなしていた。地歩を固めたこの兄弟の元でなら、―― 少なくとも一時的には ―― 安心して腰を落ち着けられるはずだ。家族の温もりがあり、具体的な援助にもありつけるだろう。それゆえ、ニコラウスにとって、気落ちした兄エルンストを誘い出すのはたやすいことだった。1906年8月2日の深夜頃、二人は列車に乗り込み、ワルシャワとキエフを経由してハリコフに向かった。

 その翌朝と続く数週間の劇的な心の変化を、感極まったエルンスト・バルラッハは後年、何の虚飾も加えず「啓示」と表現した。ほとんど讃歌に近いその報告は、『自叙伝』の感動的なクライマックスとなっている。「ワルシャワからヴァイクセルを経由して次の駅に向かった時には、既にこの上ない覚醒の喜びに心が揺さぶられていた。もっともそれも、苦悩に満ちた死の痛みを忘れさせるものではなかったが。刈入れを待つばかりになった畑が、私を待っていてくれるように見えた。私は思った。見よ、外なるものも内なるものも、全て限りなく現実なのだと。―― そして、発熱や絶え間ない兄弟げんかで煩わせられながらも、私は[中略]町の中で、草原に出て、見るものすべてをむさぼり、せっせとかき集めた。別の発熱に頬を紅潮させながら。それは気候のせいではなく、もともと抗う術のないものに完全に餌食にされたことから発する熱だった。警戒心や違和感を覚えるものではない。全てが私にとって、慣れ親しんだ懐かしい知らせのようだ。眼に見える形で差し出され、私の喜びや願いに無条件に適うよう用意されていた。形(フォルム)? ―― ただ形だけ? ―― 違う。とてつもない認識が私に起こった。それはこうだ。お前は、全てをお前のものにしてよい。最も表面的なものも、最も深奥にあるものも。敬虔な優しいしぐさも、荒々しい憤りの身振りも。ためらうことなくさらけ出してよいのだ。なぜなら、地獄的な天国と呼ぼうが、天国的な地獄と呼ぼうが、その全てに表現がある。ロシアでは、既にその片方あるいは両方が現実となっている。

 8月5日、旅人たちはハリコフで兄弟ハンスに温かく迎え入れられた。以後、強く心を掻き立てられたエルンスト・バルラッハは、どんなチャンスも見逃すことはなかった。不安で一杯ながら、「途方もなく心が掻き乱される状況」は消え去ったのかもしれないと、彼は新たに掴んだ確信を、へとへとになるまで試みた。スケッチブックを手に、彼は町や草原を飽くことなくさまよった。特に彼を魅了したのは人々だった。喜び、苦しみ、幸運、絶望、夢、現実回帰、敬虔、そして抵抗など、感情をありのまま身振りに表わす素朴な人々であった。そしてこの身振りは、彼らの元始的な衣服の下でアルカイックな彫刻へと凝固し、洞察の優れた観察者の眼には、人間の謎を表わす比喩的なシンボルとなるのだ。これは突破であった。たゆまずスケッチを続ける中、彼はロシアの農夫や羊飼い、市場の女や物乞い、僧侶の姿に、かつて頭に浮かんだ神話的な芸術モデルを認め圧倒された。何年も後、1920年10月に、いとこのカール・バルラッハに宛てた手紙の中で、彼はこの認識についてこう要約している。「私はロシアで、内なるものと外なるものとの驚くべき一致を発見しました。この象徴的なものを。つまり、私たち人間は、基本的に皆物乞いであり、問題を抱えた存在なのです。だから私は形造らなければならなかった、私が見たものを[後略]。」しかし、バルラッハのロシア体験の本質は、ただ人間との出会いだけにあるのではなかった。この数週間で、更に大きく強い印象を与えたのは、ロシアの風土との遭遇であった。徐々に明るくなる地平線の間に拡がる大草原を軽馬車で横切っている時、厳かな気持ちで心打たれた彼は、永遠がまさに一つの形をとってそこに存在していると感じた。境界がないということ、実体がないということを自ずと体験したのである。この体験は強い衝撃となって彼を揺さぶり、彼が力説する神秘なる神、即ち遠く漠然と謎に満ちているが、至るところに在って影響を与え続ける存在の、核心をなす要素となっていく。彼の死後、友人たちが『ロシア日記』と題して出版した断章の中で、バルラッハは、草原の旅の途上、ひっきりなしに姿を変える南ロシアの空の下、抗い難い力で彼に迫ってきたもの、即ち永遠を表わすシンボルを立て続けに感じたことについて、素晴らしい比喩を用いて描いている。

 9月28日、8週間の不在の後、バルラッハはベルリンへ帰った。そして、突然すべてが一気に進み始める。翌年始め、彼はロシアからインスピレーションを受けた二つの作品を造り、ベルリン分離派の第13回展覧会に出品した。“盲目の物乞い”と“皿を持つロシアの物乞い女”である。うわ薬をかけた陶器の像を、彼は旧友リヒャルト・ムッツの工房で焼いてもらった。ベルリンの芸術家や芸術評論家は、この見馴れない彫刻に対して、主として興味や好感を示した。後年バルラッハは、『自叙伝』の中でこの新しい経験を振り返っている。「醜く肥満した物乞い女と、嘆き祈る物乞い、この二つの可愛い像について、間違いなく強い発言力を持つ数人の人物が賛意を示してくれた時、私はほっと一息つき、心地よいめまいを覚えた。」それらの人々の一人に、既に触れた評論家の大御所カール・シェフラーがいた。彼は、このロシア帰還者の新しい解放された芸術を、長い評論の中で的確に特徴づけている。「ここには、作品の題材を前にした芸術家の動揺が込められている。が、この人間としての体験が、一つの芸術的形(フォルム)を成立させたのだ。」これは、以後バルラッハの作品全てに当てはまることとなる。

 続く年月、ロシアからインスピレーションを得たバルラッハの更なる仕事は、同業者や鑑賞者にますます好ましい反響を引き起こした。当時バルラッハの並外れた天分が自ずと知れ渡っていた人々の中に、著名な動物彫刻家アウグスト・ガウルがいた。才能ある若者に惜しみない支援をおくっていた彼は、このベルリン芸術界の期待の星を、有力な美術商である友人パウル・カシーラーに紹介した。彼は、食らいつくように仕事をするエルンスト・バルラッハに、ある魅力的な申し出をした。彼の作品、既に完成したものはもとより、将来造るものまで全ての委託販売を行い、毎月の固定給を約束するというものだった。最小限の生活が保障されれば、今後は気兼ねなく仕事に打ち込むことができる。バルラッハは承諾し、続く仕事の集中期への流れをつかんだ。この時期を通して、彼の名はたちまち後世に残るまでになるのである。それでも、この飛翔は決して円滑に進んだわけではなかった。ロシア体験から測り知れないインスピレーションを汲み上げ、選んだ道を首尾一貫進み続けた彼も、更に一年余、深く刻まれたユーゲントシュティールの影響を払拭するために格闘せねばならなかったのだ。

 最も頭を悩ませる問題は、プライベートな人間関係から生じた。しばらくの間彼のモデルを務め、恋人でもあったお針子の娘が、8月20日、つまり彼がハリコフに滞在している間に男児を産んだのだ。しかし娘はその後、子供の父を棄て、別の男に心を移す。子供を母親に任せておく気のなかったバルラッハは激烈な訴訟を起こす。激しいごたごたの末、彼に有利な判決が下る。1908年12月、プロイセンの法務省は遂に、血縁である父親に2才になっていた息子ニコラウスとの養子縁組を認め、それをもって子が嫡出子であると宣言した。仕事の虫で家庭的なことには全く疎い芸術家にとって、この出来事は重荷であった一方で、神秘的と言ってもよい父子の結びつきの始まりでもあった。それを彼は、最初の戯曲『血の叫び』(最終的に『死せる日』と改題された)の中で、父―神/人間―息子という宗教的な関係にまでに高め、非常にくせの強い文体で現代の神秘劇として描くこととなる。

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(1)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(2)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(3)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(5)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(6)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(7)
エルンスト・バルラッハ年譜

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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(5)ギュストロウの隠者(1910-1927)

 ロシア旅行で情緒上・認識上の嵐を体験した後、バルラッハのベルリン生活への復帰は一層やっかいなものとなった。頭に残るイメージの数々を忘れてしまうことへの不安から、彼は進んで独りになり、時に超人的なまでの仕事のノルマを自らに課そうとした。当時この芸術家は、―― と、有名な芸術評論家カール・シェフラーは回顧録に記している ―― めったに外出することもなく、いかなる人づき合いも控え、できれば人と顔を合わすことすら避け、要するに「大都会のど真ん中で、世捨て人のように」暮らしていた。それに加え、2才の息子ニコラウスのことも気がかりだった。1908年の判決が確定して以来、彼は一人で幼子に対する責任を負っていたのだが、この重荷は実生活に疎い芸術家の神経を参らせた。シェフラーの見解によれば「彼はあらゆる経験に欠けていた。子供に衣服を着せることも、正しい食事を与えることも。」
 
 結局彼は疲れ果て、この二重の負荷を持ちこたえることができなくなった。そこで破局を回避するため、遂には友人や後援者たちが窮地から救い上げてやらなければならなかった。1908年11月9日、マックス・リーバーマンは愛弟子のため、同僚でフィレンツェのヴィラ・ロマーナ財団設立者マックス・クリンガーに、イタリアへの研究助成金を依頼した。「親愛なるクリンガー、今日は献金袋を手にお願いに来ました。ヴィラ・ロマーナにひとつ空席はないでしょうか。あの彫刻家バルラッハのことです。私たちは皆、彼には並外れた才能があると思っており、その発展のため、フィレンツェ滞在は大いに役に立つでありましょう。バルラッハ自身の現状を考えると、早急に手を打つ必要があります。もしも目下研究助成の余地がないなら、せめて彼を空いているアトリエで雇ってもらえないでしょうか。バルラッハの才能を維持することが肝要なのです。資金については、(もし他に方法がないなら)我々が調達しましょう。」この手紙が発する張り詰めた雰囲気は、バルラッハ自身が旅立ちの前夜、あるハンブルクの友人に別れの便りで言い切ったように、決して誇張されたものではなかった。ベルリンをしばらく離れる決意をした彼は、「私を危うく絞め殺そうとしていた束縛を断ち切ったのでした。」彼が心おきなく旅立つことができたのは、その少し前から、メクレンブルクの小都市ギュストロウに住む双子の息子の片方の家事を預かっていた母が、幼い孫ニコラウスの世話を進んで引き受けてくれたからだった。
 
 1909年2月3日、バルラッハはベルリンを発った。4~5日後、ヴェローナに立寄った後、彼はフィレンツェに到着し、ヴィラ・ロマーナの増築部分にある広々としたアトリエ付の部屋に入居した。見上げれば、のどかな風景の中に街が垣間見え、なだらかな弧を描いてトスカーナの丘が続く。そんな環境は彼にたちまち仕事への意欲を甦らせた。2週間もすると、今や日常の心配事から解放された彼は、イタリア・クルミの木の巨大な塊にのみを入れ始め、数週間後には壮大な“大酒飲み”を完成させた。復活祭を迎えるまでに、この作品はベルリンへ発送された。その間、更に二体の巨大な木彫りの像、立っている人物とかがんでいる人物の“占星術師たち”が既に形を現わしつつあった。その傍ら、数ヶ月の間に数え切れない下絵や相当数のデッサンを書き上げた。これは『国王のドラマ』という戯曲用の下絵ならびに本文の断片であったが、未完に終わっている。

 こうして、バルラッハの芸術家としての希望が実現した一方で、彼のフィレンツェ滞在全般には葛藤がつきまとっていた。なるほどこの人見知りの北ドイツ人も、ヴィラ・ロマーナや、とりわけ著名なドイツ人作家たちが出入りするカフェ・ライニヒハウスで、注目に値する話し相手と遭遇することもあった。例えば、彼の目に天才と映った詩人テオドール・ドイブラーとはここで知り合った。彼はボヘミアンであり、巨漢の「快男児で、[中略]この上なく知性があり、シェークスピアのような気性を持っており」間もなく強い友情で結ばれることとなった。また、同様に個人的な親交を結ぶようになったのは、言葉を意のままに操る歴史哲学者で「保守革命」を予言したアルトゥール・メーラー・ファン・デン・ブルックである。物事の感じ方や信念が似ていた二人の交友関係は、生涯にわたって続いた。
 
 その一方で、この根っからの北ドイツ人には、この国に心底から馴染むことができなかった。彼もイタリアをこの上なく美しく歴史にあふれる国と感じてはいたが、それでも彼の特質が花開くことはなかった。「私には、この地の人々が響いてこないのです、」後援者グスタフ・メーラーに宛てた長い手紙の中で、彼はこう告白している。確かに、フィレンツェを感嘆のあまり「宇宙」と呼んだり、シエナやピサ、ルッカやピストイアらの街々を、その「壮麗さ」もろとも褒めたたえている手紙も数多い。しかし、最後に残るのは馴染めなさであり、ほとんど強情なまでの北方への思いであった。「全くもってギュストロウは、トスカーナの街に匹敵する素晴らしさだ」と、イタリアから帰った彼は、あるハンブルクの友人に断言する。「私の北方人的感覚や情趣には、ここの大聖堂や教会の方が、大理石の聖堂よりもふさわしい。[中略]そうだ、我々の文化にとって、困った兆候ではないか、誰も彼もがイタリアに出没するというのは。」
 
 旅立ちから10ヶ月後、1909年11月15日、バルラッハはベルリンへ戻った。そしてまたしても、あの感動的なロシア旅行からの帰国直後のように、新たな出発は問題含みだった。多くの仕事を成し遂げたフィレンツェの静寂とは打って変わって、スキャンダルまみれな大都市の騒々しいきらびやかさは、彼にはあらゆるものを食い尽くすモロク神のように感じられた。一方で、ルイーゼ・バルラッハがその間、城からほど近い大きな住居に孫と共に引っ越していたギュストロウは、静かなオアシスのように思えた。彼の中に、労働時間をベルリンとギュストロウとに分割しようという考えが芽生え始める。「私は」と、彼は1910年5月、ミュンヘンの友人である出版人ラインハルト・ピーパーに宛てて書く。「こんな風に強く感じています。何とかして夏の間だけでもここで仕事をしようと。息子はもう私の腕からすり抜けられるほどになっていますし、私は母親から彼を奪い取っているのですから、人並みの父親としての心配事に耐えなければなりません。それに、今の私にはわかります、この地でなら、ベルリンにはなかった規則正しい作業時間が手に入ることを。そして、自分が表向きにもある程度安定したいという強い欲求に、もはや屈せざるを得ない年齢になっていることを。」しかし、バルラッハがギュストロウに移り住んだのは、息子と仕事環境のためだけではなかった。数年前、彼は自分が思い描く芸術にふさわしいモデルを、ロシアの素朴な人々の中に遂に見出していた。あの絵画のような姿が徐々に薄れゆく今、この田舎町で、故郷北ドイツの至るところで目に触れる、同じく素朴な人々に彼は出会った。農夫、町農夫、耕作人、森の労働者、羊飼い、市場の女、―― 素朴な彼らのがっしりと力強い姿を通して、彼が目指すものが、まさにロシアで見た神話的・根源的なものが、微かな光を発していた。心を引きつけたその魅力、そのアルカイックな姿について、彼は従兄弟のカール・バルラッハに、ある手紙の中で解説している。「[前略]ここには時代遅れの、しかし健全な原始性があったのです。田舎の生活は、この最も貧しき者たちに高貴なフォルムを授けました。人々は孤独で、ばらばらで、力もなく、既に居ながらにしてどこか彫塑的なものを持っています。」

 当初バルラッハは、1910年の夏だけをギュストロウで過ごす計画を立てた。そこで既に出版が決まっている最初の戯曲『死せる日』のためのリトグラフを仕上げ、挿絵として使うつもりだった。しかし、その作業に打ち込むうち、このままここに留まろうと決意する。ベルリンでは、こんな馬鹿げた思いつきは即座に打ち消したものだ。だがバルラッハは、大都会からの脱出を真剣に考えていた。肩の荷を降ろしたように、彼は出版人の友人ラインハルト・ピーパーに伝えている。「ここでは、きっちりと規則正しい時間を仕事に当てることができるでしょう。ベルリンでは考えられないことです。」1911年10月初め、祖母、父、息子の小家族は、シュヴェリーナー通り22番地(現在は40番地)にある、四部屋の広い平屋建ての家に移り住んだ。そして間もなく、バルラッハはその近くに、当時なんと馬小屋として使われていた簡素な仕事場を借りた。やや姿は変わったが、それは現存している(現住所はツー・デン・ヴィーゼン通り30番地)。晩年に書かれた未完の小説『盗まれた月』に、バルラッハはこの“アトリエ”とその中にいる自分自身を、やや嘲りを込めて描いている。「そうこうするうち[中略]馬小屋に日が暮れた。そこは、かつては家畜商人が、今は墓掘り人の様相をした男が借りていた。男は少し前からここに住み、[中略]木彫りの仕事に携わっていた。彼はその職業を、裏庭に面した、陽光がたっぷり降り注ぐとは言い難い窓の背後で営んでいた。彼は木材を叩き割り、時たま丹念に石膏を溶き、[後略]。馬小屋の飼葉桶[中略]は、時代遅れのいくつもの駄作であふれ、また、かつて馬が干し草やオート麦をむしり取っていた格子も物で埋まっていた。格子は高い位置にあり、彼が裏庭に面した窓辺で小屋の敷石を覆うようにセメント板を敷きつめ、脚立と踏み台を安定させるには打ってつけだった。」ここ“馬小屋”で、第一次世界大戦の勃発に至るまでに、彫刻家バルラッハの名声をたちまち不動のものとする数々の作品が生まれる。その多く(“悩める女”“杖を持つ老女”“悲嘆する人”“村のバイオリン弾き”など)は明らかに、彼が街道や堤防沿いの道で、市場や野原で出会いスケッチした、メクレンブルクの住人を手本に生まれたものだ。その他(“孤独な人”“幻”“恐怖におののく人”“見捨てられた人”など)は、作者の心理状態や内的体験、心模様を映し出している。加えてこの初期ギュストロウ時代には、友人や知人をみごとに描写した、一連の肖像彫刻が造られた。その中には、有名な女優であるパウル・カシーラー夫人ティラ・デュリューの胸像や、友人の詩人テオドール・ドイブラーの頭部とマスク、美術商アルベルト・コールマンのマスクなどがある。
 
 そして夜になると、バルラッハは自宅でスケッチをしたり、戯曲や散文の執筆をしたりして過ごした。1910年6月中に、彼は初めての戯曲『死せる日』を書き上げる。彼自身が運命のように感じた父/子の関係を、神秘的/宗教的関係、父 ― 神/人間 ― 息子という関係に置き換えた作品である。この戯曲の陰鬱な比喩などに潜むのは、人生行路における人間の使命という命題である。虚ろな現世(作品の中では大地と結びついた母の存在に象徴される)から脱し、謎に満ちた父 ― 神の啓示に従い、明るみへ、魂と自由の世界へ飛翔するという、人間がほとんど見過ごしてしまう使命である。(「奇妙と言うほかはない、人間は自分の父が神であるということを知ろうとしないのだ。」)
 
 『死せる日』完成の一年半後、1913年1月、バルラッハは全く異なるスタイルの作品に取りかかる。エルベ河畔が舞台の『ゼーシュペック』である。彼自身重苦しいと表現するテキストは、ヴェーデル時代の自叙伝的色合いが強く、第一次世界大戦勃発によって行き詰まり、詩人の散文大作の全てがそうであるように、断片を残すのみに終わった。

 静かで日増しに単調になるギュストロウでの仕事の日々の中で、彼の彫刻、素描、詩といった作品は急速な発展を遂げていく。初めは個々の人物を表わすのみだったバルラッハの彫刻は、やがて年々一層超個人的、普遍的な性格を帯びていく。もはや一人の人間ではなく、一つのテーマであった。この発展のきっかけは、第一次世界大戦という大禍の経験であった。1914年8月の大戦勃発を、バルラッハはドイツのほとんどの芸術家や知識人同様、最初は熱烈に歓迎した。その熱狂が生んだと言ってもいい『ギュストロウ日記』の中で、また手紙の中で、彼は高揚する気持ちを思うがまま解き放っている。「こんな時局に仕事などやっていられるものか。とどのつまり、この時代を寝過ごしてしまわないでよかった。私の感じるところ、これは個人の終わりなきエゴの悩みからの解放である、即ち民族の広がりと上昇である。」そして更に熱はこもる。「8月1日以来続いている出来事は、素晴らしい恋のアヴァンチュールとでも言うほかない。こんなにも心震え我を忘れてしまえるのは喜ばしい限りだ。この大いなる出来事は現実のものであり、単なる想像の産物などではない。初めの数日間、私は拡大していく状況の中で眠ることができなかった。」

 この「嵐が荒れ狂うような気持ち」の中で、彼は同様の気分にあった友人で美術商のパウル・カシーラーの綱領的な『戦時』誌のために、リトグラフで一連の人物作品を造り上げた。しかし、1916年2月まで志願予備兵として(現在はデンマーク領の)ゾンダーブルクで自ら兵役に就いた熱烈な戦争支持者の彼にも、その後程なくして、この事件の悲劇的な次元が徐々に見え始める。1915年末にカシーラーが『戦時』を休刊し、代わりに1916年4月、当たりさわりのないタイトルの『画の人』を発刊した時、バルラッハの寄稿文に見られる思想上の転向は火を見るより明らかだった。「聖戦」「突撃」「マズーリの脱穀者」などの代わりに、今や彼の原稿に並ぶのは「現代の死の舞踏から脱し」「慈悲深き者は幸いである」「Dona nobis pacem(我らに平安を与えたまえ)」などの文であった。

  ドイツの降伏は、極めて保守的で民主主義嫌いのバルラッハを、深く人格に至るまで揺さぶった。それは測り知れない精神的打撃であり、その後の彼の作品に暗い陰を落とし続けた。以後、彼の描く人物は悲劇性を秘め、どこか普遍的な性格を帯びるようになる。1916年から1919年の、苦痛を訴え告発する木彫作品の数々 ―― “凍える少女”“埋葬”“復活”“山越え”“リンゴ泥棒”“枷をはめられた人”“モーゼ(立法者)”“拷問を受ける人類”“火あぶりの魔女”―― は、ある進化の始まりを示している。それは10年後、壮大なる記念碑および慰霊碑群の制作により、頂点を迎えることとなる。
 
 しかし第一次世界大戦の大禍は、バルラッハの造る人物の性格を一変させたのみならず、彼の宗教に対する考え方をも転換させた。以後彼は、神の認識において一層強く確信する、測り知れない神と人間の存在の意味の間には、より深い関わりがあるのだと。なぜなら ―― と、バルラッハは今や固く信じる、―― 姿を持たない神の謎に満ちた力は、我々全ての中に在って働く。そして土塊である人間を静かに、しかし抗い難いほど強く、より高い精神的存在へと押し上げるのだ。変化し純化したこの力が開かれ、自分自身を超えて到達するものこそが、人間の存在の最も深い意味である。それが個々人のあらゆる痛みや苦しみを純化し、「存在の偉大なる調和のために不可欠な要素」たらしめるのだ。―― 彼は1925年4月、姪のグレートヒェン・パライト宛ての手紙でこのように書いている。
 
 バルラッハは、運命に身をゆだねた人間のこの自己超越を、ニーチェの概念にならって人間の「生成」と名付け、自らの世界観の鍵として芸術上の主題に据えた。それゆえ、彼の造る像の多くは生真面目さ、静かな忍耐や悲劇性、憧れや痛み、絶望といった特徴を持つ一方で、悠然とし、内的輝きを持ち、解放されている。そしてこの「人間の生成」というテーマが、彼が深く掘り下げた二つの戯曲の主題にもなったのも偶然ではない。舞台劇『哀れないとこ』(1919年刊)と『青いボル』(1926年刊)である。後者の登場人物と舞台は、ギュストロウの小都市生活から取られており、その壮大なラストシーンは、ギュストロウ大聖堂の中で展開する。
 
 ギュストロウで芸術家としての新生活を築いた後、ドイツにおける彼の名声がいかに一気に高まったかは、数々の名誉職への任用が物語っている。イタリアからの帰国後間もない1911年11月、彼はベルリン分離派の幹部に選出された。そのわずか半年後の1912年5月、ケルンの「西ドイツ芸術愛好家および芸術家特別連盟」が、ある展覧会を開幕する。その主催者は来訪者に対し、近代芸術の成立史として見苦しい作品を提供するわけにはいかなかった。このような使命を持つ展覧会の広い会場に、バルラッハの彫刻がエドゥアルド・ムンクの絵と並んで展示されるのは、まだ知名度の低い芸術家にとっては並外れた栄誉であった。更なる名誉は、まだ戦争が終局にあった1917年11-12月、パウル・カシーラーがベルリンの自分の画廊に、ロシア旅行以後造られたバルラッハの全作品を展示したことだ。1年足らず後、1919年には、名高いプロイセン芸術アカデミーが、エルンスト・バルラッハを会員に選出する。更に同年、ドイツ芸術大学も彼に賛意を示す。ベルリンおよびドレスデンに教授として招聘した上、ロストック大学の名誉博士の称号を贈ると申し出たのだ。しかしバルラッハは、これら魅力的な提案を全て辞退する。彼は、称号や名誉や公への登場などのささやかな代償によって、ギュストロウの静かな仕事場を手放す気にはなれないのだった。しかし、終戦後の数年で賞讃と共感を増したのは、彫刻家バルラッハだけではなかった。劇場もまた彼に興味を持った。終戦後一年目には、彼の二つの処女作が初演される。1919年3月20日ハンブルク室内劇場における『哀れないとこ』と、11月22日ライプツィヒ劇場における『死せる日』である。そして2年後の1921年3月23日には、再びハンブルク室内劇場において、ギュストロウを舞台とした第三作『真のゼーデムント』の上演が続く。またその数日後には、ベルリン大劇場においても、レオポルド・イェスナーの演出により上演される。このベルリン公演は、バルラッハが自作を舞台にかけた中で、唯一トラウマになる体験をしたものとして注目に値する。イェスナーを有名にしたその強い様式的演出と舞台装置は困惑を呼び、拒絶され酷評されたため、彼の繊細な神経に後々までの動揺を与えたのだった。この「壮大且つ様式的な探究」以降、彼は生涯にわたり、この劇場での戯曲の上演を避けるようになる。
 
 バルラッハ芸術の空に星が高く昇った一方で、彼の私生活には暗い影が落ちた。何年も彼のために家事と孫の面倒をみてくれていた母の、おぞましい心の病は、数ヶ月来ますますひどくなり、1920年8月2日、主治医の勧めにより、彼は75才の母をバート・クライネンの神経療養所へ連れて行かねばならなくなった。その地で三日後、老母はシュヴェリーン湖の湖水に身を投じた。母の病苦と自殺は、息子に苦しい自責の念と一層深い孤独感を残した。絶望的な気持ちにかられ、彼はある友人にこの惨めな状況を書き描いた。「母の長年の病、いや、死に向かう数ヶ月、そして[中略]その死の状況が[中略]私自身を心底痛めつけました。私は惨めで、一人の人間として何の責任も果たしていなかった[後略]。仕事中は考えないでいることもできます。もちろん、私は働き、働いてきました。しかし、克服する力も意欲も湧いてくることはありません。より強大なものとの虚しい格闘です[後略]。」
 
 そして一年後の1921年9月、バルラッハの生活はまさに混乱の淵にあった。苦い孤独感のうちに、彼は後年彼の遺産管理を務めるギュストロウの友人フリードリッヒ・シュルトの妻と、数ヶ月におよぶ不倫関係を結んだあげく、結婚を申し込んでしまう。この著名な芸術家との軽はずみな逢瀬のために、夫と子供たちを棄てるつもりなど毛頭なかった若妻は、驚いて拒絶する。そしてバルラッハは、今や友も失いますます孤独になり、町中の人を前に、恥知らずで滑稽なお調子者の芸術家となり果てていた。もちろん、噂話や陰口の大好きなギュストロウのこと、このきわどい話は瞬く間に知れ渡っていたのだ。激しい失望と虚ろな寄る辺なさのうちに、彼はいっそ大嫌いなベルリンで、今は亡き後援者のアウグスト・ガウルが提供してくれたアトリエと教授職に逃げ込んでしまおうかと真剣に考えた。しかし結局は、生活を激変させることに尻込みする。小都市ギュストロウでの支え合いやいざこざは、時として不愉快ではあったが、彼自身認めざるを得なかったように、とうに持ちつ持たれつの域に達していたのだった。「私は感じるのだが」と、当時彼は幼馴染みのフリードリッヒ・デューゼルに打ち明けている。「ここに住んでいると、傷はすぐに癒える。好きな散策を諦める必要もほとんどない。それゆえ私は、あの素晴らしい申し出を、むろん長い間迷った末にだが退けてしまった。」もっとも「[前略]この4ヶ月間を[中略]忘れはしないだろう。精神病院にでも入ってしまうべきだったのだ。私は実に不甲斐ない有様で、酒に溺れ荒れ狂い、挫折を味わっていた。」
 
 しかし数ヶ月後、バルラッハ自身予想だにせず胸躍らせた、途方もない多作の時代が始まる。1922年、不幸な恋物語とそれに続く膠着状態の後、鬱積されていた想像力が堰を切り、洪水となって数々の素晴らしいデザインを生み出した。一年の低迷期を経た数年で、心を揺さぶる像“恐怖”が完成した。54才の彼は、自分の中に新たな思いがけない力がみなぎっていくのを感じた。「魂には満ち引きがあります」と新たな確信に満たされた彼は、1924年2月、いとこのカール・バルラッハに宛てて書いた。「どうやらまた、たっぷり満ちてきたようです。」またもや訪れたこの気持ちの高揚のうちに、バルラッハの彫刻が次々と生み出される。彼の名を世界に知らしめる頂点の作品群である。1924年: 同じ年に初演された劇『大洪水』の中の、神の反逆者カランを具象化した誇り高き“待つ人”、1925年: 熱狂的な“使徒”のレリーフ、三体の心に迫る人物による“死”、宇宙への思いにふける“夢を見る人”、神への思いに没頭する“苦行者”、1926年: 我が身の不運に身を硬直させる“縛られた魔女”、そして最後に、深遠なる幻“再会(キリストとトマ)”、様々な意味を感じ取ることができるその慎ましい像は、バルラッハの彫刻芸術を完璧に体現している。
 
 これら彫刻の大部分と、その前の数年で造られた更なる作品を合わせた39体の木彫が、1926年カシーラー美術サロン主催の大回顧展に出品された。これは、同時代の彫刻芸術におけるバルラッハの明らかな特異性を強く印象づけた。評論家や訪問者は、この回顧展に深く感銘した。「これら木彫作品の全ては」と、普段はどちらかといえば冷静なカール・シェフラーは興奮して書く。「信条の表明である。いわば苛酷でうまくいかない人生を描いた文学作品である。壮大なまでのタッチで描かれ、気取ったポーズのないヒロイズムに満たされた、憂鬱な文学作品である。[後略]」そして、国立図書館館長のクルト・グラーザーは、ベルリン証券時報の中で補足する。「彼にはタイプを生み出す想像力がある。彼の像は、ある意味で演劇の緊張感に溢れている。[中略]彼らは書かれていない劇の名もなき担い手である。そこには慈悲の心と隣り合わせに孤独な心が、復讐する者と並んで恍惚とする者が、浪費家と並んで物乞いが置かれている。[後略]彫塑の伝統が壊れた時代に、この芸術家は独自の、そして彼にしか造れない表現を求め探し当てた。彼は時代の外にあって時代に対抗する彫刻を創造した。それは、そのそっけなく心を閉ざした輪郭を持つ像のごとく、またギュストロウの人里離れた工房にいるその作者のごとく、外界のあらゆるものから分け隔てられる運命にある。」
 
 バルラッハの木彫彫刻の大回顧展は、1926年2月開幕した。この時、その発起人でありバルラッハ作品の画廊主、後援者、友人でもあるパウル・カシーラーは、既にひと月以上前に他界していた。妻である有名な女優ティラ・デュリューからの離婚要求をめぐる芝居がかった争いのさなか、自分の胸をこれ見よがしにピストルで撃ち抜いたのだ。人見知りで商売の苦手なバルラッハにとって、これは手痛い大打撃となった。カシーラー美術サロンは、差し当たって彼の作品を引き続き取り扱ってくれはしたが、心にかけてくれた亡き前任者と違い、新たな所有者による扱いは義務的で通り一遍なものだった。こうして、一個人として再び心に大きな穴を抱えたまま、“ギュストロウの隠者”は芸術上実り豊かな1926年を迎える。
 
 しかし、より孤独を深めた彼の人生に、遂に恒久的な光が射した。既に1924年に、若き彫刻家夫婦ベルンハルトとマルガ・ベーマーは、ギュストロウに移り住み、そこで街の門の前、ハイトベルクとインゼル湖の間に小さな家を買っていた。彼らとこの有名な芸術家仲間との出会いは、双方にとって重大な結果を生んだ。18才年長のバルラッハは、結婚生活が既に長年破綻の兆しを見せていた魅力的な若妻に恋をし、相手もそれに応えたのだ。1926年5月、今や明白になった恋愛関係を成就させるため、子供のいない夫婦は離婚の道を選ぶという仮決定がなされた。
 
 何年にもわたってくすぶっていた夫婦間の不和、目前に迫る離婚、まだ人妻である女性との新たな恋 ―― そんな負担を抱えた交流が長続きすることなどまずあり得ない。しかし、ここで起こりそうもないことが起こった。ベルンハルト・ベーマーが、芸術家ならびに人間としてのバルラッハを、あらゆる不愉快な出来事にもかかわらず一途に尊敬していたために、逆にバルラッハも、この若者の忠誠と行動力、および手工芸上の手腕を高く評価し、またこの微妙な事態にあって、全てについて賢明にも固く沈黙を守ったために、二人の人間関係はある程度無傷で保たれた。更に、初めの頃のいざこざが収まると、個性の全く異なるこの三者の間に、風変わりな共生の絆ができ上がっていく。張り詰めたものもなくはなかったが、互いの関係は持ちながらえ、バルラッハの死まで続くこととなる。
 
 この稀有な同盟は、同年何とか最初の厳しい試験に耐え抜いた。バルラッハがベートーベン記念碑のコンクールに参加した時のことだ。これは大ベルリン市参事会が1926年7月30日、8人の著名なドイツ人彫刻家の間に告示したもので、引渡日の10月15日まで準備期間は極端に短かった。そんな時間的圧迫の下で、この芸術家はとてつもない計画を立てる。高さ13メートルの先細りになった円柱型、その上部には壮大なベートーベンの頭部を設置し、下部の台座のぐるりには、等身大より大きい9体の瞑目する人物が、架空に思いを馳せる像を飾るというものだ。“耳を澄ます者たちのフリーズ”、後日慎重に取りはずされ、一列に並べられたこれらの像はこう命名される。2メートル60センチある記念碑の石膏モデルを、構想から仕上げまで、残る数週間足らずでたった一人でやり遂げることは、56歳のバルラッハには過酷すぎたであろう。しかし、マルガとベルンハルト・ベーマーの精力的な協力によって、このプロジェクトはたちまち形を現わし始める。そして全てが完成した時、どっしりしたモデルをかろうじて期日までにベルリンへ輸送し、そこで予定された展示場に設置したのはベルンハルト・ベーマーだった。もっとも、この共同の骨折りも最終的に無益に終わる。審査委員会は「どれも[中略]ベルリンのベートーベン記念式典にふさわしくない」という見解で、提出された構想全てをベルリン市参事会に推奨せずに終わったのだった。
 
 この冷たい却下の数ヵ月後、1927年6月4日、マルガとベルンハルトの結婚生活は法的に解消された。以後バルラッハは、ルイーズ・バルラッハの死後、気難しい家政婦が支配していたシュヴェリーナー通りの質素でプチブル的な自宅よりも、ベーマー邸で過ごすことが多くなる。そして遂に1928年9月半ば、彼はインゼル湖のほとりに移り住み、屋根裏に居を定めた。居心地のよい、入念に家具を調えた二部屋である。マルガ・ベーマーは、後日この住居について、友人への手紙でこう書いている。「あなたもこの小さなエル・ドラドを気に入ってくれるかしら。[中略]訪れた人は皆、あまりの素晴らしさにあっけにとられるの。ぜひ来てみてほしいわ。低地ライン地方の古風な農家風家具はずっしりと重厚で、高価な彫刻がちりばめられていて、全て同じ時代のものなの。私達ずっとそれを集めてきたのよ。青い壁沿いには[中略]沢山の彫刻を施して工夫を凝らした[その通りだ。木製の天蓋が備え付けられている]1700年製の大きな農家風のベッドがあって、その周りを囲む赤いカーテンが全てを美しく見せているの。昼間は陽の光を受けて魅惑的だし、夜もまた格別で、美しい色合いが、本当に素敵な響きを奏でるのよ[後略]。」

 ここ「静かな片隅」、彼には珍しく家庭的で趣豊かな環境で、バルラッハの私生活は営まれることになる。結婚証明書のない結婚、それについて、彼は転居の数週間後、いとこのカール・バルラッハにこう描写している。「我々、つまりベーマー夫人と私は合意の上同居し、互いに仲良く静かに暮らしています。私の中にあいていた穴が塞がり、完全になったような感じがしています。」
 
  

 

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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(6) ~ 大創作の日々(1927-1932)

 ベート-ベン記念碑のモデルに取り組んでいる間、もはやバルラッハは、古ぼけた馬小屋の仕事場では用が足りないことを見過ごすわけにはいかなくなっていた。以後同規模のプロジェクトをこなすとすれば、もっと大きなアトリエを探さなければならない。192610月末、この新しいアトリエが見つかった。ヴァルクミューレン通り21番地にある大きな明るい二部屋の自動車工房跡で、多少の改装を加えるだけで住むことができた。ここで間もなく、おびただしい数の作品が生まれることとなる。彼はその中へ―― 実のところ自らの意志に反して ―― 「よろよろと進んで行った。」彼には、この大量の仕事が、愛するプライベートな時間をひどく侵害することがはっきりわかっていた。なぜなら、大がかりなプロジェクトの意味するものとは、依頼人による口出し、報酬交渉のいざこざ、締切の重圧、取引先の訪問など、まさに彼の忌み嫌う騒々しい事どもに外ならなかったからだ。しかし、彼がパリ時代の彫刻家仲間にこう訴えたように、後戻りするにはもう遅すぎた。「私は、こんなことは金輪際まっぴらだ。言ったところでどうにもならんがね! 」

 バルラッハが新しいアトリエで着手した数々の大プロジェクトの第一弾は、記念碑の制作だった。これはギュストロウ大聖堂教区の信徒が、第一次世界大戦で犠牲となった教会員たちを想い築くことにしたものだった。当初はそのために、教会の北壁の前に標石を置くことが予定された。しかし、この計画にバルラッハは強く異を唱える、ゴシック様式のレンガ造りの聖堂に天然石を設置するなどありえないと。ではご自身で記念碑を制作してはいただけないかと訊ねられ、バルラッハは即答を控えた。しかし19267月、彼は大聖堂の説教師ヨハネス・シュヴァルツコプフに一つの提案をする。大聖堂の北回廊に一体の人物像を吊り下げ、その姿によって、第一次世界大戦がもたらした人類の大禍の名状し難い痛みを体現させたい。この像は ―― と、シュヴァルツコプフは回顧録の中で伝えている ―― 「日常を超えた別の世界への導き手である。作者本人もこの仕事に報酬を求めてはいない、かかった経費を負担してもらえるだけでよいというのだった。」決定機関による二、三の不快ないきさつはあったものの、結局この計画は許可された。192612月、バルラッハはベルンハルト・ベーマーの協力の下、彼のアイディアを彫刻に表わす作業にとりかかる。三ヶ月後、19272月、“ギュストロウ大聖堂の天使”の石膏のひな形が完成した。

この並外れた記念碑をもって表現したかったこと、それを彼は19292月初め、当時「第一次世界大戦記念碑」に関する本を編集しつつあったカール・フォン・ゼーガー宛の手紙で詳しく語っている。「涸れることのない悲しみを表わす重い静寂」そして「現在に背を向け、惨劇があった時代へと向かう」どちらも「完全なる恍惚にこわばった姿」を通して体現される。この芸術的ヴィジョンは、彼の“漂う人”の中にしっかりと形を現わしていた。

1927529日、― キリスト昇天の日曜日 ――“ギュストロウ記念碑”は、祝日の一般礼拝の中で引き渡された。しかし、現地の評価は分かれる。保守主義者や兵士協会が、“ギュストロウ記念碑”に愛国性や英雄性が欠け物足りないとした一方で、『メクレンブルク月報』誌は、漂う天使像を「他のあらゆる地の記念碑と異なり、より力強く純然たる意味において、英雄的であり人間的でもある」と絶賛した。ドイツ芸術人一般も、主として賛同や熱狂といった反応を示した。“大聖堂の天使”が設置されて以来、一年を通じ世界中から数えきれない人々が、この比類のない像のもとへ巡礼に訪れた。今日これが20世紀における最も優れた宗教彫刻作品の一つであることに異を唱えるものはない。“ギュストロウ記念碑”除幕式の週間後、この仕事でくたくたに疲れたエルンスト・バルラッハは、バート・キシンゲンに保養に出かけた。到着後すぐ、彼はずっと以前から計画していた自伝の執筆を始める。4週間後、帰路についた時には、本文の大半を書き上げていた。足りない部分は、9月から12月の間に、慣れ親しんだ机で補足した。9ヶ月後、192810月初め、『自叙伝』と題した小品が、パウル・カシーラー出版より発行される。本文中に23枚の素描が挿入され、付録として1906年から1927年にかけて完成した全ての彫刻の写真が大きく掲載された。

バルラッハの『自叙伝』は、独創的であると同時に示唆に富んだ本である。くせの強い生き生きとした文体で、彼はわずか15章足らずのうちに、情緒豊かに自らの苦しい経歴の各段階を振り返って評価し、延々と道に迷い続けた末、遂に賞讃と成功を手にするまでを語っている。しかし、全身全霊を傾けて書いたこの作品も反響は乏しく、彼の期待を裏切った。この責任を、彼はパウル・カシーラーの後任者たちの熱意不足に帰した。なるほど、新しい発行人たちも“十分に”彼の利益を守ってくれてはいた。しかし、カシーラーは彼の友であり“シンパ”であった。そしてその作品のためとあらば、金銭を惜しむことなどなかったのだ。

バート・キシンゲンからの帰郷後すぐ、エルンスト・バルラッハはさらなる大プロジェクトに着手した。キール市のための記念碑である。このプロジェクトの物話は1924年春まで遡る。別の人物が手がけることになっていた記念碑プロジェクトに強く協力を求められた時のことだ。しかし彼は、作者本人が独自で練り上げるべきだと断っていた。彼自身が企画を持ちかけられたのはその後で、これを受け、1927年春から晩夏にかけて、当事者により詳細が議論される。そして、空間を埋め尽くす巨大な彫刻をキール大学教会の本の外柱の間に設置する構想が立てられた。バルラッハはそこで、―― 無数の習作を重ねた後 ―― 印象深く途方もない案を提示する。水平に伸びるネコのような獣の背に立つ細身の天使 ―― すっくと立ち上り、天を指す剣を両手に握っている像である。この5メートル弱の高さの作品については、彼自らが ―― キールの交渉相手ハーン博士に宛てた手紙の中で ―― 解説している。この作品が表わすものは「克己」である、とバルラッハは言う。上へ、光へ、清澄へと向かう人間の魂(直立する天使を通して象徴される)は、最も奥深い深淵から立ち昇る暗い憧れや本能や欲望(地面に近い、不吉な眼差しをした獣により象徴される)に打ち勝つのだ。この解説はまた、まだ見知らぬ人に向けて語られたものでもあろう。その誰かによって、後年この二体に現在の名称“魂の戦士”が与えられることとなる。

契約開始の受諾を、バルラッハは1928130日、発注者に通知した。その後、彼は“魂の戦士”を最短期間で完成する。既に9月には、天使に続いて獣も鋳造のためベルリンへ送る旨を、キールへ報告することができた。11月半ば、作品はベルリンのノアック鋳造工場の中庭に、完成した姿で立てられた。その二週間後、19281129日には、聖霊教会正面の台座に設置される。多くの市民の不満は明らかだった。彼らの目に“魂の戦士”はあまりに個人的、無感情でヒロイズムに欠けると映ったのだ。憤りをこらえ、バルラッハは弟のハンスに、気づまりな雰囲気が蔓延していく様子を伝えている。「二体の受入れは[中略]冷たく拒絶された。その二日前には、闇にまぎれて剣が折り曲げられる事件さえ起こった。右翼団体は軒並み私をさんざん非難している。あらゆる愚かしいことがやかましく高らかに触れまわられている。」

すっかり消耗し、医師からも養生するよう注意されたにもかかわらず、バルラッハには休む間がなかった。“魂の戦士”がまだ現場に設置もされないうちに、既に彼は次の大プロジェクトのために、再び「全力疾走」となっていた。マクデブルク大聖堂のための記念碑制作である。これは、プロイセン文部省が大聖堂保護局の立場で碑を設置し、第一次世界大戦戦没者の記念の場所とする計画であった。バルラッハは既にその基本構想を、19278月にはデザインで、一年後にはひな形でも表現していた。今回はギュストロウとは異なり、シンボリックなものではなく、むしろ戦争の写実的な描写を目指した。戦場の恐怖を具象的に表わした等身大より大きい6体の人物像で、上半分には墓標の十字架の背後に人の兵士像が並べられた。立ちすくむ者、運命に身を委ねる者、おびえる者である。そして兵士たちの足下には、絶望的な悲嘆、死、恐怖を体現する人の半身像が置かれた。

192811月には、バルラッハは既にひな形の製作に取りかかり、19292月には、隣町のビュッツォーで大きなオーク材の丸太が裁断された。そして4月からは、ベルンハルト・ベーマーが助手の手を借りて個々の部分の仕上げ加工を済ませ、その後バルラッハ自身が仕事に入った。これまでで最も困難な仕事であり、心臓病を患う彼には荷が重すぎる時もあった。にもかかわらず仕事は素早く進んだ。10月の終わりには、三つの部分全てが完成し組み立てられた。111日、バルラッハ同席の下、記念碑は現場で試験的に設置された。週間半後、19291124日、マクデブルク大聖堂において、厳かな落成式が執り行われた。―― 今回はあからさまに冷淡な、それどころか敵意のこもった空気に満ちていた。出席者のほとんど全てが、バルラッハ記念碑の中身を、あまりに批判的且つ悲観的で救いがなさすぎると感じた。彼らはそこに、戦没者の英雄としての誉れや、その戦死を愛国的行為とする、彼らにとって不可欠な描写が無いことを惜しんだのだった。抵抗運動を代弁するのは、鉄かぶと党、愛国ドイツ士官連盟、そしてドイツ国家主義民族党で、その代理人は、とりわけバルラッハの兵士を「異人種的」として拒絶した。「鈍重でスラブ・モンゴル民族的な」人物であると。そのような敵視にさらされたバルラッハが、傷つき腹を立てたのには十分な理由があった。192810月から19291月の間、つまり“マクデブルク記念碑”のひな形ができ上がった時期に、隣接するマルヒーン市における記念碑プロジェクトが、愛国団体の抵抗に遭い挫折していたのだ。愚弄された彼は憤慨し、1929122日、弟のハンスに絶え間ない誹謗中傷を報告している。それは彼の芸術家としての名声のみならず、つましい生計をも危険にさらすものだった。「マルヒーンの記念碑のための草案は駄目になった、私がユダヤ人だと告発したり、装甲巡洋艦に反対してコミュニストの住民請願書に署名したなどと主張したり[後略]。私は証拠となる「文書」を探している。また全く気乗りはしないが、訴訟の措置を取るよう強く勧められている。なぜなら、数え切れない鉄かぶと党員が、つまり彼らの誹謗中傷を国中に広めるには十分な人数が、イソギンチャクの触手のように手を伸ばしているからだ。」が、訴訟の脅し文句は実現されずに終わる、「文書による証拠」を入手することができなかったのだ。こうして、確実と思われた注文を失った彼は、『誤った精神に抗して』という題の文章に憤りをぶつけるしかなかった。

この格調高い文章の結び近くで、バルラッハは再度、戦没者記念碑についての彼独特の見解を詳しく述べている。「死者を讃えようと思うならば、死後の安息に憩わせてやりたまえ。彼らの悲劇的な運命に、こってりした宗教的感情などを詰め込んではならない。意味の洪水を思い出から一掃し、彼らがもはや存在しないのだということを認めたまえ。そして彼らの人生を、喜んで完成させてやるのだ。彼らはそれを、究極の妥当性を通して手に入れた。二度と帰れない世界、時間の制約を受けない永遠の世界へと消えゆくことを通して。」そして、兵士連盟とその同調者たちに向かっては、はっきりと誤りを指摘する。「これらの事態全てがこう物語っている。君らは勝利の記念碑を表立って堂々と手にすることが許されないため、裏からこっそり手に入れようとしている、つまり自尊心を満足させたいのだ。自分たちの行為を引き継ぐことを自ら買って出た者の存在など、死者たちには結局全くあずかり知らぬことなのだ。」この鋭い言葉は公表されずに終わり、敵対者に届くことはなかった。“マクデブルク記念碑”の完成後、バルラッハは「心身ともに消耗し」「すっかり疲れ果てた」と感じる。それ故、間近に迫る60才の誕生日に向けた問い合わせや依頼や訪問者にもうわの空で、時にはそっけない反応を返すだけだった。記念の年である1930年は、ベルリンやキール、リューベック、ハンブルク、エッセンや他の都市の博物館、芸術協会、美術館そして芸術家連合によって、数々の展覧会や祝典が計画されていた。―― それは彼が心底嫌う「馬鹿馬鹿しいお祭り事」だった。彼は192912月、ミュンヘンの友人である出版人ラインハルト・ピーパーに、怒り混じりの不平をもらしている。「お祭り意識というものの皆無な私に、華やかな顔つきをすることなど所詮無理な相談です。どうか放っておいてほしい。私がそんな扱いを受けるには値しない人物だとわかってもらえれば大いに満足で、これ以上の褒め言葉はありません。結局私はそんなものとは程遠い人間なのですから。」これは全く見当違いな言い分だった。なぜなら、生誕記念行事のほとんどが、この芸術家に対する高い評価をうなずかせるものだったからだ。そしていくつもの記念講演が、バルラッハ芸術の独自性を的確に描写したのだった。

表敬の記事が新聞を埋めている間、その当事者である彼は、ひとつの依頼と格闘していた。それは、完成できれば彫刻家としての彼の全仕事の頂点を飾るであろうものだった。リューベックにある旧修道院カタリーナ教会のレンガ造りの外壁に設置する、等身大より大きい16体の彫像である。呼びかけ人となったリューベック博物館館長カール・ゲオルク・ハイゼのイメージによれば、これらの像は総じて“聖人たちの饗宴”を形成することになる。―― が、使徒や教会の聖人ではなく、ドグマにとらわれない現代の信心深さの表現であり、強い信仰の持ち主から現代に生きるヨブや懐疑家まで、「格闘し、苦しむ人類の手本となる姿」である。このプロジェクトの資金は、次のように調達されることとなった。うわ薬をかけた硬質レンガ製の像を二体ずつ鋳造して焼き、それをハイゼが博物館や収集家に売って、残りの像の製作費と作者への報酬に当てるというものだった。

バルラッハは、当初この計画のあまりの大胆さに魅了されると同時に仰天した。192910月、ハイゼが初めてギュストロウを訪問した直後、彼はこの壮大な計画の基本構想の概要を、一枚のスケッチに描き記した。ヶ月後、―― その間リューベック記念碑委員会は同意に達していた ―― 彼は計画した像を建築モデルに当てはめて、その印象を試した。そして19307月、たった4週間で最初の“聖人像”の石膏のひな形ができ上がった。“物乞い”――“ギュストロウの天使”と並んで、バルラッハの作品中最も表現豊かで名高い彫刻である。数ヶ月をおいて、さらに二体の像が完成した。“唱う人”(1931年入炉)と“風の中の女”(1932年入炉)である。そして、時代的状況や資金の全般的欠乏、更に国家社会主義の政権掌握が、この比類ないプロジェクトに突然の終結をもたらした。

公開されたバルラッハの作品全てに対してと同様、“聖人たちの饗宴”が設置された直後、またも激しい抵抗運動が起こった。193011月、ハイゼが“物乞い”を展示すると、リューベックに憤慨の嵐が吹き荒れる。壮大なキャンペーンの中で、『リューベック広告』誌は、市政府と市議会および記念碑委員会に抗議する700人の署名を集めた。この市民の熱望はその目的を達することはできなかったものの、ハイゼは完成したバルラッハの作品を、差し当たり外壁の壁龕ではなく、カタリーナ教会の高い内陣に設置せざるを得なかった。

“物乞い”完成後の1930年盛夏、バルラッハは疲れ果て、再びバート・キシンゲンで保養しなければならなかった。しかし今回は体力の回復には至らなかった。帰郷後の彼を待ち受けていたのは、同時進行で片付けなければならない更なる幾つもの仕事の依頼だった。

ハンブルク市が、市庁舎広場に建設中の記念碑用地を大きな平板のレリーフで飾ることになった。彼をこの仕事に引き入れたハンブルク建築長のフリッツ・シューマッハーに対して彼が描いた下絵は、悲しみに立ちつくし我が子を引き寄せている戦争未亡人の姿だった。この提案をめぐる決定は、1930年秋まで先延ばしになった。古なじみの敵対者達が、バルラッハの像に反対して、議会や公の場に結集したからだ。「壮大なるエジプト的シリア的様式」「ハム系の人物」「アフリカ人のように見慣れない」「異民族的な彫刻」或いは「芸術的退廃」といった批判はまだよかったが、彼とその依頼主にとって、より厳しい意見もあった。バルラッハの仕事は「人間というものを嘲弄している。」こう言ったのは、有名なベルリンの彫刻家フーゴ・レデラーだった。深いショックを受けた彼は、憤慨して同業のレデラーに修正を求める。―― 彼は返信すら受け取ることはなかった。

1930113日、遂に市政府は決定に至る。それに応じ、作品の実物大のひな形造りに取りかからねばならなかった。この作業は19315月まで続く。その後ようやく、石工が現場でレリーフの製作作業に取りかかることができた。7月の終わり、全仕事が完了した。193182日の落成式は、抗議を恐れて告知もされず、早朝に、ごく少数の人々だけによって執り行われた。この屈辱的な情景を、共産主義系の大衆雑誌が適切にコメントしている。「ロス市長および市政府代表者数名が、日曜日に[中略]花輪を捧げ、この茶番劇は終幕した。」“ハンブルク記念碑”の最も大きい最後のひな形を、バルラッハは既にインゼル湖畔の新しいアトリエで製作していた。その立派なレンガ造りの建物は、19309月から19315月の間、ベーマー邸に隣接する広々とした敷地に建てられ、モダンな工房と屋根裏の住居を併せ持つものだった。が、堂々たる建物が完成し、ギュストロウの人々の絶好の観光目的地となった後も、彼は設備を整えた明るい工房だけを使用していたものと思われる。趣豊かな数々の部屋がある、贅を尽くした住居部分までをまかなう余裕は彼にはなかった。そこで、ここはまず彼の息子と家政婦が、次いでベルンハルト・ベーマーと二人目の妻が内装を整え、その間家主である彼は、ベーマー邸の居心地のよい屋根裏部屋に住み続けた。

新しい仕事場での作業を大いに楽しんだ分、アトリエハウスを建てるために借りた負債が彼には不快に感じられた。「この建物は浪費病です」と、彼は19314月、いとこのカール・バルラッハに訴えている。「金、金、もっと多くの金を調達しなければならない。」しかし、これは取越苦労というものだった。実際に見るところ、アトリエハウスの建築資金はしっかりと確保されていた。それは、1.数々の大プロジェクトの報酬が入って来ていたため。 2.利益が期待できる当初16体(後に20体)のブロンズ像を造る計画があったため。これは19307月半ばに、彼が新しい画廊主アルフレート・フレヒトハイムと取り決めたものだった。そして 3.高額の注文が来たため。これは、1926年のベートーベン記念碑の台座の像を、独立させて造り換えるというものだった。

きっかけを与えたのはティラ・ドゥリュー、彼の亡き美術商パウル・カシーラーの妻であった。彼女は19302月、カシーラーの自殺の4年後、ユダヤ人の大実業家ルートヴィヒ・カツェネレンボーゲンと結婚していた。広い家の中に、彼女はプライベートな音楽ホールを造りたいと思っていた。それに応えてバルラッハは、ベートーベン記念碑のためにデザインした像を木彫りで仕上げ、部屋の縦軸の壁に浅く掘られたくぼみに一列に並べて置くこととした。193011月、この“耳を澄ます者たちのフリーズ”の注文を受けた時、彼には長年抱いていた夢が遂に実現するように思えた。体力の限界にありながらも、彼は夢中になってこの新たな仕事にのめり込んだ。

わずかひと月後には、9体を計画したうちの第1番目、“さすらう人”(「いささか私の肖像めいている」)が完成していた。しかし、これほどまでに期待にあふれて始まったプロジェクトも、恵まれた星の下にあるものではなかった。19318月、会社の覇権を維持することが難しくなったルートヴィヒ・カツェネレンボーゲンは、あらゆる支払いに伴いバルラッハへの分割払いをも中断せざるを得なくなった。193110月末、二番目の像(“踊る人”)が納入されて間もなく彼は逮捕され、半年後、様々な経済上の違反行為による禁固刑の宣告を受け、破産は決定的となった。その後、覚悟を決めたバルラッハには、前もって支払われていた三体分のうちの最後の像(“夢見る人”)の仕上げが残されていたが、それが終わると、止むを得ずこのプロジェクトを打ち切らねばならなかった。

彼が少なからぬ自負の念を込め、その生涯の「大創作の日々」と名づけた時代は、こうして終わりを告げた。待ち受けていたのは、苦い落胆と思いがけない金銭的な不安だった。それは、彼の制作した記念碑に対する悪意ある攻撃や陰謀と共に、年老いて病をかかえた彼の心身を日に日に消耗させた。193112月に弟のハンスに書いた手紙は、助けを求める叫びのようにもとれる。「君の手紙にある厄介な現象とは、我々の年齢についてまわるものだ。私は1925年以来それを認識していたし、毎日めまいや充血、頭痛などを相手にしている。それが起こらない日はないし、一切合財が同時に何重にも付きまとってくる ―― 我々は互いに必要以上の力を振り絞っていなければならない。軽くなるどころか、状態はひどくなる一方だ。実は大きな心配事がある。高額な建築費が未払いになっていることがわかった。契約時に支払うはずだったものが滞っていたのだ。しかし乗り越えていかねばならない。[後略]」この時まで、彼はこれが更に大きな破局の始まりであることを、まだ予想していなかった。

『エルンスト・バルラッハの軌跡』(1)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(2)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(3)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(4)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(5)
『エルンスト・バルラッハの軌跡』(7)
エルンスト・バルラッハ年譜

 

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『エルンスト・バルラッハの軌跡』(7)「鈍重な、スラブ人のような、退廃した」 ― 第三帝国におけるエルンスト・バルラッハの苦難の道(1933-1938)

 1932年7月31日の帝国議会において、国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)は589議席中230議席を獲得し、議会の最大派閥となった。半年後の1933年1月30日、フォン・ヒンデンブルク大統領は、党首アドルフ・ヒトラーを帝国の首相に任命する。NSDAPの“権力掌握”が始まったこの数ヶ月の間に、バルラッハの新たな記念碑プロジェクトは挫折した。「悲劇と言ってもいい事情で」と、深く失望した彼はハンブルクの崇拝者フーゴ・ズーカーに苦々しく報告している。
 
 が、事の始まりは当初希望に満ちあふれていた。1932年9月末、バルラッハはシュトラールズントの兵士連盟より、第一次世界大戦戦没者記念碑のための提案を要請された。この要請に対して、彼は4つの草案をもって答えた。その中には有名な“ピエタ”もあった。―― 悲しみに身を固くし、じっと座っている母が、その膝の上に戦死した息子を水平に抱えている像である。しかし、この類を見ない作品は、残りの草案全てと共に、記念碑委員会によってきっぱりと拒絶される。委員たちは、彼の作品には英雄的な姿勢が欠けていると感じたのだった。というわけで、ひと月経っても決定は下されず、経済的に困窮していた彼はじりじりと待ち続けた。その間にも応募者は殺到していた。
 
 結局、終わりは突然やって来た。権力掌握の7週間後の1933年3月18日、バルラッハは何のコメントもなく応募を取り下げた。「より重大な厄介事を回避するため」そして「一個の損失以上の危険を冒さないため」―― と、当時二通の内々の手紙の中で彼は語っている。その意味することははっきりしない。察するところ、新政権による非常事態立法と数えきれない専制的な条例を通じ、個人的にも脅迫を受ける恐れを感じて強い不安に襲われた彼は、自らの意志で一刻も早く手を引くことによって、新聞の見出しになる事態を避けたのであろう。この脅迫が何を意図するものであったか、彼は当時親族や友人に秘かに書いた手紙で並べ上げている。“権力掌握”の後、第一に、彼バルラッハがユダヤ人だという根も葉もない噂が唐突に再燃していること。第二に、それ以後憎しみに満ちた数々の投書で批判を受け、庭の小門には「屈辱的な貼紙」を貼られたこと(「ユダヤ人の家!駆除せよ!」)、第三に、2月28日の非常通達以来、郵便物が開封され電話が監視されていること。そして第四に、「新体制が確立して以来、賞讃とは真逆の事態が私に降りかかっています。展覧会は見え透いた理由で取りやめになる、『青いボル』のハンブルク公演は未だ行われていない、等々です! 」
 
 バルラッハの抱いた危機感が正しかったことを、さらなる事件が明らかにする。1933年4月7日、政府は「職業官吏制度再興のための法令」を公布した。以後当局は「法的手続きなしに」ユダヤ系並びに当局が信用できないとみなした公務員を、即刻罷免することができることとなった。その結果はてきめんだった。“現代美術”に理解のある博物館長は、直ちに解雇された。バルラッハのような芸術家たちにとって、それは破局を意味していた。作品を売買する公のルートが、突然断たれてしまったからだ。更に、彼個人を打ちのめす悪い知らせも届いた。1933年3月18日、彼が“シュトラールズント記念碑”への応募を取り下げた同じ日、マクデブルクでは所轄の専門委員会が、不評だった彼の記念碑を大聖堂から撤去させるよう要求した。「この決定をもって、」大聖堂議員の言葉を文字通り伝えると「我々が明確にすべきなのは、[中略]この慰霊碑が[中略]我が戦没者たちのための記念碑の性格を有するとは認めないということだ」そこで現プロイセン政府は、この前任者の贈物を「どこかの博物館に引き渡す」よう求められた。ベルリンからの即答がなかったため、三ヶ月後、この要請はより多くの支持者を得て繰り返され、遂に積極的回答が下される。1934年8月8日、教育大臣ルストは、“マクデブルク記念碑”の撤去と保管をベルリン国立美術館に命じた。
 
 この屈辱は、バルラッハに強いショックを与えた。弟ハンスからの慰めの手紙に憤慨した彼は、そんな慰めは「頭の皮を剥がれそうになって泣いている敵に向かって、お前には何の危害も加えはしないよと声をかけている」インディアンを思い出させると答えた。それでも初めの数ヶ月は、この嫌がらせも差しあたって突発的な個々の行為以上のものではなかった。1933年秋になってようやく、計画的な「国家社会主義芸術政策」が、徐々に具体的な形をとり始める。その発端は、1933年9月1日のニュルンベルク党大会における、ヒトラー最初の大規模な文化政策演説であった。総統はそこで、「ドイツ民衆を最も誇り高く擁護するものとしてのドイツ芸術」のモットーの下に、「新しいドイツ芸術」のための今後の原則と枠組みを宣言した。
 
1. 芸術で問題となるものは美ではない、人種である。なぜなら、美の追求ではなく、芸術家が自らの人種に属していることのみが、その作品に妥当なフォルムや表現、永遠の価値をもたらすからである。それゆえ芸術家とは、「一つの民族の精神を同時代の人々に明らかにするため、神の摂理によって選ばれた」才能豊かな中間者である。
 
2. こういった意味において、「ドイツ芸術」とは「アーリア北方人種」の精神を表現することであり、その手本は「アーリア北方人種」にほかならない。そして、「アーリア北方人種」とは、その本質において「英雄的な人間」である。それゆえ、純粋なるドイツ芸術は、常に英雄の特徴を帯びる。
 
3. 芸術を美的実験と誤解するいわゆる「現代芸術家たち」は、その作品において人間を風刺的に描き、人々のまともな感覚を倒錯させる。この「意図的な狂気」をもって、彼ら「食わせ者」或いは「ペテン師」は、ドイツ民衆の健全なる精神を脅かし、自らも「血統的に堕落する」のである。それゆえ、ドイツ芸術の再興は、芸術界の「人種的浄化」、言い換えればこれら「異人種的な」民族的・精神的堕落者の徹底した排除をもって執りかからねばならない。
 
4. 現代芸術家に改心を促すのは無意味且つ無駄である。なぜなら、彼らはただ、ある「道徳的欠陥」を有することによってのみ、かくなり得たのであるから。従って、「そのように人を貶しめる者が、突如また考えを改め、より良い行いをなし遂げるなどということはあり得ない。彼は無価値な人間であり、無価値であり続けるのだ。」
  
5. 国家社会主義には「神聖なる使命」がある。人種の統一、およびそれによるドイツ民族の精神的健全さの維持向上である。従って、「政府指導部は芸術活動のために、題材上・事実上の前提条件を提供しなければならない。」
 
 こうしてヒトラーは、国家社会主義的世界観の最高機関として、現代芸術の根絶はアーリア北方人種が生き残るための神聖な任務であると宣言し、第三帝国の国家機関の責務と成した。その「非英雄的な」記念碑が人々の気持ちを逆撫でし、その造り上げる像が「健全な民族的感覚」には「東洋的」「運命主義的」或いは「異種の」ものとして拒絶されてきたエルンスト・バルラッハは、ただちにそれを気づかされることになる。
 
 ヒトラーのニュルンベルク演説の3ヶ月後、早くから計画され予告されていた1933年11月26日のシュベリーン国立劇場におけるバルラッハ劇の興業は、主催者により突如何の説明もなく取り止めとなった。
 
 2ヶ月後、1934年1月17日、メクレンブルクおよびリューベック市長の公式機関誌である『低地ドイツ監視局』は、彼に対する激しい攻撃を公然と行った。この熾烈な攻撃文の発端は、バルラッハの知人フリードリッヒ・ドロスが『メクレンブルク月報』に載せた論文だった。そこでは、バルラッハがユダヤ系であるという噂が誤りであることが、公式文書により明確に説明されていた。これに対する反証を挙げることのできなかった『低地ドイツ監視局』は、―― 1933年9月1日のヒトラー演説の意味内容に則って ―― 襲いかかる。「ならば然るべき攻撃にさらされて続けるがよい。公然と正面から、まずここメクレンブルクで! これは皆が手に入れようと望んでやまない新しき思想に対する反抗である。[中略]著名な『メクレンブルク月報』がこの先もエルンスト・バルラッハのために力を尽くす決意なら、我々は我が民族の意思に賭け、彼の作品を異質なもの、アジアめいたもの、理解不能、いや敵対するものとして拒絶せねばならない。」
 
 同じ週、1934年1月21日には、次の一撃が続いた。芸術協会は、ロストックの「1850年から現在に至るメクレンブルクの肖像」展を開催にこぎつけるため、既に展示されていたバルラッハの作品を撤去した。誰一人責任を負おうとしなかったこの公然たる侮辱に対し、彼が激怒したのは、彼が参加を決めたのは主催者のたっての願いによるものであったからであり、そのためにれっきとした帝国文化院の認可証も存在したからであり、そして彼の排除が何の予告も理由もなくなされたからであった。
 
 深く傷ついた彼は、必死に平静を保ちながら、この件を帝国市長自身に問い合わせた。「この私信の意図は、[中略]貴下にお考えを改めていただいたり、私に対する見解を和らげていただくことにはありません。しかし[中略]市長殿、貴下に[中略]お願いするものです。どうかご想像いただきたい。私がこの地の市民として有する権利をいかに侵害されているかを。[中略]何があっても私は耐えましょう。―― ただ、そのためには確かな足掛かりが欲しいのです。傷ついた評判を[中略]念頭に今後どう生きていけるのか、そしてまた、芸術家としてやっていくことをこの先も同様に期待できるのかどうか。」この苦情に対する返答は、偽善的且つ無礼なものだった。彼の芸術的価値については、方々の談話からもまた自ら耳にした評判を通じても、自分に判定することはできない。しかし、第三帝国の代理人として補足せざるを得ない。―― その観点で、とりわけバルラッハのロシア人農民像についてはこう思う ――。「ドイツ北方の民の精神を捉えるものを、私はこの異人種の像から[中略]読み取ることはできません[後略]。ひとつの民族に属する芸術家であるならば、彼の民族にはない異質な精神を持つ者に題材を求めることなどできません。こういうわけで私は、貴方の作品と向かい合った時、異質と感じます。貴方は貴方の芸術全てをもって、結局は自由主義の時代に奉仕してこられました。[中略]人種と民衆の間にある境界を取り払う時代に。」そして最後には、ヒトラーの意向そのままに閉め出しである。「勝手気ままに行動する者に対しては、できることは何もありません。」にもかかわらず、辱しめられた彼の目前に、あからさまな窮乏が迫っていた。バルラッハの作品を扱っていたユダヤ人の画廊主アルフレート・フレヒトハイムはドイツを離れていた。未払いの報酬はもう期待できなかった。そして新たな仕事の依頼はなかった。友人らは彼を助けようと、小品を購入したり、匿名のファンからと称して少額の寄附を行ったりした。財団や基金は、零落した彼が少額の研究助成金を受けられる資金と方法を探った。しかしその全ては焼け石に水だった。「もしウナギのようにすり抜けることができていなければ」と、彼は1933年末、ある知人に宛てて書いている。「あなたに1本の煙草をやパンひと切れを差し出すための小銭すらなかったでしょう。[中略]心配事が多すぎるため、倍量の睡眠薬を飲んで、やっと眠りについています。この状況がいつまで続くのか、私にはわかりません。」
 
 この絶望的な状況下で起こった出来事は、彼にはまさに奇跡のように感じられたことだろう。1934年夏の終わり、ある古い友人に伴われ、ハンブルクの工場主ヘルマン・F・レームツマがギュストロウのアトリエにやって来た時のことだ。そこで見た作品に深く心を打たれたレームツマは、木彫りの“苦行者”を購入したばかりか、“耳を澄ます人たちのフリーズ”を仕上げてほしいと彼に依頼したのだ。バルラッハの思い入れ深いこの作品の制作計画は、最初の依頼主ルートヴィヒ・カツェネレンボーゲンが、債務者から逃れるためドイツを離れてしまった後に、最初の三体が完成していた。からくも生き延びる戦いを続けていたバルラッハは、欠けていた6体を仕上げることを許されて「心からの感謝」「幸福な満足感」そして「自尊心」に満たされた。―― と、1934年10月のヘルマン・F・レームツマへの長い感謝状の中に書いている。「フリーズの完成に対する心からのご賛同が貴下のご決断の源と知り、私はもちろん何よりも素晴らしい特典をもらったように感じました。心底この仕事をしたがっている手に、何をおいてもそれを与えたがらない者などあるでしょうか。」
 
 彼は熱意を込めて仕事に取りかかった。1935年10月“耳を澄ます人たちのフリーズ”は完成する。11月24日、死者の慰霊の日、アトリエハウスの広い工房で、依頼主への引渡しが行われた。―― 非公開ではあったが、最後の大きな成功だった。しかし、この満足感も長くは続かなかった。それ以降は続けざまの攻撃だったからだ。1935年10月、ミュンヘンのピーパー出版が『エルンスト・バルラッハ ―― 素描集』を刊行した。5ヶ月後、1936年3月24日、この本は「公共の安全と秩序を脅かす」として押収され、後に廃棄された。かつてはバルラッハの信奉者であったヨーゼフ・ゲッベルスは、この『素描集』を見て身震いした。「バルラッハの馬鹿げた本が発禁となった」と、彼は日記に記している。「もはやこれは芸術ではない、破壊だ。手に負えない代物だ。おぞましい! この毒を民衆の中にまで行き渡らせてはならない。」
 
 この発禁措置については、宣伝省の指示により短く報道されるにとどまる。―― ゲッベルスは、秩序と協調と美の国としての新しいドイツを世界に示さねばならない夏のオリンピックを前に、よけいな否定的見出しが出ることを望まなかったのだ。しかし、大イベントが終わるや否や、現代美術は再びさらし者にされる。そして今回、責任者たちは極限までやってのける覚悟だった。
 
 バルラッハは、この覚悟を真っ先に実感しなければならない一人だった。1936年11月初め、プロイセン芸術アカデミーの大規模な記念展覧会会場から、すでに設置が済んでいた彼の作品は、またも撤去されなければならない。教育大臣ルストは先手を打ち、開会スピーチでこう告げるであろう。ベルリン展覧会のこの浄化は、総統が「1933年から1936年の党大会における、かの重大な4つの態度表明の中で」展開した、新たな芸術政策思想を流布させるための問題提起である。今この時こそ、ドイツ人に「永劫不滅なるドイツ芸術をはっきりと示し、この永劫不滅なるものを取り戻す妨げとなりかねないものを一掃するのだ。こう考えて私は、数日前決断するに至りました。過ぎ去った時代の亡霊を、まず一旦視界から遠ざけることにより、我々は正気に返るのだと。」これは必要不可欠な措置であり、「間もなくドイツ全土に及ぶでありましょう。」
 
 ヒトラーの芸術政策演説を引き合いにしたルストのこの演説をもって、悲劇の最終章が始まる。現代芸術のドイツにおける根絶である。1937年4月20日、ヒトラーの48才の誕生日に、キール市参事会はバルラッハの“魂の戦士”を架台から除き、タウロー博物館に収納する。二ヶ月後、宣伝省の使者がベルリンのブッフホルツ美術館における小展覧会から彼の作品を押収する。その中には、彼の晩年の二体の木彫彫刻“笑う老女”と“凍える老女”も含まれていた。―― 作者のなすすべもない絶望が、今一度感動的な姿を取った作品だ。この頃バルラッハは真剣に、これで終わりだと確信する。就業禁止であると。しかし驚いたことに、ひと月ほど気をもまされた後、彼は作品を取り戻す。「これらの作品を今後展示してはならない」との命令付きで。
 
 その後間もなく、国家社会主義は激変を遂げる。1937年夏、ひとつの委員会が政府に全権を与えられ、「ドイツ帝国、州、市町村が所有する、ドイツ人による退廃的な芸術作品を選び出し押収するために」ドイツの博物館へ押しかける。数週間後、特使によりおおよそ17,000点の芸術作品がかき集められ、保管場所へ運び込まれる。その中には入手可能な全てのバルラッハ作品もあった。約400点の像、素描、版画である。
 
 同じ頃、権威あるベルリンのプロイセン芸術アカデミーは、上からの命令に従い、「自浄作業」を推進する。それを速やかに終わらせるために、科学、教育並びに民族修養の担当省は、アカデミーの会長に9人の好ましからざる会員 ―― その中には画家エルンスト・キルヒナー、エミール・ノルデ、マックス・ペヒシュタイン、建築家ミース・ファン・デア・ローエと共に、エルンスト・バルラッハもいた ―― に、「自主的な」退会を促すよう命じる。それに基づき送りつけられた書簡は、思いやりの仮面と脅迫の入り混じった卑劣なものだった。「長らく準備を整えてきた芸術アカデミーの新体制は、アカデミーの会員資格の新構成にも及んでおります。当方に与えられた情報によれば、貴下がこの先もアカデミーの会員であり続けることは期待できません。当方は貴下がご自身の利益のため、直ちに自らアカデミー脱退を表明されることをお勧めする次第です。」この耐え難い要求に対して、バルラッハはまず憤慨し、そしてあきらめる。1937年7月11日、彼は簡潔な電報で脱退の意向を表明する。「ゲイジュツアカデミーカイインヲジス ワタクシノケッテイヲ ゴショウニンイタダキタイ」これをもって、準備された「自浄作業」は完了した。1937年7月16日、ミュンヘンで4日間におよぶ大イベントが幕を切る。ヒトラーの意向に基づき、ドイツ文化の進む道を断固指し示す「ドイツ芸術の日」である。その頂点は、7月18日の「ドイツ芸術の家」の落成式、ここでヒトラーは再度、異人種的な「塗りたくり作品」による「ドイツ人への“愚弄”を終結」させると宣言する。この大イベントの翌日、帝国議院の彫刻部長アドルフ・ツィーグラーは、「退廃芸術」展にて、ドイツ民衆にこの「塗りたくりの作品なるもの」を披露する。110人の芸術ボルシェヴィストたちによる600点もの作品群は、狂信的なツィーグラーの目には「狂気と鉄面皮と無能力と退廃の所産であった。」エルンスト・バルラッハは、その中の二つを代表していた。ロビーのガラス棚の中に押収された『素描集』と、中央展示室の二体のブロンズ“再会”である。
 
 表向きは屈託なく装ってはいたが、その実彼はこの残虐行為に深く動揺する。彼の遺品の中から、1937年7月29・30日の痛々しい書面が見つかっている。「就業禁止の脅威にさらされていた時」と、彼はこの文書の中で不安を吐露する。「私は[中略]ある種の追放を経験している。根こそぎ潰されることについては、ほとんど諦めてしまった。評決は[中略]有罪、私の個としての存在を、生きるために必要なこれまでの全てのものから遮断することを意味する。[中略]私を絞め殺そうとするこの行為を回避するには、本物の絞首台にでも身を置くしかない。[後略]」
 
 この胸を打つ告発のインクは乾くことはなかった。彼を早くも次の一撃がえぐったからだ。1937年8月23日、政権に追従する「ドイツ・キリスト教徒」が支配するシュヴェリーン上位教会委員会が、大聖堂の伝道師シュヴァルツコプフの抵抗を押し切って“ギュストロウ大聖堂の天使”を取り外し、後に鋳つぶすため運び去ったのだ。
 
 この当時のバルラッハの手紙を読んだ者は、そこに差し迫る崩壊の兆しを容易に読み取ることができる。恐るべき衰弱と数々のひどい発作が、深く取り乱した彼を責めさいなんでいた。発汗、めまい、止まらない咳、そして胸の痛みである。両手は震え、両足は動かず、何度も目がくらむ。希望のないこの状況にあって、これまでずっと保ち続けてきた彼の気力も時折弱まり、絶望が襲った。1938年4月、ある若い信奉者に宛てた当時の胸を打つ手紙の中で彼は書く。「現実に起こっている事柄に対し、パニックを起こすことが私には常にありました。いわゆる良き時代、と世間の人が呼んでいるに過ぎませんが、その数年間においてすらも。[中略]今は邪悪な風が吹き荒れています。人の存在とは時に運命によって左右されるものだ、折に触れ、予見者にでもなったかのようにこう感じられるのは奇妙なことです。厳粛な体験とでも言うほかはありません。そのきっかけが好意であろうと悪意であろうと。そう、何らきっかけがなくとも、人の心というものは、より高く大切なものを感知することがあります。そこに足を踏み入れることが、或いはそれが存在すること自体が当然と思え、敬虔な気持ちで安心して受け入れられるのです。それは善いものに違いない。従って善いのである。これがこの教訓の結論です。しかし、もしこの教訓を受け入れることができず、がんこに拒絶するなら、その人間は絶望に陥り正気を失います。そうならないように、永遠なる運命は我々皆を守っているのです。[後略]」
 
 バルラッハがこれを書いた時、彼の悲しみの母のレリーフをハンブルク記念碑から撤去する通告をハンブルク市政府が出してから三カ月が経っていた。しかしこの最後の屈辱を、重病の彼はもう体験することはなかった。1938年9月末、彼はロストックのある私立病院に入院を余儀なくされる。昼夜を徹して、マルガ・ベーマーは彼の枕元に付き添った。数時間の後、窒息発作から瀕死の状態にあり、混濁した意識の中にわずかな安息を得ている彼を、彼女はスケッチしている。彼女が不器用なタッチで描いたこの数枚の絵は、ひとりの人間の死の記録として尽きぬ感動を与えて止まない。10月24日、エルンスト・バルラッハは遂にその目を永久に閉じた。
 
 10月27日の夕暮時、彼のアトリエで葬儀は行われた。棺はモミの小枝の前に飾られた壁に開いて置かれた。彼の上にはギュストロウ大聖堂の天使像の頭部が掲げられた。その隣には、安楽椅子に腰かけたケーテ・コルヴィッツがいた。彼女の面影を模して天使は造られたのだった。同じ夜、彼女は棺の中で憩う、静かに遠くへ去った崇拝する同業者の最後の姿を記憶のまま描いた。祈祷の初めに、シュヴァルツコプフ牧師はエレミアの哀歌の第三章を読んだ。その後、友人たちが短く言葉を述べた。式場にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと、バルラッハがこよなく愛した作曲家アントン・ブルックナーの調べが流れた。
 
 埋葬式は翌日行われた。その際、故人の最後の意向が叶えられた。彼はギュストロウに埋葬されることを望まなかった。彼を追放し、辱しめ、誹謗中傷した町に。そこで彼はラッツェブルクに、―― 彼の父の地に最後の休息の身を横たえた。墓地には50人足らずの人々が集まった。同業の芸術家、博物館員、美術商、友人 ―― 役所関係の人間は皆無だった。この埋葬式について、ある崇拝者が短い報告を書いている。「そして、彼は立ちこめる靄の中運ばれて行った。大きな茶色い棺は、小さなその体にはあまりに大きかった。[中略]棺が穴にゆらりと入って行った時、太陽が靄の中から現われた[後略]。」
 
 死者が力尽きるまで支え続けたマルガ・ベーマーは、肩を落とし、どうにもならなかったこの悲しい結末を総括した。「そして、残念ながらバルラッハにも起こってしまったのです、盲目のクーレ(バルラッハの最初の戯曲『死せる日』の主人公)の言った言葉が。『義なる者が没落し、塵芥が繁栄するのを人は見る。』そして、あの数々の苦い言葉はまた、バルラッハの墓石にも刻むことができたのかもしれません。『良き時間の体験 ― それは例外で不幸である ― 実現とは常に、希望や期待よりも哀しいものだ ― 今在ることはあまりに苦しくつらい、価値あるものをめざすなら、非存在である方がよかったと思えるほどに』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エルンスト・バルラッハ年譜

1869年  医師ゲオルク・ゴットリープ・バルラッハ(バルラッハの父)、ルイーゼ・フォラートと結婚(3月2日)。
 
1870年  エルンスト・バルラッハ、ハンブルク近郊エルベ河畔の小都市ヴェーデルに誕生(1月2日)。 
 
1871年  弟ハンス誕生(7月11日)。
 
1872年  バルラッハ一家、メクレンブルクのシェーンベルクに転居。双子の弟ニコラウスとヨーゼフ誕生(8月2日)。
 
1876年  バルラッハ一家、ラッツェブルクに転居(9月)。
 
1884年  父バルラッハ医師、45才でラッツッェブルクに死去(6月3日)。
 
1888年  シェーンベルクの実科学校終了後、ハンブルクの一般工芸学校に進学。
 
1891年  ドレスデンの王立造形芸術アカデミーに転校。
 
1893年  学生バルラッハ、建築家向けの教科書『人と動物のスケッチ』の挿絵の依頼を受ける。
 
1894年  彫刻代表作:“野草を摘む少女”
 
1895年  ドレスデンで卒業試験(2月)。カール・ガルバースと研究生としてパリ滞在(4月25日~1896年4月初め)。
 
1896年  テューリンゲンのフリードリヒローダに住む母のもとに転居(5月初め)。
 
1897年  二度目のパリ滞在(3月~7月)。その後再びフリードリヒローダへ戻る。アルトナに根を下ろしていたカール・ガルバースの共同経営者となる(夏)。
 
1898年  バルラッハとガルバース、ハンブルクの新市庁舎広場の装飾コンクールに優勝(11月8日)。
 
1899年  ハンブルクからベルリンに転居(9月26日)。
 
1900年  彫刻代表作:“メーラー・ヤッケ墓碑”(1902年完成)
 
1901年  生誕地ヴェーデルへ帰る(6月)。
 
1902年  彫刻代表作:“ネプチューン”を、アルスター湖畔のハンブルク―アメリカ便管理ビルに制作。
 
1903年  彫刻代表作:“ムッツ陶器”
 
1904年  ヘール(現ヘール・グレンツハウゼン/ヴェストヴァルト)の王立陶器専門学校で教職に就く(9月)。
 
1905年  ベルリンへ転居(4月)。
 
1906年  人生および創作上の深刻な危機に陥る。南ロシアのハリコフに住む弟ハンスの元を訪れる(8月3日~9月27日)。ロシア旅行中、ベルリンにて婚外子ニコラウス誕生(8月20日)。母親はお針子のローザ・リモーナ・シュヴァップ。彫刻代表作:“盲目の物乞い”“皿を持つロシアの物乞い女”
 
1907年  彫刻代表作:“メロンを剥く男”“ロシアの物乞い女Ⅰ,Ⅱ”“座る女”“座る草原の羊飼い”
 
1908年  ベルリン分離派に所属。ベルリンの美術商パウル・カシーラー、バルラッハに固定月給を提供し全彫刻作品の委託販売を請け負う。ベルリン分離派の秋の展覧会にて、初の木彫作品を出品する。バルラッハの息子ニコラウス、嫡子と認められ、彼の扶養に入る(12月22日)。彫刻代表作:“横たわる農夫”“嵐の中の羊飼い”
 
1909年  ヴィラ・ロマーナ財団の研究生としてフィレンツェに滞在(2月7日~11月10日)。彫刻代表作:“大酒飲み”“占星術師Ⅰ,Ⅱ”
 
1910年  ギュストロウの陶器工房跡を仮のアトリエとする(5月)。ベルリンからギュストロウへ転居する(6月)。彫刻代表作:“悩める女”“ベルセルケル”“太陽崇拝者”“休息するドイブラー”
 
1911年  シュヴェリーナー通り22番地の貸家を入手する(10月4日)。彫刻代表作:“歌う三人の女”“孤独な人”“剣を抜く人”“恍惚とする人”
 
1912年  ノオルヴィジク・アーン・ツェーのカシーラーの別荘に滞在(7月24日~8月中旬)、夫人ティラ・デュリューの肖像画を描く。彫刻代表作:“幻”“ティラ・デュリューの肖像Ⅰ~Ⅳ”“散歩する人”“恐れおののく人”
 
1913年  彫刻代表作:“見捨てられた人々(レリーフ)”“杖を持った老女”“テオドール・ドイブラーの肖像”“アルバート・コールマンの肖像”
 
1914年  第一次世界大戦勃発後、『ギュストロウ日記』を書き始める(8月3日)。彫刻代表作:“悲嘆する人”“村のバイオリン弾き”“復讐者”
 
1915年  志願予備兵として(現デンマーク領)ゾンダーブルク駐留(12月7日~1916年2月)。彫刻代表作:“ベルリン・ヴィラ・メンデルスゾーンの暖炉のレリーフ(~1916年)”
 
1916年  彫刻代表作:“凍える少女”“眠る二人(レリーフ、~1917年)”
 
1917年  彫刻代表作:“凍える少女”“復活(レリーフ)”“山越え(レリーフ)”
 
1918年  ドイツ帝国と連合国停戦協定(11月11日)。彫刻代表作:“枷をはめられた人”“モーゼ(立法者)”
 
1919年  プロイセン芸術アカデミーの会員となる(1月24日)。二作目の戯曲『哀れないとこ』(1918年刊)ハンブルクの室内劇場にて初演(3月20日)。初めての戯曲『死せる日』(1912年刊)ライプツィヒ劇場にて初演(11月22日)。彫刻代表作:“拷問される人類(レリーフ)”“火刑場の魔女(レリーフ)”
 
1920年  神経症を患う母、シュヴェリーン湖で入水自殺(8月5日)。彫刻代表作:“恍惚とする女”“踊る老女”“フリードリヒ・シュルトのマスク
 
1921年  三作目の戯曲『真のゼーデムント家』(1920年刊)ハンブルク室内劇場にて初演(3月23日)。友人フリードリヒ・シュルト夫人に結婚を断られ、深刻な人生の危機に陥る(8月15日)。彫刻代表作:“アルバート・コールマンの頭部”“草原の女”
 
1922年  彫刻代表作:“外套を着た男”“ラインハルト・ピーパーの肖像”
 
1923年  彫刻代表作:“眠る二人(レリーフ)”“泣く女”“恐怖”
 
1924年  マルガとベルンハルトのベーマー夫妻、ギュストロウ門に面したのインゼル湖畔に家を買う(初旬)。5作目の戯曲『大洪水』(1924年刊)シュトゥットガルトのヴュルテンベルク劇場にて初演(9月27日)。彫刻代表作:“身重の女”“待つ人”
 
1925年  彫刻代表作:“使徒(レリーフ)”“夢見る人”“死”“苦行者”
 
1926年  バルラッハ作品の取扱美術商パウル・カシーラー、ピストル自殺(1月7日)。バルラッハの木彫彫刻の大回顧展、カシーラー美術サロンで開催(2月)。39才の彫刻家マルガ・ベーマーとの恋愛関係始まる(5月)。6作目の戯曲『青いボル』(1926年刊)シュトゥットガルト州立劇場にて初演(10月13日)。ヴァルクミューレン通り21番地の新アトリエで創作を開始(12月1日)。彫刻代表作:“耳を澄ます人たちのフリーズ”下絵(“ベートーベン記念碑”の部分として制作)。“再会”“縛られた魔女”
 
1927年  “ギュストロウ大聖堂の天使”祝日礼拝にて除幕(5月29日)。ベーマー夫妻離婚(6月4日)。彫刻代表作:“ギュストロウ大聖堂の天使”
 
1928年  4作目の戯曲『拾い子』(1922年刊)キェーニヒスベルクの新劇場にて初演(4月21日)。ベーマー夫妻の離婚を受け、インゼル湖畔のベーマー邸に転居(9月中旬)。パウル・カシーラー出版、バルラッハの自伝『自叙伝』を刊行(10月初旬)。ブロンズ像“魂の戦士”キールに設置(11月29日)。マルヒーンの記念碑計画、鉄かぶと党の抗議により挫折(1928年末~29年初頭)。彫刻代表作:“魂の戦士”“歌う男”
 
1929年  マクデブルク大聖堂にて“マクデブルク記念碑”除幕(11月24日)。7作目の戯曲『良き時代』(1929年刊)ゲラのロイスィシェン劇場にて初演(11月28日)。彫刻代表作:“マクデブルク記念碑”
 
1930年  バルラッハ生誕60年(1月2日)の記念展覧会、キール美術館にて開催(1月5日)。プロイセン芸術アカデミー、バルラッハ記念展覧会開催(1月8日)。リューベックの記念碑委員会、聖カタリーナ教会外壁の“聖人たちの饗宴”計画を承認(1月17日)。故パウル・カシーラー夫人ティラ・デュリュー、ベルリンの実業家ルートヴィヒ・カツェネレンボーゲンと結婚(2月28日)。画廊主アルフレート・フレヒトハイム、16体のブロンズ像を制作する契約をバルラッハと結ぶ(7月14日)。“聖人たちの饗宴”の第一作となる“物乞い”完成(7月末)。その後、聖カタリーナ教会の“聖人たちの饗宴”制作を、リューベックの博物館長カール・ゲオルク・ハイゼと契約する(8月19日)。ティラ・デュリューより“耳を澄ます人のフリーズ”注文(11月初旬)。ハンブルク州政府より“ハンブルク記念碑”の“悲しむ母と子”注文(12月3日)。彫刻代表作:“さすらう人(“耳を澄ます人のフリーズ”より)”“物乞い(“聖人たちの饗宴”より)”“読書する修道院生徒”
 
1931年  インゼル湖畔の新アトリエハウスにて創作を開始(2月20日)。“ハンブルク記念碑”除幕(8月2日)。“聖人たちの饗宴”の第二作“唱う人”完成(11月)。ベルンハルト・ベーマー、工場主の娘ヘラ・オッテと結婚(12月29日)、新アトリエハウスの翼部屋に入居。彫刻代表作:“耳を澄ます者たちのフリーズ”の二体(“踊る人”“夢見る人”)“説教するキリスト”“懐疑する人”“ハンブルク記念碑(レリーフ)”“唱う人(“聖人たちの饗宴”より)”
 
1932年  ティラ・デュリューの夫ルートヴィヒ・カツェネレンボーゲン、各種経済違法行為により禁錮刑を受ける(3月18日)。帝国議会選挙にて、NSDAPが230議席を獲得、最強派閥となる(7月末)。バルラッハ、“シュトラールズント記念碑”の企画を説明する(10月末)。彫刻代表作:“風の中の女(“聖人たちの饗宴”より)”“読書する修道僧Ⅲ”
 
1933年  エルンスト・バルラッハ、ドイツ放送局の『現代の芸術家』シリーズでラジオ講演(1月23日)。フォン・ヒンデンブルク大統領、アドルフ・ヒトラーを帝国首相に任命(“権力掌握”)(1月30日)。バルラッハ、平和部門でプロイセン勲功章を受ける(2月末)。帝国議会選挙にてNSDAP、288議席を獲得し、フォン・フーゲンベルクの“火線三色旗”党の52議席を合わせ、絶対多数派となる(3月5日)。“マクデブルク記念碑”について、教区員より最初の撤去要請(3月18日)。バルラッハ、“シュトラールズント記念碑”制作への応募を「重大な厄介事を回避するため」取り下げる(3月18日)。帝国議会、「全権委任法」により帝国政府に期限付きの全権を授ける(3月23日)。「職業官吏制度再興のための法令」により、ユダヤ系または公務職に好ましからざる者(博物館館長、芸術大学教授など)を解任する全権が帝国政府に与えられる(4月7日)。シカゴ万国博覧会開幕、外務省の提案を受け、バルラッハの代表作二点が出品される(6月1日)。“マクデブルク記念碑”撤去の二度目の要請(6月23日)。ヒトラー、ニュルンベルク党大会において、現代芸術との戦いを予告する(9月1日)。帝国文化部法令により、あらゆるドイツ人芸術家は帝国文化部に属することが義務付けられる(9月22日)。リューベック博物館館長カール・ゲオルク・ハイゼの辞職(9月27日)により、“聖人たちの饗宴”計画、三体の像を完成したのみで中断。バルラッハ作品取扱美術商でユダヤ人のアルフレート・フレヒトハイム、画廊を解散する(10月)。シュヴェリーン市立劇場におけるバルラッハ劇の興業、理由なく取り止めとなる(11月26日)。彫刻代表作:“坐る女”“うずくまる女”
 
1934年  ロストックの芸術協会、「1850年から現在に至るメクレンブルクの肖像展」開幕を前に、展示済のバルラッハの全作品を撤去(1月21日)。ハンブルクの工場主ヘルマン・F・レームツマ、バルラッハの“耳を澄ます人たちのフリーズ”の完成を注文する(8月末)。マクデブルク大聖堂から“マクデブルク記念碑”撤去(9月24日)、ベルリン国立博物館に保管される。彫刻代表作:“風の中を行く人”“陽気な一本足”“信じる人(“耳を澄ます者たちのフリーズ”より)”
 
1935年  バルラッハの戯曲『真のゼーデムント』アルトナ市立劇場の上演計画が中止となる(6月5日)。ミュンヘンのピーパー出版、『エルンスト・バルラッハ ― 素描集』を刊行(10月)。“耳を澄ます人たちのフリーズ”完成し、ヘルマン・F・レームツマに引き渡される(11月24日)。彫刻代表作:“耳を澄ます人たちのフリーズ”の5作品(“巡礼者”“待ち望む人”“祝福された人”“盲目の人”“感じやすい人”)
 
1936年  ピーパー出版の『エルンスト・バルラッハ ― 素描集』政治警察により押収命令(3月24日)。ニュールンベルク党大会にて、ヒトラー「ボルシェヴィストによる芸術の愚弄の終結」を宣言(9月9日)。カール・ディートリヒ・カールス著の優れたバルラッハ本が発禁となる(秋)。ベルリンのプロイセン芸術アカデミーの記念大展覧会開幕を前に、設置済のバルラッハ作品が撤去される(11月5日)。彫刻代表作:“笛を吹く人”“読書する人”“厄年”
 
1937年  帝国民族調査局、バルラッハの血筋が正統なライン・ドイツ人(アーリア人)であることを承認(3月30日)。キールの“魂の戦士”撤去される(4月20日)。カール・ブッフホルツ・ベルリン・ギャラリーで、バルラッハ作品を展示した最後の展覧会が強制閉幕となる(6月27日)。バルラッハ、強い政治的圧力により、プロイセン芸術アカデミー退会を宣言(7月11日)。ミュンヘンにて「退廃芸術展」開幕、バルラッハの作品も展示される(7月19日)。ギュストロウ大聖堂より“大聖堂の天使”撤去(8月23日)。彫刻代表作:“絶望する人”“凍える老女”“笑う老女”
 
1938年  ハンブルク州政府、“ハンブルク記念碑”のバルラッハのレリーフの破壊を通告(1月21日)。バルラッハ、心臓衰弱によりロストックの私立病院にて死去(10月24日)。内輪の葬儀がインゼル湖畔のアトリエハウスの大部屋で執り行われる(10月27日)。ラッツェブルクにて埋葬式(10月28日)。
 
1939年  バルラッハを巡る最後の公的行事。“悲しむ母子のレリーフ”が“ハンブルク記念碑”から彫り出され、後に破壊される(2月)。
 

 

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