『ドイツのサイレント映画』(アイスナー)

浦上潜伏キリシタン

2014年12月24日、長崎。クリスマスをここで迎えるのは何度目だろう。前々回は長崎市内のあと、島原と原城をメインに。前回は原城からフェリーで天草へ渡り、天草四郎とキリシタン施設巡りをした。今回は、毎回中途半端に終わっている長崎市内の潜伏キリシタンの足跡と、「郡崩れ」の舞台である大村市の殉教跡を訪ねること。大村は長崎から日帰りで行ける距離なので、移動は今回なし。

まず長崎駅から電鉄に乗り大橋下車。ここが実質的なスタート地点だ。そこで目につくのが秘密教会サンタ・クララ教会跡 の記念碑だ。「家野はよかよか 昔から善かよ サンタ・カ1ララの土地じゃもの」8月の聖母マリアの祝日が日本のお盆と重なっていたため、盆踊りに託して聖母を讃美していたという。「浦上崩れ」といわれるキリシタンの検挙事件は計4回起こっているが、1790年の「一番崩れ」と1842年の「二番崩れ」で嫌疑をかけられた者は、最終的には皆放免になっている(1856年の「三番崩れ」では、指導者一人が獄死した)。キリシタン弾圧時代の記憶も遠い過去のものとなった江戸幕府安定期、もはや大した脅威でもないキリシタンをめぐる騒動を疎ましく思う為政者側の思惑もあったといわれる。そしてキリシタン自身はといえば、禁令の高札が厳然と存在していることは知ってはいたものの、極秘の信仰生活にも慣れ、ある意味平穏な生活が日常のものとなっていたため、多少大胆な行動に出る気持ちにもなったのだろう。ともあれ、よく聞けば「あれ?」と思うこんな唄をしらっと歌い踊り、世間やお上を手玉に取っている姿には、庶民の逞しさやユーモアすら感じられる。

そこから歩いて●ベアトス様の墓(ここで火あぶりになった敬虔なキリシタン親子三人を悼む碑)●白山墓地(今日最初のキリシタン墓地)●秘密教会聖フランシスコ・ザべリオ堂跡(民家の入口前に碑文が残るのみ)●帳方屋敷跡(現 如己堂)と巡り、カトリックセンターでバスの時間を確かめてから、目の前の浦上天主堂を訪れ、“旅(1867年に始まる「浦上四番崩れ」による流刑を、信徒は振り返ってこう呼んだ)”の記念の十字架を見る。

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ここで思わぬボーナス。中町教会でチラシを手に入れた『浦上キリシタン資料館』がすぐ近くにあり、「信徒発見前夜」という特別展示をしていた。展示自体は大掛かりなものではなかったが、潜伏キリシタンに関する数々の書籍や資料が閲覧できた。むろん、ほとんどが絶版だが、古書店なら手に入るものも多いだろう。帰ったら探ってみよう。と、ここまでで正午。周囲に食事のできる場所もなく、スーパーでパンを買って予定のバスに乗り込む(私の旅らしくなってきたぞ!)。

バスは山道をくねくね上り、ものすごい高台にある本原教会で下車。裏手の●一本木山 (マリアの山)に登る。潜伏キリシタンたちが密かに集まって祈りを捧げていたというこの山には、「ルルド(フランス・ルルドの聖母マリア出現を再現したもの)」、中腹にキリストの十字架と祭壇、「十字架の道行き(キリストの逮捕から磔刑までをレリーフに表したもの)」、そして一本の質素な十字架が立っていた。そこから、パンをかじりながら(これぞ私の旅だっ)歩いて下りる。

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平の下バス停脇、左右に家々が立ち並ぶ階段を上るとすぐ、民家の玄関前に●秘密教会聖マリア堂跡 の碑。「浦上四番崩れ」の時ここで朝の礼拝を行っていたローカニュ神父は、危うく捕まるところを一本木山へ逃げ込み難を逃れたのだそうだ。

さらに上って左へ折れ、長い長い階段をひたすら上る。おかげで真冬だというのに汗だく、その熱気で、セーターを通して背負っていたリュックの肩紐が湿り気を帯びるほどだった。途中、階段の片側にある一軒の家の門に、巨大な飼猫がシーサーの如くでんと座っていた。近づくと逃げたが、今度は反対側の家の溝板からひょいと顔を出す。からかうなよ、こっちは息も絶え絶えなのにっ!

やがて、「十字架の道行き」になぞらえた14本の十字架が、中央の大きな十字架を囲むように並ぶ●十字架山 に辿り着く。仰天したことに、そこからさらにまだ高台にも民家が広がっている。ここはバチカンに認められた公式の巡礼地ということだが、民家にパラボラアンテナや洗濯物などが見えると拍子抜けしてしまう。せめて高塀で覆うなどの整備をしてほしいものだ。しかしこの山の上から、人々はいったいどうやって仕事や買物に通っているのだろう。呆然としながらとぼとぼ歩いて下りる帰路、後ろからやって来た子供たちは「こんにちは!」と元気な挨拶をくれながら、皆ぴょんぴょんと階段を駆け下りていった。

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階段を下り切って、フランシスコ病院バス停前を更に少し下ると小さな川。渡ったところを左に折れて、どう見ても住宅しかないと思った奥の突き当りに、突然現れる●小峰のルルド(まさかこんな場所に…。長崎すごい!)。

戻って道路を渡り、反対の道に入ったところに『浦上養育園』がある。「浦上四番崩れ」の流罪を果敢に耐え抜いた後、ド・ロ神父らを助けながら一生を奉仕に捧げた岩永マキが建てた。巷にあふれる孤児を自らの戸籍に入れて育て上げ、その数900人に及んだそうだ。玄関先にはマキの像が立っている。

その先を進み、『ザビエル工房』の前を曲がると『お告げのマリア修道女会』、その玄関横のフェンスの中に●秘密教会聖ヨゼフ堂跡 の碑がある。元は「浦上四番崩れ」で名を残した髙木仙右衛門の住居があった場所で、岩永マキら4人の婦人たちの奉仕活動の拠点として貸し与えられたのが会の始まりということ。

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さて、またもとの道に戻って脇に入ると●こうらんば墓地。大通りにほど近い場所にあるこのキリシタン墓地には、髙木仙右衛門や岩永マキも眠っているそうだ。

ここでやっとバスに乗り、浦上天主堂に戻った。そこから、長崎大学病院沿いの道を地図を頼りに進み●経ケ峰共同墓地 へ。細い道と階段だらけでわかりにくいことこの上なく、偶然行き着いたようなもの。「浦上一番崩れ」の時取調べを受けたというキリシタン墓地も無事見ることができた。

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この日はこれが限界。もう一ケ所の●赤城キリシタン墓地 へは翌日行った。修道者の墓もある広大なキリシタン墓地だ。浦上キリシタン復活に大いに関わったパリ外国宣教会の会員たち(プチジャン神父含む)の銘もあった。中をうろうろして写真を撮るのは気が引けたが、学生や一般車両が普通に近道として利用していくのがわかって、ちょっと安心。

十字架山の階段と、坂道の上り下りのせいで、ホテルにチェックインした時には、もう自分の体ではないようにへとへとだった。彼らは、怪しまれないようあんなに険しい山道の先まで毎週通いながら信仰を守り、遂に守り切ったのだ。役人や密告者の眼をかわすために、まるで秘密結社のように結束し、隠し、ごまかしながら、250年間も綿々と受け継いでいったのだ。命がけなのに、不思議と悲愴なイメージは浮かんでこない。どんな風にしらばっくれてカモフラージュしていたのだろう。ばれそうになった時には、無知で愚かな農民のフリで、役人たちに敢えて馬鹿者扱いされるなどして、警戒を解かれるように仕向けていたのだろうか。こんなスリリングな信仰生活をおくれる信徒なんてそうあるものじゃない。やはり世界的に見ても長崎は奇跡の地と呼ばれるにふさわしいと思った。

 

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山川登美子~若狭・上越の旅(1)

2016年7月、三連休の中日を利用して、以前から再訪したいと思っていた福井県の『若州一滴文庫』を訪ねた。(『若州一滴文庫』と斎藤真一)の項参照)

JR小浜線の若狭本郷駅下車バスで5分ということだったが、交通の便が悪く、長距離バスで隣りの小浜駅まで来たところで電車は2時間待ち。仕方がないので小浜で見物できるところを探すと、与謝野晶子と文芸誌「明星」で活動を共にした歌人の山川登美子が当地の出身で、その生家を改装した記念館があるということなので行ってみることにした。

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山川登美子(1879-1909)といえば、晶子をめぐる人々をドラマチックに描いた読み物では、与謝野鉄幹を晶子と争うものの、控えめで従順な人柄ゆえに情熱家の晶子に敗れ、泣く泣く父の決めた縁談を受けて文壇を去り、29歳で早世した薄幸の女流歌人というのが定説だ。しかし実際は、夫と死別後未亡人として泣き暮らすかと思いきや、女学校へ進学し、文壇にも返り咲いて晶子らと歌集を出版するなど、堂々とセカンドライフを謳歌しているのだ。彼女に縁談を勧めた父とて、良妻賢母を強要するだけの封建的な暴君では決してなかった。登美子の才能を誰よりも理解し進学を支援したのは父であったし、登美子も父を心から愛し崇拝していた。不運にも病死してしまうことがなければ、登美子はまた新たな姿で文壇に輝かしい名を残していたに違いない。最愛の父を亡くし、養女に迎えようとしていた姪にまで先立たれた登美子は、亡夫の看病中に感染したと思われる結核を一気に悪化させて死の床に就く。そして仰臥したままで、弟に半紙を掲げさせ辞世の句をしたため逝った。最期まで凛としていて、しっかりとした意志の持ち主だったことが伺える。

奔放な女と忍従の女の対比というのは、昔から日本人が好む図式であるけれども、生身の彼女たちの実人生は、一人ひとりもっと複雑でもっとカラフルで、そんな退屈な図式には到底収まるはずもないのだ。29年の生涯を力いっぱい駆け抜けた山川登美子は、与えられた生命を自分の手で切り開き全うしようとした人だった。短い滞在ではあったけれど、また一人、同じ女として私のずっと先を歩いていった先達に出会えたと実感できたひとときだった。

若狭・上越の旅(2)~『若州一滴文庫』と斎藤真一

若狭・上越の旅(3)~越後瞽女のふるさと 高田


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『若州一滴文庫』と斎藤真一~若狭・上越の旅(2)

『若州一滴文庫』は、作家の故・水上勉が「後世の子供たちのために」と私財を投じて故郷の町に建てた施設で、水上の蔵書2万冊が閲覧できる図書室兼企画展示室と、越前竹人形に魅せられた彼が起ち上げた竹人形文楽「若州一滴座」の劇場、およびその人形たちを展示した竹人形館から成る。20年以上前に初めて訪れた時は、劇場と人形館が一つの茅葺きの小屋に同居していたが、老朽化が進んだため現在は立入禁止となっていて、敷地内に別途増築されたそれぞれの建物で上演と展示が行われている。水上から経営を委譲された地元おおい町の『一滴の里』が管理し、休憩のとれる庵もある。

さて、小浜駅から無事電車にも乗れて(「山川登美子」の項参照)若狭本郷駅に着いたはいいが、バスとの連絡はない。駅からは車で5分。時間があれば歩く選択肢もあったが、すでに2時間以上足止めをくらった後なので、一刻も早く行こうとタクシーを利用することにした。ところが、いざ走り出してみれば見渡す限りの田園風景、7月の強い日射しを遮る樹木すら皆無の一本道を、一直線に飛ばして5分の距離である。1,000円超えの出費は痛かったが、歩かなくてよかったと胸をなでおろす。

Ningyoukan_2今回ここへ来た目当ては竹人形館であった。実は私は水上作品を読んだことがなく、当然芝居も見たことがないのだが、20数年前に目にした人形たちの姿はずっと頭の隅に残っていた。当時は、前述したように今は使われていない茅葺きの建物の中に展示されていた。現在の竹人形館より奥行きも狭く、中央に人形が展示され、それらを取り囲むように、Oyuu_2 壁には天井の高さから中ほどにかけて、人形たちの頭部が一面に並んでいた。薄暗い室内、一つひとつ表情の違う人形の光景は、夢幻を通り越して恐ろしいほどだった。今は二階建ての明るい吹き抜けの展示室に移されて、当時のようなおどろおどろしさはない。とはいえやはり、壁に掛かった200体もの頭部の存在感は圧倒的だ。それらを背景にして、「五番街夕霧楼」「越前竹人形」「はなれ瞽女おりん」といった作品ごとに、登場する人形が数体ずつ展示されている。身長1mほどのこの人形たちは言わば各芝居の出演俳優だ。全国で何百回もの公演をこなしてきた人形もあるということで、衣装に身を包んでとるポーズは鮮やかに決まっている。竹を細く割いて籠を編むように頭部を形作り、そこに竹梳き紙を貼りつけて彩色する。表情は文楽に近い。「五番街夕霧楼」の遊女らに見られる妖艶さは、辻村ジュサブローの人形を思わせる。面白かったのは、頭部をすっぽり紙で覆うのではなく、後ろの部分は竹枠むき出しのまま残していること。手作り感があってなかなかいい。ここでは年に何回か、竹梳き紙の講習会も開かれているということだ。

その『一滴文庫』の企画展示室で、斎藤真一(1922~1994)の「瞽女」展を開催していた。斎藤は水上作品の本の表紙なども手掛けている画家だ。岡山県生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒業後、静岡で教職に就きながら絵を発表し続け、37歳で渡仏。現地でSaito_goze6_2知己となった藤田嗣治の勧めで、帰国後東北に赴き、津軽で瞽女(盲目の女性旅芸人)の存在を知る。以後、現存する最後の高田瞽女親方宅に通い、時には旅まで共にする生活を10年以上にわたって続けることになる。その経験は、歴史に埋没していた“瞽女”とその生活を紹介した著書「瞽女―盲目の旅芸人」さらに、親方の記憶にある瞽女たちの生涯を克明に記録し、画と文で綴った大著「越後瞽女日記」に結実する(まさに取りつかれたとしか思えない、大変な労作だ)。

瞽女の多くは生まれながら目が見えないか、麻疹や風眼などにより幼くして失明。独りで生きていくために、親元を離れて瞽女の師匠のもとに弟子入りし、三味線と唄の修行を積んで一流の芸を身につけた。各地を徒歩で旅する彼女らの芸は、娯楽の少なかった時代、各地で心待ちにされ温かくもてなされた。一般の社会生活から距離を置く瞽女の共同体は、稼げる者も稼ぎに出られない者も皆一律に収入を分け合う独特の平等なルールを敷いた一方で、組織のルールをはずれる行いをした者に対しては容赦なく厳罰が下される厳しい世界でもあったという。

斎藤は、実在した越後瞽女の記録を取る一方で、彼が捉えた瞽女たちの哀しい宿命を独自のイメージでSaito_goze4_2絵にする。そこに描かれる、赤(彼は瞽女たちの秘めた情念までをえぐり出す“赫”を創造し常に用いている)を基調とする艶やかな色調の中に様式化された瞽女は、ほとんどが正面を向いていて、不自然なまでによじらせた体躯や見えない両眼から伝う涙の筋が、出会いと別れ、熱情と諦めの苦しみの声にならない叫びを表現する。

ただ、私が魅かれるのは個々の瞽女のストレートな表現よりも、むしろ旅する彼女らを描いた絵の方である。その出で立ちは頬被りに瞽女笠、かすりの着物に蹴出しと羽織、手には手甲、足には脚袢、わらじ履き(後年は地下足袋)。10㎏を超える荷をかつぎ、手引きと呼ばれる視力のある瞽女を先頭に、前を行く者の体に手を触れて一列に歩いていくのが瞽女の旅。目的地も訪ねる時期も共同体によって大体決まっているので、地方から地方、村から村へと険しい山道をひたすら急ぐ。年間300日にものぼったという彼女らの旅は、大自然に翻弄される危険と隣り合わせの旅でもあった。流れの速い川を渡り損ねて水死した瞽女、吹雪に遭い凍死した瞽女もいたという。

Saito_tabi「二本木の雪」雪深い北国の広大な大地、山間の細い道を、雪に埋もれてしまいそうな3人の瞽女が峠越えしていく。暗い青灰色の背景。遠くに灯る家々の明かり。その中を黙々と歩いていく小さな瞽女たち。また別の絵では、浜に打ち寄せる日本海の荒波のしぶきを浴び、横なぐりの風雨を正面から受けながら、身をかがめてひたすら進んでいく。大自然の気まぐれを瞽女たちはじっと耐え忍びやり過ごすが、立ち止まることはしない。師匠のそのまた師匠の時代から、瞽女はずっとそうやって生きてきたのだ。瞽女の“旅”は、彼女たち自身の人生の旅路を象徴している。バルラッハが描く、北ドイツの厳しい自然を生きる農夫や羊飼いたちに通じる世界だ。灰色の空と暗い海。天と地、空と大地の間にあって、自然の猛威にさらされながら営まれる人間の生活。ああ、こういう世界を描く芸術家が日本にもいたのだ。斎藤がここまで魂を持っていかれた瞽女たちの足跡を私も辿ってみたい。瞽女という人々とその世界に対する興味が、自分の中で大きく膨らんでいくのを感じた。(「越後瞽女のふるさと 高田」へ続く)

若狭・上越の旅(1)~山川登美子

若狭・上越の旅(3)~越後瞽女のふるさと 高田

 

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越後瞽女のふるさと 高田~若狭・上越の旅(3)

2016年8月20日、上越高田は遠かった。大阪から特急で2時間45分、金沢から北陸新幹線で1時間、さらに、えちごトキめき鉄道の「妙高はねうまライン」に乗り換えて5分。乗継時間も含めると4時間以上だ。

午前10時30分頃高田駅に到着。日射しが強く暑かった。観光案内所で街の見どころのチラシを選んでいると、「“謙信さん”ですか?」と尋ねられた。「いえ“瞽女さん”で…」と答えると、「珍しいですねえ」と目を丸くされた。この週末は、郊外にある上杉謙信公ゆかりの春日山城址で年に一度のお祭りがあり、全国からファンが集結するのだそうだ(ちなみに昨年は、大河ドラマで謙信公を演じたGacktさんが来場されたとのこと)。知らなかったとはいえ、謙信公の一大イベントの日に無関係な目的でやって来る観光客など、確かに珍しい存在ではあったろう。

駅前にある今宵の宿に荷物を預け、身軽になってさっそく散策開始。事前にプリントアウトしておいたマップに沿って、かつて高田瞽女の住居があったという場所をひとつずつ訪ねてみる。往年の面影は残っていないことはわかっていたけれど、いにしえの瞽女さんたちへのごあいさつ代わりと、そして雁木の街並みを歩いてみる足掛かりに。

娯楽の少なかった昔、一生を同じ集落から出ずに終わる人も多かった地方の農村では、毎年決まった時期に遠くから瞽女の門付け唄(一軒一軒まわって唄うごあいさつ唄)が聞こえてくると、子供も大人も外へ飛び出し、静かな村は一気に活気づいたという。私の旧瞽女宅へのあいさつ回りも、言ってみれば一種の門付け。天国の瞽女さんたちは、果たしてどう迎えてくれたことやら。

Machinami「雁木」とは、一言でいえばアーケード。住宅前の歩道に柱を打ち、そこへ各住居から屋根を伸ばして通路をつくる。数メートルの積雪のある当地では、雪に閉じ込められる心配がなくなる一方で、屋根に積もった雪をすべて道路に落とすため車両は通行できなくなってしまったそうだ(今は温暖化の影響か、さほどの積雪は稀とのこと)。この雁木の街並みが、高田では実に延べ16kmにわたって残っていて、そこに点在する古い町屋造りの住居も一部開放して、観光の呼び物としている。

本来は雪除けの雁木だが、今回は直射日光を避けるために役立った。しかし、歩けど歩けど人がいない。観光客はともかく、街の人にも出会わない。土曜日だから商店は開いていたが、人が入っている様子もなくて、覗いてみるのも気後れするほどだった。むろん春日山城址のお祭りのせいもあっただろうが、地元の人は駅前ではなく、車で郊外の商業施設に出かけてしまうのだそうだ(ここにもグローバリズムが。わが田舎を思う)。瞽女関係の品が置いてあるという店舗やギャラリーも全部店先まで(或いは中まで)行ってはみたが、すべて期待外れ。プロジェクトを発信する側と地元との温度差が浮彫り。地方の町興しとは得てしてこういうものだ。

ほとんど一人旅状態で1時間が経過。昼食時間となったが手軽な定食屋もない。仕方がないので駅近くの敷居の高そうな寿司店に入った。時価ネタ中心だが幸いランチメニューもあって、リーズナブルに本格寿司をいただけて満足(ここに限らず、今回の“食”の部分の充実ぶりは、私の旅としては例がなかった。安くておいしいものばかり。上越の豊かな台所に感謝!)。お腹も満ちたところで、気を取り直して最後の高田瞽女杉本家の住居跡へ出かけることにする。

ラジオという娯楽の普及、戦時下の混乱、戦後の農地改革による富農の解体(瞽女に宿を提供できる家が減る)、医学の進歩(失明者の減少)、民主主義の発展(盲人にも教育の機会が与えられ、職業選択肢が増えた)等、瞽女を取り巻く環境の激変により、昭和に入ると瞽女は次々に廃業。高田に19件あった瞽女の家も、昭和20年以降は杉本家一件となった。その杉本家も、昭和58年に親方のキクイさんが亡くなると翌年引き払われ、高田瞽女の歴史は終わった。

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駅前通りから碁盤の目状に続く雁木の下をくねくね歩くこと15分、杉本家であったとおぼしき住居を見つけた。新しいご家族が住んでおられるので内部の公開はされていない。惜しいことだ。最後の瞽女宅でしかも町屋造り。瞽女文化への認識がもっと早く高まっていれば、当然当時の状態で保存・一般公開されているべきところを。せめて外観だけでもと、あらゆる角度から写真を撮りまくる(この時ばかりは人がいなくてほっとした。お邪魔しました)。

高田駅から徒歩Museum10分ほどの場所にある『瞽女ミュージアム高田』は、瞽女文化の保存と啓発を求める「高田瞽女の文化を保存・発信する会」が、国の登録有形文化財「麻屋高野」の一部を改装して完成させた、全国初の瞽女資料館だ。斎藤真一(「『若州一滴文庫』と斎藤真一」の項参照)の瞽女作品に魅せられた池田敏章氏が、長年にわたって収集した作品を上越市に寄贈したのを期に、市と協賛してミュージアムでの常設展示を目指している。さらに町屋造りの一階を利用して、杉本一家に取材したビデオの上映、瞽女資料(斎藤の画集と著作、その他の研究家の著作)の閲覧、斎藤作品や杉本家の瞽女さんたちの写真展示などを行っている。

2015年11月のオープン当初こそ、「池田コレクション」を中心とした展示会など数々のイベントで賑わいを見たが、それが一段落した今後は、館内の常設展示物と施設の充実が課題だということだ。私の印象では、斎藤作品の数は少なくても、過去の企画展のポスターやパネル(そのほとんどに斎藤の絵がプリントされている)で雰囲気は補えていたし、町屋の空間もうまく生かせていると思う。限られた場所に欲張って詰め込んでゴミゴミするよりも、ずっと腰を落ち着けたくなる今の居心地よさを大切にしていく方が断然いい。ただ、「斎藤真一ミュージアム」ではないのだから、斎藤作品にこだわりすぎず、高田瞽女さんたちの生涯をもっと積極的に前面に出していけばよいのでは?杉本家の跡地を活用するのが本来なのだろうが、それが叶わないなら、同じ町屋造りのこの建物の二階部分を利用するなどして、杉本家とその生活ぶりを再現するような展示はできないだろうか。“斎藤作品からイメージされる瞽女”ではなく、むしろ高田に生きた生身の瞽女さんからスタートして充実を図ってもらいたい。斎藤ファンはともかく、「“ごぜ”って何?」とふらりと立ち寄った人に、答えと情報をきちんと提供できるように整えていくことは必要だろう。

瞽女の芸は三味線と唄。旅に出るのを止めてからも、杉本家では日々稽古を怠ることはSugimoto_kikkuiなかったそうだ。芸人としての誇りは瞽女たちの体にしっかりと刻み込まれたものだった。しかしCDを何枚か聞いてはみたものの、恥ずかしながら歌詞はほとんど聞き取れず、歌詞カードを読んでもよくわからない。節もどちらかと言えば単調で繰返しが多い。こんな芸ごころのない自分などが、まどろみの淵に沈んでいきそうなところを叩き戻してくれるのが、腹にバンバンと響鳴する力強い切れのあるあの三味線だ。有名な「津軽じょんがら節」や数々の追分節も、全国を旅する瞽女が運んだ「瞽女唄」が各地に落ちて独自の発展を遂げたものだという。私が聞いたCD収録当時の杉本キクイさんは80歳近く、高田と勢力を二分した長岡瞽女Kobayashi_haru の小林ハルさんに至っては実に96歳である。ハルさんは「手首を痛めていてうまく弾けるかわからない」と言っておられたそうだが、演奏が始まれば鬼気迫ると言ってもいいほどの迫力だ。キクイさんを中心に、つつましくも50年以上にわたって温かい瞽女家族の団らんを守ってきた杉本家と違って、師匠にも弟子にも恵まれず孤軍奮闘、重ねに重ねた血を吐くような苦労を「修行」と呼んで受け入れ生きてきたハルさんが、小さな体に背負ってきた96年分のもの、そのすべてが三味線と甲高い唄声に炸裂していた。

瞽女という職業は、福祉制度の貧しい悪しき歴史の産物であったかもしれない。しかし一方で、社会に見放されても、「抹殺されてなるものか」とたくましく這い上がってきた彼女らの生きざまや底力が、あの力強い三味線の調べと情感あふれる唄を生んだことは間違いない。一人ひとりの瞽女が辿った険しい人生の旅路が背景にあればこそ、同じく人生の悲哀を知る庶民の胸に瞽女唄は響いたのだ。斎藤の偉業の意味はここにある。彼が個々の瞽女の生涯を掘り起こし伝えてくれたことで、私たちはその唄声に耳を傾けながら、遠い昔に去った瞽女という旅芸人の背中を、今この時代にありありと感じることができるのだから。

高田は「蓮祭り」の真っ最中。二日目は、高田城公園のお堀を埋め尽くす一面のハスにHasu_4目を奪われつつ「上越市総合博物館」と「高田図書館」を訪れた。誰かの足跡を辿る時は、地元の公共施設の郷土史コーナーがとても重宝するので、いつもできるだけ足を運ぶことにしている。「総合博物館」の方は、上越市が例の「池田コレクション」展示のための施設改装に入るため、一時閉館前の「さよなら展示」を行っていた。「高田瞽女」のコーナーも大幅に縮小され、杉本キクイさんの遺品を数点だけ見ることができた。バスケットに雪下駄にキクイさん手製のぞうきん。これだけでも大満足だ。「高田図書館」の方は予想通りの大収穫。高田に限らず瞽女全般に関する資料が満載で、音声や映像の資料も揃っていた。一部これは他所では手に入らないと思ったものをコピーさせてもらう。昼食後、思い残しのないよう、旧杉本家と『瞽女ミュージアム』を再度訪れる。二度の訪問中、少女時代に生前の杉本一家をよく見かけたという地元の女性や、建物に魅かれて何も知らずに入ってきた旅行中の若者など、様々な人が訪ねていた。小規模ではあるが、こんな風に何気ない人のつながりで広まって、この地にふさわしい姿に育ってほしいと願う。

参考「瞽女キクイとハル 強く生きた盲女性たち」 (川野楠己著 みやざき文庫)
    
 『瞽女ミュージアム高田』ホームページ  
    『瞽女唄ネットワーク』ホームページ  
    『月岡祐紀子ウェブ』ホームページ

 

若狭・上越の旅(1)~山川登美子
若狭・上越の旅(2)~『若州一滴文庫』と斎藤真一

 

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郡崩れ

 「郡(こおり)崩れ」の舞台となった長崎県大村市は、空路で長崎を訪ねる際、空港バスがまず通る街である。長崎市内からは距離があるため、駅からJRを乗り継いで向かった。

  
 史跡はすべて交通量の多い国道から分かれた脇道沿いにあった。国道は行きかう車輛の騒音が絶えないが、脇道に入ると途端にしんと静まり返る。大して奥深く分け入ったのでもないのに、かき消されるように騒音が聞こえなくなる。その先に、ひっそりとそれらはあるのだ。「妻子別れの石」「放虎原殉教地」「獄門所跡」「胴塚」そして「首塚」…付けられた呼び名だけで、そこでどんな恐ろしいことが行われどれほどの悲嘆に溢れたかが伺える。
 
 大村駅を出て、地図に従って通りを進んでいくと、右手に大村藩主の菩提寺である本経寺が現れる。境内に入らずとも、塀の高さを遥かに越えてそびえるいくつもの石塔墓碑が目に飛び込んでくる。
  
 日本最初のキリシタン大名となった第18代当主大村純忠(1533~1587)の死後、跡を継いだ嫡男喜前は一転棄教、日蓮宗本経寺を建てて、高い石塔墓で改宗をアピールしたと言われる。一時は6万人いたという大村のキリシタンとその文化は、以後二代にわたる弾圧によって完全に滅びたかに見えた。
  
 ところが、島原の乱から20年後の1657年、ふとしたことがきっかけで、領内の郡村に数百人のキリシタンが密かに信仰を守っていることが発覚し、驚愕した大村藩は608人を一斉に捕縛、他藩の協力も得て厳しく取り調べ、この間の病死者、棄教者、永牢(終身刑)者を除いた411人が翌年各地で処刑され、内131人が大村で斬罪となった。これが「郡崩れ」である。
 ※ここで言う“終身刑”とは大人に限った刑罰ではない。10歳ほどで入牢し、70代で亡くなるまで実に60年以上、つまりほぼ一生を牢内で過ごした人も何人もいたということだ。戦国時代の落武者の一族ではない。ただの農民の子供である。

 
 刑場へ引かれていく人々が、妻や子と永劫の別れを告げた場所である「妻子別れの石」Img_2122は墓地の一角にある。地にめりこむように立っている大石は、引き裂かれる家族の流す涙に洗われ、その後数百年来苔を生やすことがないという。
 
 そこから約1キロの道のりを百数十人の行列が辿った先に、当時罪人の斬首を行った「放虎原斬罪所」の跡はあった。今は周囲に民Img_2132家が立ち並ぶごく普通の住宅地である。大きく敷地を取って整地され、立派な殉教の石碑を立ててはいるが、何か取って付けたような違和感が漂う。しかし、思えばあれ以上何を造ればいいのだろう。処刑場という、あらゆる希望の絶たれた、先には死しかないこの絶望の場所に。地面を染めて流れる血と、むせかえるような血の臭い、そして動かなくなった死体の山。それらを作り出す作業が、延々淡々と繰り返されるだけのこの絶望の場所に。
  
 放虎原で処刑されたキリシタンの首をさらした「獄門所跡」は、一般道路沿いの公民館のImg_2145 敷地にあるマリア像が目印だ。見せしめのため塩漬けにした131の首がここに20日間並べられていたという。が、それを彷彿とさせるものはここにはない。ぽつんと立った像は、鎮魂というよりは何かの記念碑のようだ。もしも「郡崩れ」で処刑されたキリシタンの慰霊の意味を込めて設置したなら(そのはずだ、マリア像だもの)、ここには公民館ではなく教会を建てるべきだったのだろう。

  処刑後、大八車の乗せられた遺体の胴は、二つの穴を掘って埋められたそうだ。そこに「胴塚」が立っている。そして更に1キロ以上離れたImg_2155_2場所に「首塚」がある。甦りを恐れて首と胴をばらばらに埋めたものだ。「島原の乱」の原城でも同じようなことが目にされた。妖術を使って復活するという噂を嫌い、地中深く埋められたキリシタンの死体の中には、胴体や脚の骨が切断されたものが多かったという。利害や欲望だけでなく、あることないこと、事実も世迷言も総動員して、自らの残虐非道な行為を根拠づける。人はここまで人を憎むことができるのだ。Img_2164

 二つの塚に表現された農夫の姿は、実際はあんなに敬虔な美しいものではなかったかもしれない。しかし、捕縛から処刑までの数ヶ月の取調べの内実はともかく、その過程で99人が棄教し、赦免されていることを思えば、塚に埋葬されている人々は、棄教を拒み自ら死を受け入れた、やはり殉教者なのだ。
  

Img_3055  キリシタンが潜伏していたのは大村だけはない。外海の出津など山深く取締りの行き届きにくい地や離れ島である五島、或いはしっかりとした潜伏組織を作った浦上では、「郡崩れ」の後もキリシタンは200年にわたってひっそりと、そしてしたたかに生き続けた。中には地元の宗教と融合して土着化したままで続き、キリスト教解禁後も復帰せず独自の信仰を守り続けた集落も多かったという。
  
 そんな中で、一時は当代随一の華やかなキリシタン文化を謳歌した大Img_3065村の信徒が、この「郡崩れ」とその後総力を挙げて強化された取締りによって、事実上根絶やしにされてしまったのは哀しい。
  
 大村純忠らが4人の少年を「天正遣欧少年使節」としてローマに派遣したのは1582年、ローマ教皇に謁見し、希望と誇りに満ちて帰国した彼らを待ち受けたのは禁教と弾圧という残酷な未来だった。その4人の記念像が海沿いの公園に立っている。遠いまだ見ぬヨーロッパを見つめる少年たち。が、私は彼らが帰国後辿った道にこそ、彼らの生涯の本分はあると感じる。誉れも誇りも剥奪されて後、彼らは本当の意味でキリシタンとしての彼ら自身の生を生き始め、それぞれの形で全うしたのだろう。静かな公園のベンチでそんな彼らの運命に思いをはせながら、大村訪問の締めくくりとした。Img_3109

 


 
 

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原城 ~ 『天草・島原の乱』とキリシタン

『天草・島原の乱』終結の地、原城跡。舟越保武の彫刻『原の城』に触発されて、是非訪れてみたいと計画したその地へ、12月27日、ついにやって来た。

吹雪混じりだったそれまでの2日間とは打って変わり、この日は空は晴れ渡り気候も穏やかで、快適な散策日和となった。島鉄バスの浦田観音バス停で降り、国道を隔てた反対側の鬱蒼とした森一円に構えていたという幕府軍の陣営跡を背に、のどかな田畑風景の中を、三の丸、二の丸とゆっくり散策しながら本丸へ向う。

1992年から始まった発掘調査により、当時の石垣の姿が一部目の当たりにできるとはいえ、真っ青な海がパノラマ的に見渡せ、振り返れば雲仙の山々を遥かに望む小高い本丸跡は、城跡というよりは展望公園といった方がふさわしい。激戦によって血に染まり、おびただしい人骨が地中に眠る、キリシタン墓所とも呼べる場所に自分が立っているのだとは俄かに信じ難かった。Umi

島原は、当時の為政者の思惑も相まって、一時は日本最大のキリシタン地域であった。1563年、大村から島原半島南端の口之津に一人目のイエズス会修道士が派遣されて以後、領主自らが改宗し全領土のほとんどの領民が信徒となった。それが、掌を返したような秀吉の禁教令により、一転迫害の的となり、圧政と嫌がらせに耐えかねた領民が蜂起したのが『天草・島原の乱』だ。これにより、島原半島のキリシタンは一掃される。乱に関わった者は、遠くは熊本まで追跡され、処刑される。ほぼ全滅だ。この間80年にも満たない。この落差の物凄さに言葉を失う。

考えてみれば、一揆軍が原城に立て籠もったのは、1637年12月~1638年2月の3ヶ月、まさに今この時期だったのだ。あの穏やかで蒼すぎる海に囲まれて、彼等は自らの運命をどう描いていたのだろう。その時の彼等の思いを少しでも追体験したい、そんな一念で、彼等も見ていたに違いない同じ海原を目に焼き付け城跡を後にした。

田町門跡から天草丸跡付近の小道を抜けて国道を横切り、『原城文化センター~原城跡発掘出土品展示室』(現『南島原市有馬キリシタン遺産記念館』)を見学する。Hakkutsu1ここでは、原城発掘で石垣跡や人骨が出土した様子が当時のままにレプリカで復元され、ショーケース内の実物の出土品と共に公開されている。落城後、原城跡は間髪おかず破壊され完全に埋め尽され、土が新たに盛られ全くの新地となった。掘り返した粘土層の僅か2メートル下からは、石垣と瓦の残骸、その下は一面の人骨だったそうだ。Hakkutsu2他の戦争や一揆の後始末のように、遺物や石垣を再利用のため運び出す猶予も与えず、遺体を別の場所に運んで埋葬する手間もとらせず、残らずさっさと埋めてしまえという荒っぽいやり方、徹底した揉み消しぶりだ。とにかく一刻も早く視界からも記憶からも消し去りたいという、幕府側の憎しみの表れだという。奇しくもそのおかげで、当時の戦争の様子がありのままに残っている、考古学上極めて貴重な発見となったということなのだが。

そこに一枚の絵が掛けられていた。それは1997年作の、原城陥落の瞬間を描いた絵だった。火を放たれた本丸へ攻め上がる幕府軍、真っ赤な炎と黒い煙が空を赤黒く染め、そこでなお繰り広げられる兵士と農民の最後の攻防。手前では、すでに敗残を喫し焼け野原となった一揆軍の陣に、おびただしい死体の山が積み重なる。――

Rakujo_3ほんの14~5年前に描かれたこの絵を見た時、城跡を眺めただけではまだどこか漠然としていた原城戦のイメージが、一気に鮮明となった。

燃え上がる本丸天守閣、立ち昇る噴煙で、早朝の澄んだ空は夜のように暗くなる。それは遥か遠くからでも見とめられ、甲高い喚声と怒号と悲鳴は周囲の平野一帯に響いたことだろう。辺りには煙と血の臭いが立ち込め、踏み荒らす土埃と血のりで地面は泥土と化した。立ち込める煙の中を滑りながら、よろめきながら、手探りで進み、行き当る敵にただぶつかっていく。感情も思考も最早働くまい。幕府軍兵士は皆殺しの命のままに、一揆軍の農民兵はただ抵抗本能のままに、惰性で、倒す。やがて徐々に小さくなっていった声が遂に途絶えた本丸には、炎のくすぶる音が断続的に聞えるのみとなる。地面には、消耗しきって坐り込む勝者どもと、累々と連なる敗者どもの死体。まだ力の残っている兵が、生き残りに止めを刺す。老若男女、幼な子に至るまで。その死体はやがて、瓦礫もろとも穴に投げ込まれ、臭い物にふたをするようにゴミ同然に埋められた。生きていたことすら打ち消された、尊かったはずの命の最期。その無念を抑えきれず、血のぬめる黒焦げの地面の底から立ち上がった一農民兵の霊を、舟越保武は原城跡に見た、そして渾身の力で『原の城』を彫ったのだ。 Haranojo

立て籠もったキリシタン農民たちには生きるための切実な要望があり、倒す幕府にも邪魔者一掃という思惑があった。それは歴然たる現実の欲望に根ざした一揆だった。しかし、12万を越す兵に囲まれた3万7,000人の一揆側に勝ち目はない。そこからある“昇華”が始まった。圧倒的な敗色の中で、絶望の隙間を埋めて満ち満ちていく信仰の希望が生まれた。彼等は死を受け入れた。そしてその先を希望した。最早彼等は“現世”に生きてはいなかった。彼等の見つめていたものは、生死の一線を超えた先にある“パライソ”だった。3ヶ月に及ぶ籠城生活の結末が徐々にはっきり見えてくると、彼等の信仰共同体はこれまでになく結束していった。天草四郎という精神的支柱を中心に。Shiro

『四郎法度書』には、四郎の言葉として、籠城する仲間に対する思いが書き記されている。「城内の衆は後生までの友達たるべく候」たとえここで死のうとも、来世までも友達であると。

また、『日本二十六聖人記念館』の館長であるカトリック司祭の故結城了悟氏は語った。「農民一揆の歴史をみれば、指導者だけが斬首され、他は許され平穏になる。徳川時代にはこのような農民一揆が幾度もあった。しかし、彼等はキリシタンなので許しは望めない。助けを受ける希望がない時には、宗教が最後の希望と力になる。」

若き指導者に祭り上げられた四郎が、城の外に出てくることはめったになかったという。だが、城内に設けられた礼拝堂で、四郎が祈りを捧げている、それが彼等の力となった。武力でも指導力でもなく、“祈る、四郎”。これが彼等を最後の日に向けて固く結んでいったのだ。夜半、風に乗って聞えてくる信者たちの祈りの歌声が、幕府軍の陣にまで届くことがあったと伝えられている。突きつけられた剣を前に賛美の言葉を叫ぶ女、ひたすら死を乞い求める少女、それらは“現世”しか知らない幕府軍側にとっては、理解できるはずもない不可解な姿だったろう。絶望のあまりの発狂、あるいは集団ヒステリーのように映ったかもしれない。しかし死は、パライソを見つめる彼等にとっては、今はただ早く超えたくてやまない境界線でしかなかったのだ。

原城籠城で幕府軍は兵糧攻めに作戦を転じた。ひたすら攻撃を仕掛けるのではなく、長期戦に持ち込み武器と食料の尽きるのを待つ。戦闘もなく、ゆったりと平穏に過ぎる時間も多かったことだろう。思えば、この3ヶ月間は、彼等キリシタンにとっては奇跡のような時間だった。周囲はくまなく彼等の処刑人に取り囲まれてはいても、陣の中は誰一人咎め虐げる者のない、信者だけの世界だったのだから。大声で歌おうが賛美を唱えようがお構いなし。それまでの迫害の苦しみから解き放たれ、夢にまで見た普通の信徒の生活を、破局を前にしたこの原城での3ヶ月で、彼等は初めて、心おきなくおくることができたのだ。彼等は真の信仰の喜びを知り、この至福の中で召されようと心を決めた。取り換えようもないものを手に入れた者に、最早恐れはない。天を染め上げる本丸の炎は、最後の瞬間真っ赤に燃え上がって昇っていく、彼等自身の霊魂のようにも見える。Shiroie

『天草・島原の乱』はなるほどキリシタン農民による謀反に過ぎず、他の無抵抗な信徒たちから見れば、信者の風上にもおけぬ蛮行だったのかもしれない。彼等の行動が、「キリシタンは悪しきもの」と決めつけたい幕府にとって絶好の証左となり、その後の鎖国を容易にし日本のキリシタンの息の根を止めたと言ってもいいのだから。ある作家の言葉のように、あの乱がなければ、キリシタンは細々とでも各地で生き延びることができていたのかもしれない。しかし、少なくとも死の直前、彼等は殉教者となった。生への執着を棄て死を受け入れた、最後の瞬間の彼らの思いと覚悟、それは殉教者以外の何ものでもなかったと思う。

原城発掘は、世界遺産認定を目ざした取組みの一環ということだが、発掘された遺物を通じて、圧政にも屈することなく生き続けた当時の信徒たちの、素朴だがしっかりと根ざした信仰の姿を、現代に生きる信徒の心に刻みつけた。地中深くぎゅっと圧縮されて埋まっていた彼等の信仰、絶望的状況の中で昇華された彼等の祈りが、掘り返され日の目を見た途端地上に舞い上がり、この殉教地を覆ったかのようだ。そしてこの時、ここは信徒にとっては世界遺産よりも一層かけがえのない、尊い精神的遺産となったのだ。

参考文献:
「原城発掘~西海の王土から殉教の舞台へ」長崎県南有馬町監修(2000年 新人物往来社)
「原城と島原の乱~有馬の城・外交・祈り」長崎県南島原市監修(2008年 新人物往来社)
「歴史文化ライブラリー259 検証島原天草一揆」大橋幸泰著(2008年 吉川弘文堂)
「島原・天草の乱~信仰に生きたキリシタンの戦い」煎本増夫著(2010年 新人物往来社)
「週刊絵で知る日本史25 島原の乱図屏風 天草四郎」(2011年 集英社)

 

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田澤稲舟(たざわ いなぶね)

「若い女性に“自由”のなかった明治時代に、いさましくもこれに体当りしこれを突き破って自由奔放に生きようとし、ついに敗れた若く美しい小説家 —— これが田沢稲舟である。—— 」(大宝館 田澤稲舟紹介文より)

Ninabune田澤稲舟(本名 錦[きん] 1874-1896)は、1874(明治7)年、山形県鶴岡市の医師の家に、二人姉妹の長女として生まれました。家系をひも解けば、かの加賀藩前田一族まで辿ることのできる由緒ある家柄で、比較的自由な空気の中、伸び伸びとした少女期をおくりました。

時代は明治。『金色夜叉』で有名な作家尾崎紅葉率いる硯友社発行の文学誌『我楽多文庫』が人気を博し、国中の文学少年少女たちの胸をときめかせていました。錦もその熱狂的読者のひとりでした。特に彼女がのめり込んだのが青年作家山田美妙です。「です、ます調」「おじゃる言葉」など、まだ馴染みの薄かった文体で目を引き、小説『蝴蝶』の挿絵に日本文壇史上初の女性のヌードが描かれたことで一気に話題をさらうなど、当時最も旬な人気作家でした。

故郷鶴岡で何不自由ない生活を謳歌する錦でしたが、跡取りのため父が将来錦の婿にと選んだ青年が同居するようになると、強く反発します。「女は子を産み家庭を守るのが本分」当時の女性に求められていた役割を嫌い、家や男性に縛られず、作家として自らの足で立って生きたい。口実を設けて父を説き伏せた錦は、1891(明治24)年ついに上京し、敬愛する美妙の門を叩きます。そして美妙の指導と保護のもと、“稲舟”の号で作品を発表し始めます。

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そのひとつ、『文藝倶楽部』に掲載された小説『しろばら』は、文章こそ未熟でしたが、ストーリーのあまりに奇抜で悲惨な展開が文壇の物議をかもします。良家の令嬢が、親が決めた縁談に真っ向から反発し自立の道を探るが、許婚にクロロホルムで眠らされた上に暴行され入水自殺、その遺体をかもめがついばむ。—— 女性としての品位を欠くといった批判のほか、読者の意表を突くこのような手法が師匠美妙のおはこでもあったため、“女美妙”と揶揄され、“稲舟”錦はたちまち注目を浴びます。このような中、美妙との関係が恋愛に発展するのに時間はかかりませんでした。1895(明治28)年、二人は結婚します。

同時期に活躍した作家に、樋口一葉がいます。『しろばら』が掲載された同じ雑誌には、一葉の『十三夜』も掲載され、こちらは文壇から絶賛されました。夫から手ひどい仕打ちを受けたお関が、二度と戻らないと決意して実家を訪れる。しかし、心を鬼にした父親に諭され、子どものため泣く泣く婚家に帰って行く。—— 『しろばら』と違い、こちらの主人公は世の風潮に従って生きる道を選ぶのですが、一葉は我が身を犠牲にするお関の姿を描き切ることで、時代に強く抗議したのだといわれています。一葉自身、小説の師匠である半井桃水との恋愛を、桃水の将来を憂慮する人々によって引き裂かれたのでした。そのことがあってなのかどうか、当時の一葉の歌稿の余白には「いな舟、稲舟、かの女、羨まれ候」との走り書きが見られます。母や妹を支える自分には叶わぬ、独自の道を迷わずまっすぐに進んでいる女性。一葉の目に田澤稲舟は眩しく映っていたのかもしれません。

あこがれの美妙との恋愛を実らせた稲舟には、すぐに辛い現実が待っていました。スキャンダラスな結婚に対する容赦ないバッシング、夫の恋人の存在、厳格な姑と大姑、お嬢様育ちの稲舟に耐えられる生活ではありませんでした。もともとが虚弱体質だった彼女はたちまち体調を崩し、迎えに来た母と共に鶴岡へ帰ったのは、結婚わずか3ヶ月目のことでした。その後実家で執筆を続けるも、体調は悪化の一途をたどり、1896(明治29)年、稲舟は急性肺炎のため21才9ヶ月の短い生涯を閉じます。

ある年の春、稲舟の故郷鶴岡を訪ねました。当時、近代日本女性史に登場する女性たちの生涯を追っていた私は、長谷川時雨の『近代美人伝』で初めて田澤稲舟の名を知りました。そして文学博士塩田良平の『明治女流作家論』等を読み進めるうち、稲舟の生涯と作品の異色ぶりに強く魅かれるようになりました。マッチョで堅苦しいイメージしかない明治の時代に、叩かれてもあざ笑われても自分の道を貫こうとしたこんな女性がいた。山形県はもちろん、東北という地域にも足を運んだことのない私でしたが、大阪から寝台特急「日本海」を利用すれば乗換えなしで鶴岡まで行けることを知り、いつも通り半衝動的に「とにかく行ってみよう」と決めたのでした。

ただ、不安もありました。田澤稲舟はどちらかといえば山田美妙との関係で取り沙汰されることが多い人で、生前はスキャンダラスな恋愛騒動の当事者、死後は一転して身持ちの悪い美妙に捨てられた悲劇の人扱い。“文学者”稲舟を、批判も含め正当に論じたものは、今日に至るまで少ないのが現状です。故郷鶴岡といえども、どこまでその足跡を辿ることができるものなのか。しかも、鶴岡出身者には高山樗牛もいれば藤沢周平もいます。稲舟に果たしてどれほどの“取り分”が与えられているのか。ずっと以前、大正の詩人生田春月を求めて鳥取県米子市を訪ねた時は、古書店頼みでまわったため、そこで収穫が得られないと途端に旅は意味を失ってしまいました。同じ轍は踏むまいと、今回は古書店だけでなく、市立図書館や郷土資料館へも行く準備を整えて向かいました。これが結果的に役に立ったのでした。

初日は断続的な吹雪で、30分も外を歩いていると凍えてしまいそうでしたが、2日目は晴れて気温も上がり、散策日和となりました。両日とも、稲舟の文学碑と胸像を訪ねることから始めました。内川沿いにある文学碑から道路を一本隔てた向かいは稲舟の生家です。田澤家は既にそこにはありませんが、別の人が引き継いだ医院は今もその場所で開業しており、稲舟の部屋も当時のまま残されているそうです。病を得て帰郷した後、世間の目を避けほとんど外出することのなかった稲舟が、家の前の土手で水を汲む姿が時折見られたといいます。ちょうどその辺りだったのでしょうか、1971(昭和46)年にできた稲舟の胸像は、川を背に生家を正面から見守るように立っています。しかし、この像は厳密には稲舟のものとはいえないのです。

Tomi_3稲舟の死を報じるため、生前の写真を求めて田澤家を訪れた関係者に、父は薄幸の娘がこれ以上さらしものにされるのはあまりに不憫と、二女富(とみ)の盛装した写真を託したのでした。したがって、その後長年にわたって伝えられた稲舟の姿の多くは実は富で、胸像も富の顔を模して造られたものだったのです。般若寺にある稲舟の墓には、くっきりと大きな字で“田澤錦子墓”とだけ刻まれていました。娘の短すぎる生涯の刻印を永遠に留めおこうという父の深い想いを前に、しばらくその場を離れることができませんでした。

インターネットで探し当てた「阿部久書店」は鶴岡随一の古い書店で、郷土関係の古書を多く取り扱っているとのことでした。店主さんに尋ねてみると、「ああ、それならこれがいいですよ」とすぐに1冊の本を棚から取り出してくれました。笹原儀三郎作品集『ふるさとへ』(1979年刊)。鶴岡に生まれ、教員生活を続けながら、歴史に埋もれていた高山樗牛や田澤稲舟を掘り起こし紹介し続けた方だそうです。本書でも半分はこの二人について書かれています。中でも『青春哀詞 田沢稲舟』(1969)は、中学・高校の教師として多くの若者たちを育ててこられた笹原さんが、短い青春を駆け抜けた稲舟に注ぐまなざしの温かい、感動的な評伝でした。

鶴岡市指定有形文化財の大宝館(郷土人物資料館)では、鶴岡ゆかりの人々が写真と遺品を中心に展示されていました。稲舟のコーナーはショーケース1枚分にも満たないほどのスペースでしたが、ロビーでは稲舟と樗牛それぞれの生涯がビデオ上映されていました。生前の稲舟を巻き込んだスキャンダルへの言及は抑えられ、女性の自立が困難な時代に、自分らしさを追求して懸命に生きたひとりの若い女性として描かれていて好感が持てました。その視点がなければ、稲舟の存在など、ただ愚かで向こう見ずな不良少女のひと言で片付けられてしまったでしょう。そして実際郷里鶴岡では、数十年にもわたって“田澤稲舟”はタブーだったのです。目立つことを嫌う保守的な風土で“あんな騒動”を起こした娘。人々の沈黙と共に、稲舟の存在自体も長らく封印されていました。それを解き放ち、庄内の文学者として正当な位置づけを与えるべく尽力されたのが、先の笹原さんであり、数々の郷土史研究家だったのです。

その努力が実を結び、1996(平成8)年には稲舟没後100年記念事業として、講演と朗読のイベント、展示会などが町をあげて開催されました。その記録冊子『田澤稲舟 かくも激しく、短き命の輝き』と展示会の目録を、市立図書館で閲覧することができました。企画の中心になったのは、地元鶴岡在住の女性たちだったそうです。“不良少女”から“時代の先駆者”へ。この意識変革は、没後100年という節目がもたらしたものではなく、鶴岡の女性たちの心に稲舟の志がひっそりと、しかし確実に受け継がれてきた結果と捉えるべきなのでしょう。 

常に“従属の性”として歴史に埋没し、教科書を開いてもほとんど姿が見えない女性たち。けれどこうして一人の人物を追っていると、その生涯の周囲に同時代を生きた女性たちの息遣いを感じることができます。社会の制約の中で、自らの人生を自らの手でつかもうと、主張し試行錯誤を繰り返している姿が活き活きと迫ってきます。時には私自身がその時代に降り立ち、彼女らと同化していくような感覚を持つことすらあります。過去の一時代を生きた彼女らと現在を生きる自分が、1本の線上でつながっていることを実感する体験。田澤稲舟の旅は、歴史上の人物を辿ることの意味をまた少し教えてくれたのでした。

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ハリー・ラングドン

白塗りの下ぶくれ顔に、いつも驚いているようなつぶらな瞳と愛らしい口元。Hl1 ‘ベビーフェイス’ハリー・ラングドン(1884-1944)。サイレント後期に特異なキャラクターでコメディアンとして頂点を極めたにもかかわらず、ほんの数年でその絶頂から一気に転落。努力を重ねるも遂に人気は回復することなく、今では三大喜劇王(チャップリン、ロイド、キートン)の陰でほとんど顧みられることもありません。本来なら大喜劇王の一人と呼ばれてしかるべき逸材だったはずなのに。

トップ・ヴォードビリアンとして20年のキャリアを誇った後、映画に進出した時は40才を越えていました。キーストン・スタジオ創立者のマック・セネットに見出されてから徐々に名を上げ、フランク・キャプラ、ハリー・エドワーズと組んで送り出したのが『初陣ハリー』(26)『当りっ子ハリー』(26)『初恋ハリー』(27)の3本。その人気はすさまじく、チャップリンを上回るほどだったといいます。  

上記3本の代表作は、どれもよくできた作品ですが、特にキャプラの監督デビュー作となった『当りっ子ハリー』は、何度見てもちっとも飽きないほど、ラングドンの完璧な演技が冴えわたった傑作だと思います。第一次大戦に従軍していたベルギー人兵士が、戦後興行師‘史上最強の男’の助手として移り住んだアメリカで、写真だけを頼りに文通相手のアメリカ娘を探す。興行先の田舎町でようやく娘に巡り会えたのも束の間、酔いつぶれて役に立たないボスの代わりに、彼が観客の前で怪力ショーを披露するハメになる。最初の登場場面は、戦闘の合間にハリーがひとり機銃掃射の練習をしているシーン。岩に腰掛け、空き缶の的めがけて機関銃を浴びせ続けるんだけれど一向に当たらない。と、懐から取り出したのはお馴染みのパチンコ。小石を弾に狙いを定めて発射、みごと一発で命中。ハリーは口をVの字にキュッと曲げて満足気。行動がいちいち不器用で周囲の動きよりもワンテンポもツーテンポも遅く、ひいては周りで起こっている騒動に気付かないできょとんとしているうちに事態は一件落着していたりする。子供じみたというより、子供を通り越した赤ん坊のようなイノセンス。 どこにもいないキャラクターです。

『当りっ子ハリー』の圧巻のひとつは、ハリーがボスと興行先の町に向かう乗合馬車のシーンです。ハリーは大風邪を引いていて、騒々しいセキやクシャミで他の乗客に菌をばらまく迷惑千万ぶり。顔のアップをとらえて動かないカメラの前で、ハリーは丹念にリアルに風邪のもたらす諸症状をひとつひとつ表現してみせます。セキ、クシャミ、鼻詰まり、喉の痛み、耳鳴り・・・。決しておおげさに誇張しているわけではなく、とても自然。ただそれを赤ちゃん顔の彼がイノセントな目をパチパチさせながらやってみせるものだから、見ている方は爆笑なのです。やがてお薬の時間になって、風呂敷包から出した苦い苦い水薬をスプーンに1回分注いで口元まで持っていくのだけれど、どうしても口に含む勇気が出ない。「飲まなきゃなあ。でも苦いしイヤだなあ」大嫌いなピーマンやニンジンを前にした幼児の顔。90年代にイギリスのコメディアン、ローワン・アトキンソンが大ヒットさせた‘9才のおとな’ミスター・ビーンの布石は、60年以上も前にラングドンが敷いていたのでした。もっともラングドンの方がずっと幼いのだけれど。

Hl2 同じようなハリーのアップの名演は『初陣ハリー』(ハリー・エドワーズ監督)にもあります。翌日出場するレースに備えてぐっすり眠ろうと睡眠薬を飲んだハリー。最初はぱっちりあいていた目が少しずつトロンとしてきて、やがて丸まって寝てしまうまでの数分間は、うまい!の一言。チャップリンもキートンもロイドも、表情というよりは全身を使って演じる人ですが、顔だけでこんなに長いカットを見せられる喜劇役者はあまり記憶にありません。ラングドンがヴォードビル出身だということを考え合わせると、なんという芸達者な人だろうと改めて驚かされます。

転落の要因はラングドン自身にありました。折しもチャップリンが『サーカスや『黄金狂時代で喜劇の新境地を開いた20年代半ば、ラングドンはフランク・キャプラに迫ったといいます、「ペーソスだ。もっとペーソスを入れたいんだ」と。「ハリー、ペーソスは君の映画の中にちゃんとあるよ」キャプラは必死に説得を試みますがラングドンは聞き入れず、2人は決別します。キャプラの言い分は正しかったのです。『当りっ子ハリーでハリーと盲目の娘メアリーが初めて出会うシーンにはしっとりとした牧歌的な情感が漂い、アップテンポのギャグシーンの中でも一つのアクセントになっています。ただそれは、ハリー自身がかもし出すものではなく、キャプラとハリー・エドワーズの巧妙な計算のもとに創り上げられたものでした。そもそもペーソスはハリーのキャラクターとは無縁だったのです。

チャップリンの浮浪者は、行動や仕草はちょっと意地悪く子供じみてはいますが、人生の悲哀をかみしめながら生きてきた大人のキャラクターです。人生は苦い。一生懸命体を張ってがんばってもうまくいかない。どんなに心をこめて相手を愛しても報われない。そして最後にはいつもひとり。「ああ、またか・・」そんな諦めにも似た気持ちの中から「でもやっぱり生きるっていいよね」とため息混じりに笑ってみせる。これがペーソス。深い思索の賜物、大人の情感です。チャップリンは最後にはいつもここに戻ってくる。だからこそ観客とチャーリーは心を通わせ合うことができ大きな感動を呼んだのでした。

しかしラングドンは大人ではない。子供でもない。見かけは一応大人、精神レベルは完全に子供。でも行動の目標はデートだったり結婚だったり、パートナーを求めている点ではやっぱり大人。つまり何なのかよく分からない。その微妙なバランスこそがラングドンのおかし味だったのです。キャプラとエドワーズはそれをよくわかっていました。しかしラングドンにはわからなかった。「チャップリンにできて自分にできないはずはない」その思いだけで自らのプロダクションを立ち上げ、自身の監督で撮った『岡惚れハリーは大失敗に終わります。家庭をもつこともできない自分の無能さを嘆きながら生きているハリーが、身重の女性を助け結婚を夢見て懸命に世話をするが、やがて女性の夫が迎えに来てハリーはまたひとりぼっちに戻るというストーリー。ハリーのキャラクターは大人の男に限定されているため、‘あいまいさ’からくる笑いはいやが応でも半減します。さらにラングドンには監督の才能はなかったし、カメラの使い方も知らなかった。『岡惚れハリーは酷評され(誰も大人のハリーなんか見たくなかったのです)焦ったラングドンは次々と作品を送り出しますが、一作ごとに評価は落ちるばかり。ようやく本人も自分の間違いに気付き、元のキャラクターに戻って再出発を計りますが、トーキーを迎えた今、アクションだけで見せるドタバタ喜劇はもはや時代遅れ。彼は完全に過去の人となり果てていました。そして、何とか第一線に返り咲こうと精力的に働き続ける中、1944年に60才で奮死します。(参考文献:“The Silent Clowns”Walter Kerr著)

バスター・キートンもラングドン同様、自身の笑いをトーキーに転換することができず失墜します。しかし長いブランクの後、新しい世代のファンに再発見され、現在では大コメディアンとして確固たる地位を与えられています。ラングドンは未だ埋もれたままですが、リマスターされたビデオやDVDがここ数年次々と発売されていますので、新たな脚光を浴びる日も近いかもしれません。

ハリー・ラングドンの映画は、上にあげた3作が1本に入ったDVD“Harry Langdon...The Forgotten Clown”Kino International から発売されています。アマゾンでも手に入ります。

 

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フローレンス・ローレンス

Nflo『映画スター第一号』フローレンス・ローレンス(1886−1938)は、アメリカ映画が大衆に浸透する1900年代後半から1910年代にかけて大活躍した俳優です。本名フローレンス・アニー・ブリッジウッド。1886年1月2日、カナダ・オンタリオ州ハミルトン生まれ。旅回りの俳優だった母の劇団で幼い頃から舞台に立ち、“神童”“可愛い口笛吹き”と絶賛されました。その後学業を兼ねて家族でアメリカに渡り、ヴァイタグラフ社から移ったアメリカン・バイオグラフ社で、初期のD・W・グリフィス監督のもと100本近い作品に出演し、“バイオグラフ・ガール”として一世を風靡しました。
   
当時の映画は1本10~15分の短編、毎週のように新たな作品がおくり出されていました。当然のことながら、ひとつの役柄を煮詰める時間もないままに撮影にかかることになり、舞台出身の職業俳優たちにとって、それは肉体的にも精神的にも過酷な労働条件でした。しかも、俳優への敬意を怠らない舞台演劇と違い、初期のアメリカ映画界では「名前が売れると高条件を要求するようになる」との理由で、俳優はその名前すら公表されず、ただの社員扱いだったのです。
 
人気者になったフローレンスは、もっとゆとりをもって働ける場を探しますが、大手数社が生まれたばかりの映画界を独占していた当時、それは許される行為ではありませんでした。彼女は夫と共に解雇され、ブラックリストに載せられてしまいます。そんな彼女に目をつけたのが、後のユニバーサル社の創立者カール・レムリです。レムリはドイツ移民で、もとは仕立屋でしたが、新興映画産業に参入し、IMP社を立ち上げます。そして、大手会社の縛りが厳しく身動きがとれない中、飛躍のチャンスをうかがっていました。
 
フローレンスと契約したレムリは、彼女の人気を逆手に取り、派手な作戦に打って出ます。彼はまず、フローレンスが事故死したという“怪情報”をマスコミに流し、騒然とするファンに対して、彼女の写真入りの広告を出します。「我々はウソを暴きました。かつてのFlo3_2“バイオグラフ・ガール”、今や“IMPガール”となったミス・ローレンスが交通事故で死亡したという先週の記事は悪意に満ちたデマに過ぎません。彼女はこれからも、IMPの映画で元気な姿を披露します。…」同時に、彼女はこの記事が流布されたセントルイスの駅に鳴物入りで姿を見せます。駅に集まった群集は、ちょうどその前の週に訪れた大統領を出迎えた人よりも多かったといいます。これがスター・システムの始まり。彼女が『映画スター第一号』と呼ばれる所以もここにあります。
 
しかし、それは転落への第一歩でもありました。IMP社で彼女のメガホンを取った夫は、グリフィスのような天才ではありませんでした。人気は相変わらずですが作品は質を落とし、レムリとの確執もあって再び退社。その後再就職、独立と変転を繰り返す中、ある作品の撮影中に負ったケガがもとで休養を余儀無くされてしまいます。その間、映画産業自体も進化を遂げます。それまでの1巻ものから主流は長編映画へとシフトし、映画史に残るグリフィスの『国民の創生』や『イントレランス』が作られるのもこの頃です。人気の面では、自己管理術を天才的に把握したかつての後輩メアリー・ピックフォードがスターとしての地位を確立し、傷が癒え復帰を果たしたフローレンスには、もはや居場所はありませんでした。
 
新興産業にむらがる野心家たちの駆引き渦巻く中を、演じることへの情熱だけで乗り切ろうとして堕ちてしまった人でした。映画産業からもファンからも忘れられたフローレンスは、同様の運命を辿った多くのパイオニア俳優たちと共に、その後もエキストラとして20年近く働き、1938年力尽きるように殺虫剤を飲んで自ら命を断ちます。52才でした。
 
彼女のことは、日本ではほとんど話題にもなりません。グリフィスに関する本をめくっても、彼がバイオグラフ社で監督として出発したことは出ていても、デビュー当時の作品、ましてや出演俳優について書いたものなどまず見つかりません。映画史の本には、スター・システム誕生のいきさつがらみで触れていることもありますが、よくて数行。ひどい評論家は、フローレンスの作品を見たことがないことを告白した上で、彼女の写真だけを見て「一向に詰らない単なる十人並みの女」と切り捨てる有り様です。そんな『十人並み』の俳優が映画界に旋風を巻き起こしたとするなら、当時のアメリカの大衆は全く見る目がなかったとコケにされているも同然でしょう。大層なめられたものです。

Nflo_picたしかに、目は小ぶりで鼻は大きすぎ、美女の水準には達していないかもしれません。しかし、俳優の魅力は演じてこそのもの、ぜひ動いている彼女を見てほしいものです。豊かな感情表現に合わせてくるくると変わる表情、舞台の名残りのやや大仰な仕種、しかしどんな役柄でも巧みにこなす器用さ。そこには、演じることが好きでたまらない一人の俳優の姿が画面いっぱいに輝いています。庶民が楽しめる娯楽として定着したばかりだった映画。人々はスクリーンの中のフローレンスと共に喜び、悲しみ、一日の労働の疲れを癒して家路に着きました。大衆にとって彼女はまさに最初のアイドルだったのです。

フローレンスがバイオグラフ社を去った後、メアリー・ピックフォードが二代目“バイオグラフ・ガール”として売り出されます。その頃のある映画雑誌への投書が残っています。「“バイオグラフ・ガール(注・ピックフォード)”の出演映画に関する貴誌の記事を読みました。その映画なら先週見ましたが、バイオグラフ・ガールは出ていませんでした。主役の女性はとても可愛く、毎回彼女を見られるのは嬉しいことですが、彼女はバイオグラフ・ガールではない。僕たちの心を捉えて離さなかったあのバイオグラフ・ガールではありませんでした。…」(出典:"Florence Lawrencce, The Biograph Girl America's First Movie Star" Kelly R. Brown著)

以前ハリウッドにあるフローレンスゆかりの場所を2ヶ所訪れました。1920年代、ハリウッドの街全体がまだ華やいでいた頃、フローレンスはその一角に化粧品店“Hollywood Cosmetics”を開店します。時代に取り残されていく焦りとあきらめ。それでも夢を捨てきれず、メイクアップ・アドバイザーに転身してでも映画の空気の中に留まりたかったのでしょう。その場所、フェアファックス通り821番地には2戸の店舗が入ったこじんまりした建物が残っていました。周囲は閑散としています。建物が当時のものかどうかはわかりませんが、店構えは写真で見たものと似ていました。フローレンスの時代はこの界隈もきっと賑わっていたに違いありません。ハリウッド衰退後荒れるがまま放置され、今に至っているのでしょう。現在街の中心部は急激な勢いで再開発が進み、かつての栄光を取り戻そうとする動きが活発化していますが、それもここまではまだ届いていないようです。商才のないフローレンスが、当時ハリウッドに進出してきたマックス・ファクターなどの大物に太刀打ちできるはずもなく、数年後“Hollywood Cosmetics”は閉店します。ひっそりと佇む店先からは、当時のフローレンスのため息が聞こえてくるような気がしました。

翌日は、バスを乗り継いで“Hollywood Forever Cemetery”へ行きました。ここにフローレンスは眠っているのです。墓地というよりは、芝を敷き詰めた巨大な公園。中央には大きな噴水があり、水鳥が悠然と泳いでいます。その周りにはあちこちにクジャクまでいて、時々頭上を滑空していくのには仰天しました。十字架や墓碑がなければ、ベンチで昼寝でもしたくなる清々しさでした。その広大な敷地に、遺族の想いがこもった大小様々な墓碑が立っています。ハリウッドのタイクーン、セシル・B・デミル監督の墓などは、廟とでも形容したくなる壮麗なものでした。そんな中、入口でもらった見取り図を頼りにフローレンスの墓を探しました。ところが、墓の番号と区画はわかっていても、広すぎてその場所が見つからない。うろうろとさまよっているうち、途中2人の別のフローレンスさんの墓に行き着いたりしました。私があまりに「フローレンス、フローレンス」と心で呼ぶものだから、眠りからさめて「何ごと?」と合図を送ってくれたのかもしれません。(こういうことは、いともあっさり信じてしまえる私です。)

小動物に励まされ、歩き回ること数十分、やっとたどり着くことができました。無縁仏に近い有様で放置されていた墓を、その生涯を知った俳優のロディ・マクドウォールが善意で資金を出し、再建されたものです。地面に埋められた長方形のレリーフ、名前の下には“The Biograph Girl”“The First Movie Star”と刻まれていました。そうか、彼女はAmerica’s First Movie Starではなくて、世界の映画の歴史においてThe First なんだと改めて思い至りました。背後には大きな鉢植えの観葉植物が飾られ、芝だけでなく自然の木々の木陰にやさしく抱かれて、フローレンスも喜んでいるでしょう。私らしくもなく、墓碑のお掃除などして(ティッシュでですが)、小さな赤い花の鉢まで供えてきました。遠くからもそこだけポッと赤く可愛らしく見えて、フローレンスの好きなバラではなかったけれどよかったかなと心が和みました。遠い国から突然やって来た、何十年もあとの時代を生きている見知らぬ私を、フローレンスは多少いぶかしがりながらも迎えてくれた、そんな気がして、もうこれでこの旅行は完結!と思うまでに嬉しかったのを覚えています。

フローレンスの映画は、アメリカのGrapevine Videoが出しているDVDで見ることができます。“D.W.Griffith Director” シリーズの#1,#2,#3 の諸作品に彼女は出演しています。また、Kino InternationalのDVD 『オセロ』(“Othello”・1921独)にも、シェークスピア作品として『じゃじゃ馬ならし』(“The Taming of the Shrew”・1908米)が同時収録されています。主演はフローレンスと、やはり当時の人気俳優アーサー・ジョンスンです。評伝では、上にあげたケリー・ブラウンの著作が唯一無二、写真も資料も充実しており必読です。アマゾンで手に入ります。

 

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