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“ひとびと”と私

田澤稲舟、景山(福田)英子、管野すが、伊藤野枝、金子文子、江口きち、越後瞽女たち(杉本キクイ、小林ハル)、エミリー・ディキンスン、ケーテ・コルヴィッツ、フローレンス・ローレンス、…これまで様々な女性の生涯を追ってきました。

きっかけは、短大時代の授業で取り組んだ「近代日本女性史」という課題でした。課題自体は、単純に「明治期以降の女性史を扱った書物を参考に、近代における女性の歩みをまとめる」というようなものだったと思います。しかし、それは女性と社会、ひいては、近代という今に近い時代を生きた女性たちを通して、自分自身とこの国の歴史との関わりを考える初めての体験となったのでした。もちろん当時はそこまで深く考えたわけではありませんが、それまで私が知っていた少女らしい楽しみとは異質の、未知の世界を開いていくような興奮を覚えて熱心にまとめたことを思い出します。

「歴史」とは「男性史」です(ある知人に言わせれば、「成功した男性史」で、その範疇からこぼれた彼などは含まれないのだそうですが)。遠い昔に腕力と知力とで勝ち取って以来、彼らの好む考え方、彼らの好むやり方で築かれ運営されてきたのが今に至る社会です。そしてその途上で、彼らに馴染みのない考え方ややり方を好む「女性というもの」は「理解できないもの」として、社会の隅に押しやられてきました(“理解できないもの”を恐れ、それが憎しみに変わって相手を迫害したり排除したりする狭量は、歴史の常です)。

Kageyama_hideko_3 明治維新以降、自由民権運動の気運に乗って、女性の権利を主張する女性たちが声をあげ、文芸界でもいわゆる「閨秀」の台頭が目立つようになります。しかしその実態はといえば、女性解放運動の先駆岸田俊子は「女丈夫」と騒がれ、女権活動家景山英子は「東洋のジャンヌ・ダルク」と揶揄され、作家田澤稲舟は「女(山田)美妙」とあだ名され、大逆事件に絡んだ管野すがは「毒婦」と憎悪されと、大衆の受けとめはとても一人前の人間に対するものとは思えないものでした。後の『青鞜』の一部メンバーたちに至っては、「新らしい女」を謳い文句に、飲酒や夜遊びなど男性の“悪弊”をまねて粋がってみせるという蛮行の果て、世間からはゲテもの扱い。半世紀以上にわたる産みの苦しみと試行錯誤には痛々しいものがありました。

また彼女らの多くは、精神的に未成熟なまま男性に翻弄されます。景山英子は同志と信じた民権家に二股をかけられてシングルマザーとなり、二股のもう一方、作家で女権家の清水紫琴も子を産み沈黙します。田澤稲舟は師山田美妙とのスキャンダラスな結婚に破れて笑いものになりました。その報道の顛末は、さながら現代のゴシップ記事。男性のみによって成り立っていた世界に「異質なもの」女性が参入することで、逆にその世界の権威の怪しさ、中身の薄さが露呈してくるのは興味深いことです(しょせんは人間の作る組織など、一皮むけばガキ大将の陣取りの延長。その“戦利品”に過ぎなかった女を、同志として真っ当に扱う気などないわけです)。

さて、私の中に蒔かれた「近代日本女性史」の種は、その後しばらく芽を出すことはありませんでした。私は普通のOLとして就職し社会に出ます。そして卒業から約10年、転職した二つめの職場は、社会運動に永年携わってきた世界規模の女性会員運動体でした。そこで、この平和ボケした国に、歴史的・社会的に底辺に追いやられた多くの人々がいることを(全く恥ずかしいことながら)初めて知ったのでした。何も知らなかった(知ろうとしてこなかった)自分に焦り、活動にのめり込み、社会の裏の実体を知るうち、この国に「騙されていた」「目をくらまされていた」ことへの動揺と憤りで、私は“愛国心”を失いました。以来、あらゆる権威や組織に対して懐疑的となり、疑問を感じれば留保し、盲従することも、たやすく迎合することもなくなりました。拠り所としての国家や社会を放棄したことで、“個”としての自分のこれからを真剣に考えるようになったのもこの頃です。

Emily_dickinson_2そんな時、たまたま手にしたのが、19世紀アメリカの詩人エミリー・ディキンスンの伝記でし た。マサチューセッツ州アマーストの名士の長女として生まれ、生涯の大半を故郷から出ることなく、実家で一家政人として過ごした人です。しかし、父の客たちの相手に疲れた時、ただ2階の自室にこもって詩のノートを開くだけで、彼女は自分自身の世界に戻ることができました。自己実現とは、何か大袈裟に“事を成す”ことではない。自分の原点を知り、常にそれに忠実であること。そして、その原点にいつでも戻れる術を身につけていること。この二つがあれば、どこに身を置こうが、どんな生活を営もうが、その人は自由人なのです。自己の本源を生きられること、人生においてこれほどの宝はありません。それができた彼女は凄いと思いました。

「男性史」に無視され続けた女性。社会や組織の後ろ盾もなく、自立したところで、はみ出し者として茨の人生が待つだけでした。しかし、社会通念や世論の束縛に押し込められず、自分の頭で判断し、出した結論に信頼して生きようとした何人もの女性が、どの時代にもいた。その一人ひとりに、唯一無二の生命が息づいていたのです。そんな彼女たちをもっと知りたい。歴史に埋もれてしまった彼女らの、等身大の思いを感じたい。エミリーを通じて、私の心にそんな気持ちが湧き起こってきたのでした。

以来、私は心に触れる過去の女性に出会うと、しばしの間その人を友達のように追ってみるようになりました。それは、時には文献をひも解くだけで満足することもあれば、縁の地を訪ねてみたくなるまで駆り立てられることもあります。ただ、いつの場合も行き着く先にあるのは、彼女たちと自分とがつながっているという実感です。初めて女性史を勉強したときに感じた興奮は、その予感だったのでしょうか。彼女たちの人生は、私の人生と決して無縁ではない。それどころか、私自身が、彼女らの歩んだ同じ線の上を今歩いている。それを毎回感じられるのが嬉しくて、この“旅”を続けているのかも知れません。

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私とバルラッハ

 
 私とエルンスト・バルラッハの出会いは2006年初頭、電車の中に掲示されていたポスターの『歌う男』でした。それは日本初となる、本格的なバルラッハ回顧展の予告ポスターでした。
 
 その頃、ワイマール時代のサイレント映画を通して“ドイツ的なるもの”にぐいぐい引き寄せられつつあった私は、『歌う男』を見た時、なぜか瞬時に「絶対に行く」と決めていました。何かが響いたのです。そして翌日、同じ回顧展の別のポスター『苦行者』を見て、今度ははっきりと感じました、「これだ」と。
 
 回顧展の会場に入って数分もたたないうちに、予想は確信となりました。これこそ自分の求めていたもの、ずっと探してきた“本物”にやっと出会えたのだと。ただ向かい合うだけで、私にあふれんばかりのメッセージを繰り出してくるこの彫刻たちを、そしてこれを造ったバルラッハという芸術家をもっと知りたい。私のバルラッハ探訪の始まりでした。
 
 回顧展が開かれれば、どんなに日本で無名な芸術家でも、評伝本の一冊くらい出るものです。なのにバルラッハに関しては皆無でした。仕方なくインターネットを頼りに情報を集める中で、幸いにも長年バルラッハを追い続けて来られた上野弘道さんの著作(『木彫りの詩人エルンスト・バルラッハ』『エルンスト・バルラッハ 忘れられた表現主義の彫刻家』後に『バルラッハの旅』)と出会い、美術系の古書店で買い占めてむさぼり読みました。そして、上野さんの情熱に後押しされるように、ギュストロウを訪れ、ドイツ語を学習し、辞書を片手に本と格闘する、そんな10年がたちました。
 
 バルラッハの彫刻と向き合う時、芸術を解する目などない素人の私にできるのは、ただ二つだけです。頭と心を空っぽにして前に佇むこと、そして聴くこと。それでよいと思わせてくれる、バルラッハの言葉があります。
「存在の本質は暗い(見分けられない)。それは、本質を認識しようとする私たちが、なまじ目をもっていて、それを使うからなのです。いっさいの認識を無用なものとする<観ること>があってくれさえすればよいのです。」(『人間を彫る人生(宮下啓三著)』より、バルラッハの手紙から)
 
 
 
 

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エルンスト・バルラッハ

 

 エルンスト・バルラッハ(1870~1938)は、北ドイツで活躍した芸術家です。彫刻、版画、戯曲と、幅広い分野で豊かな才能を発揮しました。

 彼は1870年、ハンブルク郊外のヴェーデルで、医師の長男として生まれました。若き日は、ユーゲント・シュティールの影響を受けた作風でビルの装飾や工芸品などを手がけますが、内から突き上げてくる希求を体現する独自の芸術を探しあぐねて行き詰まり、一時は自殺すら考えます。

 36才の時、たまたま訪れたロシアで、広大な大地と自然に翻弄されながら生きる素朴な現地の人々の姿に、求め続けていたモチーフを遂に発見します。その後は北ドイツの小都市ギュストロウで暮らしながら、作品を送り続けます。

 彼は、ブロンズ彫刻主流のヨーロッパではあまり用いられない木彫を好み、他に類を見ない独特な作風は高い評価を受けました。また、第一次世界大戦戦没者の慰霊碑など、大規模なプロジェクトも数多く手がけます。劇作家としてもトーマス・マンらの賞賛を浴び、作品はハンブルクやライプツィヒ、ベルリンなどで上演されました。しかしナチスが台頭すると、一転その非英雄的な作風が嫌われて激しい攻撃にさらされ、活動の場を奪われます。1938年10月、不遇のうちにかねてからの心臓病を悪化させたバルラッハは、68才の波乱の生涯をロストックの病院で閉じました。

 

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