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“ひとびと”と私

田澤稲舟、景山(福田)英子、管野すが、伊藤野枝、金子文子、江口きち、越後瞽女たち(杉本キクイ、小林ハル)、エミリー・ディキンスン、ケーテ・コルヴィッツ、フローレンス・ローレンス、…これまで様々な女性の生涯を追ってきました。

きっかけは、短大時代の授業で取り組んだ「近代日本女性史」という課題でした。課題自体は、単純に「明治期以降の女性史を扱った書物を参考に、近代における女性の歩みをまとめる」というようなものだったと思います。しかし、それは女性と社会、ひいては、近代という今に近い時代を生きた女性たちを通して、自分自身とこの国の歴史との関わりを考える初めての体験となったのでした。もちろん当時はそこまで深く考えたわけではありませんが、それまで私が知っていた少女らしい楽しみとは異質の、未知の世界を開いていくような興奮を覚えて熱心にまとめたことを思い出します。

「歴史」とは「男性史」です(ある知人に言わせれば、「成功した男性史」で、その範疇からこぼれた彼などは含まれないのだそうですが)。遠い昔に腕力と知力とで勝ち取って以来、彼らの好む考え方、彼らの好むやり方で築かれ運営されてきたのが今に至る社会です。そしてその途上で、彼らに馴染みのない考え方ややり方を好む「女性というもの」は「理解できないもの」として、社会の隅に押しやられてきました(“理解できないもの”を恐れ、それが憎しみに変わって相手を迫害したり排除したりする狭量は、歴史の常です)。

Kageyama_hideko_3 明治維新以降、自由民権運動の気運に乗って、女性の権利を主張する女性たちが声をあげ、文芸界でもいわゆる「閨秀」の台頭が目立つようになります。しかしその実態はといえば、女性解放運動の先駆岸田俊子は「女丈夫」と騒がれ、女権活動家景山英子は「東洋のジャンヌ・ダルク」と揶揄され、作家田澤稲舟は「女(山田)美妙」とあだ名され、大逆事件に絡んだ管野すがは「毒婦」と憎悪されと、大衆の受けとめはとても一人前の人間に対するものとは思えないものでした。後の『青鞜』の一部メンバーたちに至っては、「新らしい女」を謳い文句に、飲酒や夜遊びなど男性の“悪弊”をまねて粋がってみせるという蛮行の果て、世間からはゲテもの扱い。半世紀以上にわたる産みの苦しみと試行錯誤には痛々しいものがありました。

また彼女らの多くは、精神的に未成熟なまま男性に翻弄されます。景山英子は同志と信じた民権家に二股をかけられてシングルマザーとなり、二股のもう一方、作家で女権家の清水紫琴も子を産み沈黙します。田澤稲舟は師山田美妙とのスキャンダラスな結婚に破れて笑いものになりました。その報道の顛末は、さながら現代のゴシップ記事。男性のみによって成り立っていた世界に「異質なもの」女性が参入することで、逆にその世界の権威の怪しさ、中身の薄さが露呈してくるのは興味深いことです(しょせんは人間の作る組織など、一皮むけばガキ大将の陣取りの延長。その“戦利品”に過ぎなかった女を、同志として真っ当に扱う気などないわけです)。

さて、私の中に蒔かれた「近代日本女性史」の種は、その後しばらく芽を出すことはありませんでした。私は普通のOLとして就職し社会に出ます。そして卒業から約10年、転職した二つめの職場は、社会運動に永年携わってきた世界規模の女性会員運動体でした。そこで、この平和ボケした国に、歴史的・社会的に底辺に追いやられた多くの人々がいることを(全く恥ずかしいことながら)初めて知ったのでした。何も知らなかった(知ろうとしてこなかった)自分に焦り、活動にのめり込み、社会の裏の実体を知るうち、この国に「騙されていた」「目をくらまされていた」ことへの動揺と憤りで、私は“愛国心”を失いました。以来、あらゆる権威や組織に対して懐疑的となり、疑問を感じれば留保し、盲従することも、たやすく迎合することもなくなりました。拠り所としての国家や社会を放棄したことで、“個”としての自分のこれからを真剣に考えるようになったのもこの頃です。

Emily_dickinson_2そんな時、たまたま手にしたのが、19世紀アメリカの詩人エミリー・ディキンスンの伝記でし た。マサチューセッツ州アマーストの名士の長女として生まれ、生涯の大半を故郷から出ることなく、実家で一家政人として過ごした人です。しかし、父の客たちの相手に疲れた時、ただ2階の自室にこもって詩のノートを開くだけで、彼女は自分自身の世界に戻ることができました。自己実現とは、何か大袈裟に“事を成す”ことではない。自分の原点を知り、常にそれに忠実であること。そして、その原点にいつでも戻れる術を身につけていること。この二つがあれば、どこに身を置こうが、どんな生活を営もうが、その人は自由人なのです。自己の本源を生きられること、人生においてこれほどの宝はありません。それができた彼女は凄いと思いました。

「男性史」に無視され続けた女性。社会や組織の後ろ盾もなく、自立したところで、はみ出し者として茨の人生が待つだけでした。しかし、社会通念や世論の束縛に押し込められず、自分の頭で判断し、出した結論に信頼して生きようとした何人もの女性が、どの時代にもいた。その一人ひとりに、唯一無二の生命が息づいていたのです。そんな彼女たちをもっと知りたい。歴史に埋もれてしまった彼女らの、等身大の思いを感じたい。エミリーを通じて、私の心にそんな気持ちが湧き起こってきたのでした。

以来、私は心に触れる過去の女性に出会うと、しばしの間その人を友達のように追ってみるようになりました。それは、時には文献をひも解くだけで満足することもあれば、縁の地を訪ねてみたくなるまで駆り立てられることもあります。ただ、いつの場合も行き着く先にあるのは、彼女たちと自分とがつながっているという実感です。初めて女性史を勉強したときに感じた興奮は、その予感だったのでしょうか。彼女たちの人生は、私の人生と決して無縁ではない。それどころか、私自身が、彼女らの歩んだ同じ線の上を今歩いている。それを毎回感じられるのが嬉しくて、この“旅”を続けているのかも知れません。

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私とバルラッハ

『自分探し』

 人間とは何だろう、私はどう生きていったらいいのだろう。誰もがそうであるように、私がこんな問いかけをするようになったのは中学から高校にかけて、いわゆる自我の目覚めを迎えた頃でした。
 中高一貫校での6年間に、好い思い出はあまりありません。6年連続で風紀委員に任命され、本当は校則など守りたくもないのに守らせる立場にある自分が、先生の“手先”になったようで嫌でした。表向きのきちんとした真面目な自分と、内心は弾けたい自分とに分裂したまま、自ら花の青春時代を真黒に塗りつぶしていたようなものでした。さらに、クラスで談笑していても気の利いたジョークひとつ出てこない、たまに口を開いたところで、浮いてしまうか場を白けさせるかで、気持ちよく打ち解けたためしがありません。大抵そんな時は、心のどこかで、こういう輪の中にいる自分が本来の自分ではなく、何か場違いなことをしているような、居心地の悪さを感じていました。結果、つき合いにくい変な人と思われて、心を割って話せる友達もほとんどできません。
 こんな自分の当時の何よりの楽しみは、町にひとつしかない映画館で、一人ロードショーやリバイバル上映の古い映画を見ることで、同世代の友達と出かけたり遊んだりすることよりも、家で好きな映画雑誌を読んで空想に耽っている方が、遥かに楽しく心が満たされるのでした。
 周囲とうまく馴染めない背後には、押しが強い割に、どことなく人に対して気後れする臆病さがありました。思いやりが深く、人づき合いや人を喜ばせる行いを自然にできてしまう人がうらやましく、私もああなりたい、でも現実には程遠い。それを実感するたびに、そんな自分を冷たく見つめるもう一人の自分が、容赦なく「お前はダメだ」と叱責します。自分がわからない、受け入れられない、こんな自己矛盾と自己否定の日々だったのです。
 さらに、倫理社会の授業で“自我”という言葉を知ってからは、「自分とは何か」「私はどう生きていけばよいのか」と、一層一人の人間としての自分がその後の主要な関心となっていきます。この先の人生を生きていくためには、選ぶ職業ではない、出会う人ではない、まず自分というものを知ること、それしかないと、まだ漠然としながらも、自分探しが始まったのもこの頃です。現実生活よりも自己探求。外へ前へ、ではなく内へ奥へ。そういう点は、物事の感じ方や捉え方における自分の特色であったといえるでしょう。

  ところで、私はキリスト教(カトリック)の雰囲気の中で成長しました。日曜日は教会に通い、中高も短大もミッション系でした。したがって私は、ごく自然に「自分とは」を、自分が育ってきたこの世界の価値観で解明しようとしてきました。
 人々の中でうまく歩調を合わせられない自分、人を鼻白ませたり不快な気持ちにさせることばかりしている自分を変えたいと、黙想会や集会に積極的に参加し、司祭や修道者に心の内を語り、そこで受けたアドバイスを実践し、勧められた本を読み、考え、また別の会に参加しと、まとまった休日はほぼ費やしました。しかし、どんなに頑張っても、心の中にある制御できない衝動、得体の知れない暗い塊を解消することはできなかったのです。
   一方その過程で、私にはある生き方への憧れが芽生えました。砂漠の修道士。俗世を捨て、人里離れた洞窟で祈りと黙想に身を捧げる隠修士の生き様です。むろん、経験もつてもない自分が、ただ憧れだけでそんな生活に入れるはずもなく、いつしか「この世に身を置きながら、心は隠修士として生きることは可能か」が私の中で一つのテーマとなっていきました。
 このように具体性の乏しい、観念ばかりの自分探しの道のりは当然ながら険しく、何を試しても的を射ることのないまま、年月ばかりが過ぎていきました。

 そんな中、いつからか定かではありませんが、私にはお気に入りができました。191020年代のドイツのサイレント映画に心奪われたのです。ムルナウの『ファウスト』や『最後の人』、ラングの『死滅の谷』、レニの『裏町の怪老窟』、イェスナーの『裏階段』、ガレーンの『プラーグの大学生』等々、その独特の暗さ、自閉的なまでの内向性、徹底的に冷徹な傍観者の視点。一片の同情も差し伸べる手もない。むしろ、そんなセンチメンタリズムなど嘲笑うかのように、淡々と破滅へと向かうストーリー。日々の小さな慰めを糧に営んでいる人間の生活など、運命の刃は一瞬で引き裂いてしまいます。そんな人生の残酷に肩を落として従っていく主人公たち。この容赦のないリアリズム。そのすべてが、これ以上ないほど私のメンタリティと一致するのを感じ興奮しました。
 また、ヴィーネの『カリガリ博士』やマルティンの『朝から夜中まで』ら、独特の映像の作品で“表現主義”という言葉を知り、ドイツ・サイレント映画の表現主義的魅力を情熱たっぷりに解説したロッテ・H・アイスナーの『デモーニッシュなスクリーン』(原書はフランス語)の英訳版“The Haunted Screen”をかぶりつくように読みました。
 そして、このような自分の傾向は異常なものなのではないか、という不安を心のどこかに抱いたまま、自分探しの一つの足掛かりとして、“ドイツ的なるもの”をしばらく追ってみることにしたのです。

「ドイツ的なるもの」を追って

その第一歩は、トーマス・マンの講演集『ドイツとドイツ人』(岩波文庫)でした。マンの小説は読んだことがありませんでしたが、ここまで腹蔵なく徹底的に自国民を分析してみせるマンという人物に興味を持ちました。そして、彼の思想にもっと触れてみたいと、理解できないのを承知で彼の大著『非政治的人間の考察』(筑摩叢書)と格闘したりもしました。案の定三分の一もわかりませんでしたが、訳者の前田敬作、山口知三両氏による、我が日本の知識人の戦後の有様に照らした熱のこもった解説文に引き込まれました。
 ドイツの芸術家ケーテ・コルヴィッツの回顧展にも行きました。電車の中吊り広告の木版画“寡婦Ⅰ”に魅かれ、足を運んだのでした。コルヴィッツの絵は、ある本の口絵で一度見たことがありました。私の嗜好と必ずしも重なる作風ではありませんが、表現主義的な太い線で大胆に表した木版画や、逆に写実に徹したリトグラフ、さらに人物の全身から思いが迸る彫刻と、素材や画材を自由自在に操る彼女の力量のすごさ、そして、ナチスによって事実上の制作禁止に追い込まれた晩年に至っても決して妥協しなかった、彼女の強靭な精神力に圧倒されました。ナチスがコルヴィッツを抹殺できなかったのは、一流の芸術家としてのみならず、作品を通して、人間として、一人の母として社会を問い続けた彼女の人気がドイツ国民の間で非常に高く、うかつに手を下すことができなかったからだということです。
 そして次は、マンに触発されて読んでみたドイツ文学の入門書でした。その中で、直接自分に衝撃を与える最初の文章に出会います。

『ドイツ文学案内』(手塚富雄著 岩波文庫)より

ドイツ文学の主な性格は、意力的性格のつよいことであり、めざすものをどこまでも追求しようとする徹底性であると言えると思う。それは特に人間の内面の動向を主張する形で強くあらわれる。[…]そこから、外界の実状に即してつねに柔軟な態度で進路を見いだしていくというよりは、おのが心内を掘りさげて、そこで自己特有の世界をつむぎだすという傾向が多くなる。ドイツ文学でたびたび主題となる人間形成や生成への意欲も、主として内的傾向のものである。よく言われるように、ドイツ文学に社会性が少なく、他に比類の少ない程度に思索性に長じているということは、それと表裏をなすことである。また、それに伴なって、ドイツ文学は、形式の美を追うよりは、内的問題の追及における力感にまさり、追及はしばしば挫折となって悲劇性をつよく感じさせる。

 初めてこれを読んだ時、背中に電気が走ったのを今も思い出します。「ドイツ文学」の部分を「私」に置き換えれば、もう加えるものはないほど自分とぴったり重なったのです。この日の日記に、私は『ドイツだ!』というタイトルを付けていました。“ドイツ的なるもの”と自分とのつながりは、もう疑いようのないものになりつつありました。
 ドイツ映画に特化する本は、当時は以下のアンソロジー本を除いて手に入りませんでしたが、そこにも私が思わず唸らざるを得ない記述がありました。

『世界の映画作家34 ドイツ・北欧・ポーランド映画史(キネマ旬報社)』~ドイツ映画史(岡田 晋)~より

いったいなぜドイツ人は、このような物語、怪奇と幻想の世界を喜ぶのだろうか。[…]ドイツのファンタジーは常に暗く、悲劇的で、妖怪じみている。[…]
ドイツ人はこの(肉体と魂の)分裂と矛盾に、ある種の根源的なもの――存在の本質を見るのである。[…]
フランス人が事物の本質を明晰であることに求めるのと反対に、ドイツ人は無秩序なもの、混沌としたものを世界の本質と考える。「不十分で、不完全で、つねに変わりやすく、決定的になることはない」、これこそ、ドイツ人の人間本性に関する理解なのだ。[…]
表現主義者たちのアンソロジーを読むと、彼らが外部の客観世界を描こうとするよりも、内部の世界の深淵をみつめようとしていたことがよくわかる。

ドイツ人にとって、内部の世界にあるのは暗黒であり、矛盾であり、混沌である。[…]

 “明晰”ではなく無秩序、混沌を世界の本質とした上で、人間をうつろいやすい不可解なものと捉えるドイツ精神。これを私に当てはめるなら、不可解なのは「人間」でなく「自分」、こうありたいと思っている理想の自分から大きくかけ離れている現実の自分でした。

 むろん関心の強さゆえにほかなりませんが、ドイツを追い始めてからのこれらの出会いは、かなり短期間に起こっていました。「この方向でよいのだ。」日に日に強まる確信に、探求と並行して、私はずっと抱えてきた自己否定にも、こわごわある解決を試みました。受容できない自分をそれまで糾弾してきたもう一人の自分に代わって、そんな否定的な要素をそっくり引き受ける別の存在をイメージし、「道づれデーモン」と名付けて自分から切り離したのです。私の意志と真逆な言動をさせているのは私ではない。常に私に張りついて時をうかがっている私の道づれである。道づれは、私が“うまくいっている”時、順風満帆な時に、絶妙のタイミングで私に一撃を加えて全てをぶち壊し、「所詮お前はこんな人間なのだ」と思い知らせて元の定位置に突き落とします。しかしそんな時でも、これまでのように自分を責めるのをやめ、「してやられた」と、このデーモンのせいにするようになりました。つまり私は、自分の中の負の性格を“克服”するのではなく、これと“共存”していくことを選んだのです。当初の望みとは程遠い解決策。でもこれで私はやっと、やっと前へ進めるようになったのでした。

『デーモンとの闘争』

 そして遂に、決定打ともいうべき本と出会います。『デーモンとの闘争』(シュテファン・ツヴァイク著 みすず書房)「精神世界の建築家たち」というサブタイトルの付いたシリーズの第二作です。
 ずっとカバンに入れて持ち歩き、何度も開いて、付箋を付け、書き写し、そんなこんなで、元々古書だったこの本は、今や装丁はがくがくと破け落ちそうで、紙もシミだらけ、ひどい有様になりました。
 まず“デーモン”というタイトルだったでしょう。けれど、ここに登場する三人のために定義されるデーモンとは、私の中の“道づれデーモン”とは異り、「人間各人に根源的かつ本来的に生れついた焦燥」であり、人は「この焦燥のために自分自身から抜け出し、自分自身を超えて無限の境へ、根源的な世界へ駆り立てられる。」そして、特に創作に携わる人々の内部では、この焦燥が作品に対する不満足という形をとって創造的に働く。自身でコントロールできているうちは良いが、それが「過度の刺戟となり、魂が誘惑的な衝動、デモーニッシュなものの火山的作用に負けるところに、その危険がはじまる。」このように、「精神的人間、創造的人間は、誰でも彼自身のデーモンとの闘争に落ちこむことを免れない。」
 この定義に基づいて登場するのが、デーモンに駆り立てられるまま「火玉と化して人生の限界を突破し、反逆の精神に燃えて形式をうち破り、途方もない恍惚のうちに己れみずからを破滅させる、あの反神の巨人めいた性(さが)の持ち主」である詩人ヘルダーリン、劇作家で小説家クライスト、哲学者ニーチェの三人なのです。

「ヘルダーリン、クライストおよびニーチェにおいてまず目につくことは、彼等が現世に縛りつけられていないということである。デーモンはその掌中に握った者を、現実界からもぎとってしまう。三人のうちのひとりとして妻子を持たず、家財を持たず、永続的な職業、確固とした公務を持っていない。――彼等はこの地上に何ひとつ所有物がない。」
「ところが彼らは、人生を学び得るものとも学ぶ価値のあるものとも考えていない。彼らにとっては、より高い存在に対する彼らの予感の方が、あらゆる統覚や感性的な経験より大切なのである。守護神から授かるもの以外は、彼らには与えられていないも同然なのだ。」
「デモーニッシュな本性を持つ人は誰でも現実性を不充分なものとして軽蔑する。彼らはいつまでたっても、(…)既成の秩序に対する叛徒であり、暴徒であり、反抗者であることを止めない。屈服するくらいなら、むしろ破滅をよしとする。瀕死の傷を負うまで、われとわが身を滅ぼすに至るまで、彼らはその頑強な非妥協性を押しすすめる。」
「デーモンによって世界から引き抜かれた者たちにとっては、現実界にこれほどの高い価値を置くこと、あるいはそもそも現実界に何らかの価値を与えようとすることほど、無縁なことはない。彼らが知るのはただ無限性ばかりである。」    

 究極の真理を勝ち取るために、余分なものは何もかもとことん捨て去ったニーチェ、現実世界に背を向け、芸術と神だけに自身を捧げたヘルダーリン。
 そして、二人に増して私を捉えて離さなかったのがクライストでした。そこには、ハインリヒ・フォン・クライストと名を変えた私自身が綿々と描写されていたのです。

「誰しもかれの本質を見過ごし、誰ひとりかれの顔を、まともに見すえたためしがなかった。(…)そうなったのも、かれのとじこもる殻が、堅すぎたためだ。(…)かれは万事己の胸の裡にたたんでおいた。(…)かれは口数が少なかった、口が重く、開かれればどもりがちだったから、羞恥のせいだったのだろう、また屈託感、抑圧感といったものにもよるのだろう。」
『何かしら、伝達の手段が不足なのです。ぼくらの所有する唯一の手段、言葉でさえ、その役には立ちません。魂のニュアンスを描くことができないのです、言葉がぼくらに与えるものは、きれぎれの断片にすぎません。ですからぼくは、誰かに心の中をうちあける羽目になるたびに、戦慄にも似た思いを抱くのです。』
「かれはおしゃべりも、ざっくばらんにふるまうこともできなかった。一切の紋切型もお愛想もかれはすこぶる苦手としていたから、ある人々は、この石のように黙りこくった来客に“どことなく憂うつで、一風変わったところ”を感じ取り不快に思ったし、またかれの鋭鋒、辛辣さ、気詰まりな、桁はずれの生真面目さが、ある人々の気色をそこねもしたのである(自分の沈黙に気をいら立たせ、突然、木に竹をつぐように話を切りだすたびに)。かれの身辺には、なごやかな談笑の空気の流れることがなく、面立ちや言葉から、惻々とせまる共感が放射されるでもなかった。」

「クライストは、己が落ち行く先を承知している。はじめから知っている――奈落の底なのだ、と。(…)いつもかれの念頭にはこの奈落がある。クライストの奈落は胸の裡にある、だからのがれるすべがない。かれは、それを己が亡霊の如く、身につけているのだ。」
「かれにはありあまる情熱があった、きりのない、しめしのつかぬ、無軌道奔放な激情があった。それがたえず極端にまで押しやってゆきながらも、言葉や行為となって迸りでることがついになかったのは、同じ勢いで眼覚ましい発育をとげた、桁外れの道義心が、(…)情熱を押しもどし、封じ込めたからである。かれは、一方でほとんど病的なまでの潔癖さをそなえながら、悪徳を行いかねないほど情熱的であった。(…)かれは、ありあまる智力をそなえながら、血の気が多すぎた。きびしすぎる規律を守りながら、移り気でありすぎた。」
「生(き)のままの気質とかくありたいと念ずるそれとの間の不調和、つまり、[うまれつきの]衝動とそれに抗う衝動の、絶え間ないどぎつい緊張が、かれの苦悩を、運命につくりかえたのである。」
「(うつし身の)かれが(理想化された意味で本来の)かれ自身のがらに合わなかったこと、かれが、いかに躍起となっても、自らの態を成しえなかったこと、それがかれの自尊心を、幾たびとなく、打ち砕くのだった。(…)絶えずかれは、わが身を裁く。きびしい裁判官なのだ。しかも自分の心の中で一番きびしい態度をとった。(…)現実のかれは、かくありたいと願うかれとは、似ても似つかぬものだった。」
「いつもかれは、――ゲーテが彼を評した(…)――(感情の混乱を)目ざしている(他人に当惑、恐怖、嫌悪などの印象をあたえて、得意がっているという幾分悪意のこもった言葉)のである。」
『ぼくという何とも言いようのない人間のことは、姉さんに何と説明したらいいのか見当がつかない。』『何もかもが、ぼくの心の中では、絲捲棒に束ねられた、麻の緒のようにもつれているのです。』

 その他にも、50代の分別盛りで「私もかつて人並みに幸福を求めた。しかしそれは私の性に合わない」と語った劇作家レッシング、魂を解体する昼間の陽光ではなく、肉体を解消していく夜の静けさに自らの故郷を見出し、20歳そこそこで「光の世界を立ち去ろう」と書いたロマン派詩人ノヴァーリス。解説や詳論は無用、彼らの言葉は聞いた瞬間、私の心の芯の部分に響鳴し、溶け込んでいきました。彼らは皆私の魂の兄弟でした。
 西欧的価値観の下で、私がそれまで克服せねばと奮闘してきた同じ“負”の性格の持ち主たちが、ドイツでは、否定されるどころか当たり前に文学史上に居場所を確保し、ごく“普通”に紹介され論じられていたのでした。これは、私にとっては天地がひっくり返るような衝撃でした。そして、ここに遂にバルラッハとの出会いが訪れるのです。

バルラッハ

  『日本におけるドイツ年』の一環として開催された、彫刻家エルンスト・バルラッハの初めての回顧展。ブロンズ“歌う男”のポスターを見た時、それまでの出会いと違うある予感が走りました。そして、もう一枚のポスター“苦行者”を見た瞬間、「これだ!」と確信しました。これと出会うために探求を続けてきたのだと。走り幅跳びのように間の道のりを飛び越して、いきなりゴールに落ちてしまった。これが、私が今まで「自分とバルラッハ」をなかなか語ることができなかった理由かも知れません。

  ドイツを知るずっと以前から、私が抱き続けてきた憧れの生き様。それを具現した人物が、回顧展会場に静かに坐っていました。その身は俗世に置き、人々の施しを糧としながら、超越者に魂のすべてを捧げて生きる“苦行者”です。この人物はただ目を閉じるだけで、外の世界からも自分自身からも解き放たれています。そこにいるのは最早彼ではなく、彼の姿を借りて発現する超越者そのものです。私はその厳粛なオーラに圧倒され、その場に立ち尽くすしかありませんでした。そして、いったいどんな人がこれを造ったのだろう、なぜ一介の芸術家に、このような像が造れたのだろうと、バルラッハに対する関心が、この日からどんどん私の心を占めるようになっていったのです。

  そして翌年、思い切ってバルラッハ所縁の地を訪ねる計画を立てました。ハンブルク、ギュストロウ、リューベック、ラッツェブルクの4都市をめぐる旅です(→「ドイツ旅行記」2007)。
 正味5日ほどの滞在は、私に大きな宿題を残しました。この旅で受けた感動を立ち消えにさせたくない。バルラッハのことをもっと知り、深めたい。けれど、日本で入手できるバルラッハ関係の書籍や資料は、日本のバルラッハ・ファンの草分け上野弘道氏(→「ドイツ旅行記」2010)の著作を含め、過去に出版された数点のみ。普通は回顧展が開かれれば、それに因んで伝記本の一冊も出るものなのに、バルラッハに関しては皆無でした。
 英語の文献も探しました。が、英語圏でのバルラッハの捉え方は、晩年のナチスがらみのいきさつが主流で、彼の芸術を本格的に論じたものは多くはありませんでした。私は焦りました。このまま時が過ぎ、“過去の思い出”の一つになってしまうのは、どうあっても耐えがたいことでした。何かしなければと、じりじりする思いに後押しされて、無謀にも帰国からわずか数週間で一気に立ち上げたのがこのブログだったのでした。同時に、「日本語でも英語でも読めないなら、原書を読もう」と、ドイツ語教室にも通うことにしました。二年足らずの学習の内にいくらか物が読めるようになると、バルラッハの世界は広がっていきました。

 “人間という不可解”、バルラッハ自身が、まさにそこからスタートした人でした。そして彼は、矛盾をはらんだ人間というもの(彼自身、その一人であることを充分自覚していました)を、矛盾をはらんだまま肯定し、ありのままに見つめ、そんな弱さや運命の残酷に翻弄されながら生きざるを得ない人間というものの本質を描き切りました。
   自然の猛威を踏ん張りながら耐える“嵐の中の羊飼い”
   集団の狂気を冷めた心で見つめる“縛られた魔女”
   日々の労苦を歌で吹き飛ばす“歌う男”“歌う三人の女”
   国家に奪われた我が子の生命に対する責任を無言で問う“ピエタ”の母
   人間社会のほころびや狂った歯車を笑い飛ばす“笑う老女”
 そこには英雄も偉人もいません。神のしもべ“モーゼ”や戦士“ベルセルケル”ですら、神々しさのかけらもないのです。迷い、悩み、おびえ、享楽におぼれ、打ち負かされ、うめきながら受け入れ、生きていく普通の人間の姿があるだけです。その姿に、バルラッハは崇高なものを見たのです。
  『ドイツ文学案内』の「めざすものをどこまでも追求しようとする徹底性」という記述は、バルラッハそのものです。彼の場合は、そこに北ドイツ人特有の寡黙さと内向性、不器用なまでの生真面目さが加わって、「人間とは何か」という大きすぎるテーマを自身の芸術のモチーフに据え、真っ向から挑み、逆風の中も“風の中を行く人”のように突き進み、“苦行者”のように一途に深め、遂に彼だけの芸術、唯一無二の芸術を手に入れたのでした。

 バルラッハを知って、私のドイツ探求を通じた自分探しは一つのゴールを見ました。それは、長い自己受容の道のりでした。それまで自分の生活環境のどこにも同類を見出せなかった私が、ドイツ、そしてバルラッハの彫刻の中にそれを見つけた時、私はようやく今の自分をありのまま受け入れることができたのです。もう我が身に鞭打って「変わろう」とするのはやめる、"この情けない自分"のままで、覚悟を決めて最後までやっていこうと、心から思うことができたのです。
 残りの時間を、私はバルラッハの彫刻と共に生きていきたいと思っています。仮に現地に行くことが叶わなくなったとしても、この十数年で撮りためた写真と、このブログに掲載した本、入手した写真集、これから読みたいと思っている本、それらを通じて、彫刻たちとの交流を深めていきたいと思います。
  欲しいものを次々と手に入れていくことに喜びを感じる人を貪欲で贅沢だと言う人もいます。けれど、ただ一つのものが欲しい。自分にとってのたった一つ、本物が欲しい。他は要らない。――考えようによっては、こちらの方が遥かに貪欲で贅沢かも知れません(バルラッハにも『デーモンとの闘争』の三人にも通じる特性です)。ドイツとバルラッハに出会えたことは、まさに私にとっての“たった一つ”の本物でした。「めざすものをどこまでも追求しようとする徹底性」私の中のこの“ドイツ性”は、その歩みこそあちらこちらと蛇行しながらも、どうにか“めざすもの”に向かう一本の道を辿り続けていっていたようです。こういう経験を持つことができたということが、私には本当に奇跡のように思えます。

 

ブログについて一言

ブログを見ていただければわかりますが、たった二年のドイツ語学習で訳出した本の出来は、どれもお粗末なものばかりです。特にバルラッハ自身の文はとても難解で、まず意味を理解するのに四苦八苦し、結果よくわからない文章になってしまったものが多いことは否めません。力不足、その一言です。
 こんなお恥ずかしい限りの状態でも敢えて掲載しているのは、これを目にしたどなたかがバルラッハに興味を持ち、いつかもっと格調高い訳本を出版して下さるかも知れない、という期待を込めてのことなのです。もしそれが実現したら、私のものはただちに消去するつもりです。バルラッハの彫刻をもっともっとたくさんの人に知ってもらいたい、それが私の心からの願いなのです。

最後に、日本で出版されたバルラッハ関連の本を記載します。

「エルンスト・バルラッハ 忘れられた表現主義の彫刻家」上野弘道(1989あい書林)
「木彫の詩人エルンスト・バルラッハ」上野弘道(1993新日本出版社)
「バルラッハの旅」上野弘道(2008年風間書房)
人間を彫る人生 エルンスト・バルラッハの人と芸術宮下啓三1992国際文化出版社
「そしてすべての存在が耳を傾ける」E・スッペテッキ 鈴木 俊訳(1992宝文館出版)
「バルラハ 神と人を求めた芸術家」小塩 節(2002日本キリスト教団出版局)
「ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ」[回顧展図録](2003朝日新聞社)

 

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エルンスト・バルラッハ

 

 エルンスト・バルラッハ(1870~1938)は、北ドイツで活躍した芸術家です。彫刻、版画、戯曲と、幅広い分野で豊かな才能を発揮しました。

 彼は1870年、ハンブルク郊外のヴェーデルで、医師の長男として生まれました。若き日は、ユーゲント・シュティールの影響を受けた作風でビルの装飾や工芸品などを手がけますが、内から突き上げてくる希求を体現する独自の芸術を探しあぐねて行き詰まり、一時は自殺すら考えます。

 36才の時、たまたま訪れたロシアで、広大な大地と自然に翻弄されながら生きる素朴な現地の人々の姿に、求め続けていたモチーフを遂に発見します。その後は北ドイツの小都市ギュストロウで暮らしながら、作品を送り続けます。

 彼は、ブロンズ彫刻主流のヨーロッパではあまり用いられない木彫を好み、他に類を見ない独特な作風は高い評価を受けました。また、第一次世界大戦戦没者の慰霊碑など、大規模なプロジェクトも数多く手がけます。劇作家としてもトーマス・マンらの賞賛を浴び、作品はハンブルクやライプツィヒ、ベルリンなどで上演されました。しかしナチスが台頭すると、一転その非英雄的な作風が嫌われて激しい攻撃にさらされ、活動の場を奪われます。1938年10月、不遇のうちにかねてからの心臓病を悪化させたバルラッハは、68才の波乱の生涯をロストックの病院で閉じました。

 

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