エルンスト・バルラッハの彫刻たち

老女たち

バルラッハは子供を描かなかった。真っ白に輝く肌に、これから切り開いていく未来への期待や希望を漲らせた少年少女を描かなかった。しかし、多くの年老いた人、特に老女を描いた。

 

『うずくまる老女』

マントを羽織って座っている一人の老女。骨と皮ばかりになった大きな両手両足、細い尖った顔。何もしゃべらない。だが鋭い視線は決まって通りを行き交う男女一人ひとりに注がれ、時に薄い唇を意地悪く歪めたりもする。「恰好つけたって駄目さ、ぜ~んぶお見通しだよ」地主も役人も奥様方も、一皮むけば自分と変わらないのだと言ってでもいるように。こちらに向けられた視線に気づいたある者は、そわそわと居心地悪そうに眼をそむける。
Img_0376実のところ彼女は、することもないので通りをぼんやりと眺めているだけなのだろうし、視線が鋭く見えたのは、年を重ねやせ細って、眼ばかりが目立つようになってしまったからなのだろう。本音を見透かされたように感じた者は、彼女の視線によって一瞬、昔の自分、封じ込めたはずの“裸の自分”に引き戻された、心に後ろめたいところがあったということなのかも知れない。
昔は日本のどこの路地にも、こういうおばあさんが日向ぼっこをしていた。怖い存在だ。

 

『坐る老女』

一方、正面を向いて腰を下ろしているこちらの老女に、そのような“毒”は無い。顔の彫りはむしろ単純で皺もImg_0890_2あまりない。のっぺりした面に眼と口の切り込みを入れ、低い鼻を取り付けただけのようだ。
が、何も考えていないようなその表情は、角度によって印象ががらりと変わる。片側から見ると、いかにも柔和な、何人もの孫に囲まれた片田舎のおばあさんなのに、反対側から見ると、細い眼がきっと吊り上がり、唇を引き結んだ厳しい表情が現れる。愛情と裏切り、出会いと別れ、歓喜と悲嘆、憤り、不条理…人生の幾多の場面に否応なく対峙し、ともかくも越えてここまでやって来た人の数十年がそこには刻み込まれ、見る者の視点によって浮かび上がるのだ。そして、丸く湾曲した背中と、その小柄な体には似つかわしくないほど大きな両手から、彼女の一生が休む間もなく働き詰めだったことがわかる。
どんな身の上話よりも、彼女の今の姿そのものが、その生涯を語り尽くしている。

 

『凍える老女』

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彼女には、寒さから身を守る物が何もない。体を覆うのは一枚の薄衣だけ。真っ赤になった素足の指を覆うには、丈が短すぎる。それを冷え切った両手でできるだけ引き伸ばし、太った体をぎゅっと小さく固めて包み込んでしのぐ。こんなことの連続だったのだろうか、彼女の半生は。「寒いよ、う~寒い」、苦痛の呻きは、不公平な人生への愚痴にも聞こえる。

 

『笑う老女』

バルラッハ最晩年の作品。ナチスによって活動の場を断たれ、持病の心臓病が悪化して、おそらくは死を意識Img_0373し始めていたであろう彼が、渾身の力で彫り上げたのは、節だらけの指で両膝を支え身をよじらせて、あらゆるものを笑い飛ばす老女の哄笑だ。全て吹っ切れたのか、吹っ切りたいという願いを老女に託したのか。敢てこの時期この像を作った彼の心境を思うと言葉が無い。自分の人生を、自分を取り巻く世界と社会を、自分をこの状況に追いやった運命を、そして人間という滑稽なものを、どこまでも笑い飛ばしてみたくなったのだろうか。
この老女が体現するかのような時代の狂気の中で、彼は翌年力尽き、68年の生涯を閉じた。

自らの老女の像について、バルラッハはこう表現している。「何も学んでこなかった、しかし全てを知っている人」

 

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読書する人たち

『読書する人』Reader_2

「そうか!」と、何かが彼の中でつながった。人込みから離れたった一人、答えを求めて開いた本。永遠にも感じられる孤独な時間が流れ、半ば惰性に陥りかけていた時、突然心に飛び込んできた“この一文”。そこから得たインスピレーションで、頭の中の霧がパッと晴れた、その瞬間の表情。

『読書する修道僧』
  一方、こちらの二人は修道士。日課の読書の最中か。読んでいるのは聖書の一節だろう。一人は声に出して読みながら、既に深い瞑想の境地に入っている。もう一人は、神の尊い言葉を一字一句聴き逃すまいと、組んだ両手に力を込めて、大きな体を謙遜にかがめている。あるいは、感動に持っていかれそうになるのを必死にこらえているのだろうか。修道会という特殊な空間ではおそらく“普通”であろう日常の、一瞬を捉えた作品。
Reader2

 
読書を通じ、平凡な生の営みを飛び出して、深遠を覗き込んだ人々。―― 自分では気づかないが、心に響く“本物”に出会った瞬間の私たちは、皆彼らのような豊かな表情になっているのかもしれない。

 

 

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魔女と聖女

『縛られた魔女』
Hexen両手を縛められ、さらしものにされた“魔女”。もはや覚悟を決め、伸ばした両手にもぴたりと揃えた両足にも動揺はない。
が、“狂気”に見開かれた目に映るものは、同じように血走った目で自分に石を打ち、あざけり罵り、火あぶりだと叫ぶ大衆の姿だ。どんどん荒れ狂うばかりの狂騒の只中で、ひとり“魔女”だけが冷静だ。その目はこう言っているように見える、「あんたたちと私と、どこが違うというのだい?」
自己を見失い、何かに取りつかれた時、人は狂気に陥る。その狂気が周囲に伝染していくと、いつかそれは彼らの“正義”となる。自らが時代の“魔女”とみなされ、糾弾され、活動の場を奪われていったバルラッハの目に映った大衆は、この魔女が見た大衆の姿と重なっていたことだろう。


『ピエタ』
数えきれない巨匠の手によって表現され続けてきたピエタ(十字架から下ろされたキリストの亡骸を抱きかかえる聖母マリア)。そのどれもが深い感動を呼ぶのは、子を亡くした母の悲しみに、文化も時代も関係ないからだろう。
歴史上どの時代にも、理不尽に我が子を奪われた母たちがいる。そんなすべての母は“マリア”なのだ。二つの大戦の間を生きたバルラッハの“マリア”は、戦闘で奪われた鉄かぶと姿の我が子を抱き、まっすぐ顔を揚げてすべての人に問いかける、「誰が殺したの、私の愛する子を」と。Pieta_2
その無言の訴えにひるんだ者は、やがてこう嘆息せざるを得ない、「まったく、いったい何をやっているんだ、人間は ――。」

 

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ギュストロウ大聖堂

Dom_2ギュストロウ中心部から郊外に向かって歩いて行くと、広大なギュストロウ城の敷地が見えてくる。そこをさらに歩き続けると、やがて現れるのが大聖堂だ。

宗教改革によって改宗するまではカトリック教会だったというゴシック式の内装は荘厳で、かつて所々に聖画や聖人の像が飾られていたことを感じさせる。その一角、ほの暗い片隅に、ひっそりと浮かび上がるバルラッハのスペースがある。Photo_2

彼の生涯を紹介したレリーフの横には、十字架にかかったブロンズのキリスト像。真一文字に結んだ口、まっすぐに正面を見据えるまなざし。すべてを受け入れきった方が、今度はこちらに問うている。

そして反対側には、天井から吊るされたブロンズ像が。真下には、大戦によって命を落とした人々を悼む言葉が刻まれた円形の碑、その上を漂っているのだ。『空飛ぶ天使』とも呼ばれている。
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人類の最大の罪である戦争の犠牲となった人々の上を漂い、行き場を失った魂を引き上げて天へと運ぶ。非業の死、痛みを伴う死、思い残すところの多い死。天使に掬い取られることで、魂はやっと慰めと安らぎを得て瞑目する。その瞑目を自らの面立ちに写して、また飛んで行く、同様の苦しみのあえぎが聞こえる場所へと。人間の罪が犯され続ける限り、冷たくひとりぼっちで見捨てられた、宙ぶらりんになった魂のもとへ、天使は今日も飛び続ける。

この像は、もともと第一次世界大戦の犠牲者を悼むために造られたものだ。ところが、ナチスが勢力を増し、ヒトラーが政権を握ると、平和を求めるバルラッハの慰霊像や碑はことごとく撤去され、民族主義的なものに差し替えられた。この像も取り払われ、溶かされて武器へと鋳直されたという。
幸いにも戦後、ひっそりと保管された鋳型をもとに再生されていた像が、ケルンのアントニーター教会に設置された。鋳型はすでに焼却されていたが、その像をもとに更に一体の像が鋳造され、ギュストロウに設置されたのは、1950年代半ばになってからだったそうだ。そして、天使が守る碑文には、第二次世界大戦の犠牲についての記述が加えられた。

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耳を澄ます人たちのフリーズ

バルラッハ・ハウスに展示されている9体の彫刻。古い教会などによくある、横一列に並べて鑑賞することを目的につくられた連作で、どれも1mほどの大きさ。壁に設置できるよう、背面は平板で彫刻はほどこされていない。

 

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「該当作なし」として廃案となった「ベートーベン没後100年記念碑」コンクール(1926年)に応募するために製作された作品だ。構想では、円筒型のオブジェの上部にベートーベンの頭部を配し、側面のぐるりを十体(後に九体)の像で飾るという壮大なものだった。

Img_3878じっと眼を閉じた楽聖の風貌は、意外なほどモダンで劇画風。よく知られた肖像画をモデルにしたものだろう。思索家を思わせる彼が繰り出す魂の調べを受け取るのは、年齢も性別も生き方も様々な9人の人物だ。
聴き入る一人ひとりの表情が素晴らしい。同じ曲を聴いているようにも見えるが、彼らの心に響いているのは、実際は個別に異なるメロディーなのかもしれない。その調べを『巡礼者』は孤独な旅の励みとしたのだろうか。『待ち望む人』は希望のメッセージと感じたのだろうか。『盲目の人』を緘黙させ、『踊る人』を夢のようなダンスに導き、『信じる人』を信仰の喜びに輝かせたのはどの曲だったろう。ひょっとしたら、彼ら自身がベートーベンの9つの交響曲の体現者なのではないか――と、空想は広がる。

「ベートーベン記念碑」企画が立ち消えとなった後も、9人の像の構想はバルラッハの心を占め続けた。紆余曲折を経て、『耳を澄ます人たちのフリーズ』としてそれが遂に実現したのは、晩年の1935年だった。
ただ、“耳を澄ます”というタイトルが彼にはやや不満だったらしい。コンクールを巡る悔しい記憶のせいかもしれないが、彫刻家として絶頂期にいた最初の構想当時から10年、ナチスによって仕事も名誉も奪われていく今の彼にとって、『フリーズ』の完成は、これで最後かもしれないという悲壮な予感と共に悲願となっていったのではないか。それほどまでに追い詰められた彼の心境があったことを忘れてはいけないのだろう。製作資金を提供してくれたヘルマン・F・レームツマ(「エルンスト・バルラッハ・ハウス」の創設者)に宛てた感謝状の中で、彼はこう書いている。「心からこの仕事をしたくてたまらない手に、何をおいてもそれを与えてやろうと思わない者があるでしょうか。」

迫害がいよいよ本格化する中、『フリーズ』はバルラッハの生涯における、文字通り最後の連作となった。


  『夢見る人』               『信じる人』          『踊る人』

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  『盲目の人』                 『さまよう人』        『巡礼者』

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  『感じやすい人』         『祝福された人』        『待ち望む人』 

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ゲルトルード礼拝堂

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門を入ると緑ゆたかな公園。中央にはポツンとチャペルがひとつ。他に何もない。モザイクをなす色とりどりのレンガの壁面が、どこかおとぎ話の魔法使いの家を思わせる。
 

『大地の母』Img_02401
公園のいちばん奥に、両腕を拡げて静かに坐す。周囲の緑に溶け込んだ石像は、離れていても目にした者を引き寄せずにはおかない。そして、拡げた腕の間にフワリと招き入れていく。視線を交わすことはできない、その目はじっと閉じられたままだから。人類と神との和解のために祈り、祈りの中で自己を昇華させている。この人も隠修士だ。
 
そう、バルラッハの彫り上げる人物たちは、皆ある意味で隠修士だ。修道生活者であろうが物乞いであろうが剣士であろうが。世俗に身を置きながら、精神はより深きものへと超越している。

チャペルの重々しい木戸を押しあけると、そこはがらんとした空間。狭いアーチ型の窓から差し込む陽光と、その自然の光を最大限に生かすため最小限に抑えられた照明。その中に、かなり無造作に並ぶ作品群。“適当”に配置されたように見えるが、かえってその素朴さこそがバルラッハにはふさわしく、全く違和感がない。

ここは元修道院。何十年、何百年にもわたって、毎朝毎夜ここで唱えられ続けた修道者たちの祈りが、バルラッハ記念館となった今も消えることなく息づいている。一切の装飾を排したこの空間に、彫刻たちは何としっとり馴染んでいることか。

 
『風の中を行く男』
Img_25361帽子を飛ばされないよう、コートを剥がされないよう、両の手でしっかりと押さえながら、逆風を行く男。バルラッハ自身の姿か。こういう道でもあるのだろう、時代や人に迎合せず生きるとは。小さく平凡な人間だから飛ばされてしまう。だから、守るべきものをしかと抱え込んで、ひたすら進むのだ。
 

『読書する修道院生徒』
Img_02441修行中。外界のものを、余計なものを入れないように、修道院という“聖域”で超越を学んでいる。神のものとなるために。まだ少年である彼の、一途で純粋な決意を、神は慈しんでおられる。もうすぐわかる、あと少しだよ、と。
 

『唱う修道僧』
リュ−べックのカタリ−ナ教会の壁面にも納められた3体のひとつ。バルラッハの墓所を守る像だ。慰霊と贖罪の詩編を唱い続ける、唱えない(賛美できない)人々の代わりに。バルラッハの彫刻は、使命を持った途端、命を与えられ、同じ願いを持った個々人の心の中に生き始める。『修道僧』の声が響いた人は、残りの人生を彼の歌と共に生きていくのだ。私にとっての『苦行者』のように。Img_02771
 
 
『再会』
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復活したイエスと弟子トマスの再会。静かだが、壮絶。口づけんばかりに必死ですがるトマス。肩をつかむ手は固く、決して離すまいと筋が浮かぶほど。私を見て下さい主よ、と。しかし、彼を支えるイエスの視線は、すでに一人の人間のために注がれはしない。慈しみは変わらない、しかし新たな使命に向かって主は旅立たれる。再会と別れ。3年の間いつも傍らで共に寝、共に食した師は、もう一緒に歩いてはくれない。一人で行かねばならない、これからは。悩みの時、迷いの時、今は心の中に住まわれる主に問いかけながら、自分の足で立ち、歩いていくのだ。

弟子トマスは、イエスが神の子であることについても半信半疑だったかもしれない。弟子のほとんどがそうだったのだから。復活の主を目にしてやっと、本当に信じることができたのだろう。が、とうとうわかったその瞬間、主は行ってしまう。
“わかる”のは一瞬。あとはまたさらに深い霧の中に迷い込む。また、回り道をしながら、一歩一歩手探りで進んでいく。
 
 
『懐疑する人』
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京都でもバルラッハ・ハウスでもここ礼拝堂でも、この像はいつも私の目を引いた。しかし、その前に立ってもそれ以上のものを感じ取ることができず、思いを残したまま立ち去るのが常だった。

しかし、ある日私が自分自身に対する怒りや情けなさで苦しんでいた時、ぱらぱらとめくっていたバルラッハの作品集の中から、この『懐疑する人』の姿がいきなり心に強く迫ってきたのだ。膝立ちになり、嘆願するように腕を突っ張って、よじらせた顎から漏れる懐疑のうめきが、やり場のない自分のうめきとぴったり重なった。ほどなく葛藤も収まり、改めて眺めてみると、また元の“普通の彫刻”に戻ってしまっていたのだが、それは一瞬の鮮烈な体験だった。

バルラッハの彫刻は、鑑賞する作品ではない。描かれた人物と向き合い、その思いを自分のものとして体験する作品だ。自己の内面との格闘、この一点で思いを通じ合わせた時、この人物も私の“隣人”となった。

 

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エルンスト・バルラッハ・ハウス

受付を通り抜け、ガラス戸と開けて一歩奥へ踏み込むと、そこは荘厳なまでの静寂に包まれている。息を呑むような清澄な空気の中に、佇む彫刻たち。

『モーゼ』
Mose_4 照明を落とした回廊の先に、私を待ち受けていたように現れた。威厳も神々しさもない。むしろ弱々しい印象だ。胸に掲げる十戒は、神が彼に託した大きすぎる要請の表れ。こけた頬、哀しげなまなざし。何度も弱音を吐きながらも応え続け、だんだんとやせ細った彼には、その石板は重すぎる。自らその一部と化したように、もはや覚悟だけで立っている。


『歌う男』
私とバルラッハとの出会いの作品。片膝を抱えた両の手で、後ろにのけぞる体を支えて歌う男。額に皺を寄せ、Singer恍惚と目を閉じ、鼻腔をふくらませて。開けた唇の間から流れてくるのは、きっと最も聞かせどころのサビの旋律だろう。裏声かもしれない。実に気持ちよさそうだ。頭に手ぬぐいでも乗せてやりたくなる。この彫刻の人気がとても高く、幾体も造られたというのも納得だ。

しかし、ぐっと接近して、斜め下から見上げる位置に顔を寄せて眺めてみると、全く違う表情が浮かび上がってくる。歪めた眉の下の閉じた左まぶたが、歌うための緊張ではない苦痛で引きつって見える。泣いているのか、腫れぼったくも見える。叫び出したい怒りを、ほとばしる激情を、誰にぶつけていいかわからない悲しみを、旋律として絞り出している。彼には歌しかないのだ。引き受けて生きるには辛すぎる自己の現実を、歌の形で外へ出してしまうことで、かろうじて精神を保っている。しかし苦悩は去らない。また現実に押し潰されそうになる。だからまた歌う。歌は彼にとって、今日の苦悩を乗り切り、明日もう一日を生きていくための術なのだ。

『砂漠の説教者』
Img_0780_2村の片隅で、行きかう人々を前に人の道を説く老人がいる。一時の享楽(金、物、放埓)におぼれる民を戒め、「虚しいものを求めず、弱者をいたわり、天に宝を積め」と。
しかし、老人の声に耳を傾ける者はいない。よくあるファナティックの一人、「いかれた爺さん」の戯言と、目を止める者すらいない。
人々の無関心は、老人を一層燃え立たせる。「何故わからないのだ」と、両足を踏ん張り、拳を振り上げ、髪を振り乱して全身で叫ぶ。頬は紅潮し、苛立ちでぶるぶると震える。
普段ならば精巧に表情を刻むバルラッハも、この老人に関しては、ざくざくとのみの痕跡も露わに、もはや顔の一つひとつのパーツもはっきりしない荒々しいタッチだ。まるで老人の憤りが乗り移ったかのようだ。
バルラッハののみのひと打ちごとに、老人の人類への愛が迸る。

『苦行者』
Arsenal_2恐らくは修行僧である。往来する人々から小銭を施され、その日の糧を得ているのだろう。超越者のものとして生きる彼とて、決して世俗と切り離されているのではない。人間は人間(=社会)と関わりを持たずに生きることなどできはしないのだから。
彼はどんな半生をおくってきた人だったろう。何が彼を今の生き方に導いたのか。犯罪、別れ、挫折、転落など、人生を狂わせる決定的な出来事があったのか。それとも自身の内部に根ざす動機があったのだろうか。ひょっとしたら彼も、自分の中に住むデーモンとの闘いに疲れ果ててしまった者の一人だったのかもしれない。

人間の一生が経験と成長の道のりであり、完成することがない以上、芸術家の造り出す作品にも完成はない。それをわかった上で『苦行者』に向き合うと、改めてその完成度に眼を見張る。

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『苦行者』には余計な虚飾が一切ない。彼という人間、その生き様や覚悟を、華奢な彼の肉体一つが具現している。無造作に刈った頭髪から覗く、澄み切った広い額、迷いのない眉、深遠をのみ見つめる固く閉じたまぶた、貪食を排したこけた頬、呪いを吐かぬよう真一文字に結んだ口、身を覆う粗末な衣の下で、誰にも己を明け渡すまいと微動だにしない背中、そしてそれを支える木杖のようになった両脚。全身からは、声をかけることもはばかられるような威厳が発せられている。
それは、これまでの苦悩を気の遠くなるような苦行の末に遂に克服した彼が獲得したもの。彼の身は確かに世俗に在る。しかし、その精神は、もはや超越者のものであってそこには存在しない。徹底的に魂を研ぎ澄ました人間が到達した姿がここにある。

ロシアの広大な台地で、天と地の間に縛られて生きる人間に滑稽さと神聖さを見たバルラッハ。帰国後、自身の帰属性を強く感じた北ドイツの田舎町で、厳しい自然とそこに暮らす素朴な人々に、ロシアで遭遇したと同じ彫塑のテーマを見出し、隠者のように黙々と製作に没頭する彼にとって、これと決めたもの一つのために余分なものをすべて捨て払って生きる『苦行者』は、人生の理想であり目標でもあっただろう。
Img_0366徐々に彫り上がっていく『苦行者』と向き合いながら、その生き方がバルラッハ自身の中にもあった同じ種に共鳴し、発酵し、彼の両手にこもって、想定を超えた思いがけない姿に完成していったということなのかもしれない。アトリエハウスにある石膏モデルやシュレースヴィヒのブロンズ像との違いを見れば、一層そう感じる。自分の思い描いていた姿からどんどん変わっていく『苦行者』に、驚き感動しているバルラッハの姿が見えるようだ。

 

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