バルラッハ論

「苦行する人」 坂崎乙郎

Img_4231_2  今日のわが国では、この彫像のテーマである忍苦や禁欲の生活態度を美徳だと考える人はきわめてまれになりました。人間は自分の能力のかぎりをつくして現世の幸福をもとめる権利があるのだし、人間である以上、見たいものは見、着たいものは着、そして食べたいものは食べようとするのにどうして遠慮気がねがいるものかと思いがちです。そう合理的に考え行動するのがあちら風だし、現代の新しいモラルなのだと説く人もすくなくありません。

 とすると、この彫像の作者は現代の人ではなく、欧米風のモラルとはあまり縁のない芸術家だったのでしょうか?―― いいえ、そうではありません。バルラッハはれっきとした今世紀の人ですし、北ドイツに生れ、芸術の古い都フィレンツェや新しい都パリで修行したこともある現代彫刻家です。ただ彼は、これらヨーロッパ新旧の文化からなんの美の理想もみつけることはできませんでした。

 彼が芸術家としての自覚をえたのは、一九〇六年にロシア(ヨーロッパ人はロシアをしばしばアジアだとみなします)を旅行し、はてしない広野で土に生きる農民の生活にふれてからです。「現世は忍苦だ」―― こう感じた彼は、この旅行以後、飢える人、悩む人、苦行する人、老人、乞食、孤独者などの姿をすすんで題材にとりあげるようになりました。材料も従来使いならされてきたブロンズや石のかわりに、素朴な木彫りを好んで用いたのです。表現はこの彫像に見るように単純で力強く、つねに簡素な着衣をまとわせて人物の内面的なうつくしさ、静けさ、高貴さを形にあらわそうとしています。

 つまりバルラッハの彫像は、テーマも素材も表現も一致して、ヨーロッパの合理的な生きImg_4164 方、考え方に疑問をぶつけているとみていいでしょう。現世の幸福を当然の権利として精一杯に追究していく人間が、はたしてこの彫像のような内面のうつくしさ、安らぎをえられるかどうか、それを鋭く問いかけているのです。私たちはこの彫像を見て、すくなくとも次の二つを銘記する必要がありはしないでしょうか。―― 一つは、今日私たちがよしとする生活態度が決して新しいモラルではなく、古くしかも疑問符さえつけられている生き方であること、もう一つは、本能や欲望を解放し、権威にたよらず自分で自分の内面に光を与えることが、この苦行する人にもまして苦難な道であり、容易ならぬ信念と勇気が必要なのだということです。

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「表現主義の彫刻」より 大原 親

エルンスト・バルラッハ(Ernst Barlach, 1870~1938)が1911年のクリスマスに、カンディンスキーの著書『芸術における精神的なもの』を贈られたとき、それは「性に合わない、本能的に」といったもの、このような基盤に立つものであった。彼は時代の没主題的な抽象化の傾向にくみせず、あくまでも人間を対象に作品をつくり続けた。しかもその人間は裸婦や着飾った婦人ではなく、また甲冑(かっちゅう)に身を固めた英雄でもなかった。彼がつくるのは乞食(こじき)であり農夫であり、寒さに震える少女であり、また強い風に向かって歩く人、ひたむきに歌を歌う人、本を読む人、絶望し復讐(ふくしゅう)する人たちであった。もちろんモーセやキリスト、神話の人物もつくられたが、ともかく彼のつくる彫刻は、自然や社会の猛威にさらされながら、大地に密着して黙々と生きる人たちであった。バルラッハが表現しようとした世界は、「人間の形姿であり、人間がそれを通して、あるいはその中で生き悩み、喜びを感じ、考えている環境」であったのである。

このようなバルラッハの考えは、主題に対する感傷的・文学的関心に傾いて、彫刻としての造形性を軽視していると思われるかもしれない。バルラッハの人間と作品に大きな影響を与えた、1906年のロシア旅行の体験をもとにしてつくられた数多くの農夫(婦)像や乞食像には、確かにこのような欠点の存在を否定することはできない。曲線の躍動や過剰な装飾性などに、ユーゲント・シュティール様式の残滓(ざんし)が見られるのである。しかし、本や石や金属などの本質的構造に従いながら、それを凝縮し集約し結晶化して、その中に人間的真実の象徴であるかたち[「かたち」に点]を彫りだそうとするバルラッハの本来の姿勢が、すでにそこには見られる。またこれらの農夫や乞食像は手足を除いてすっぽりと衣服で包まれているが、これは表皮的・細部的なものを隠すことによって、本質的・本来的なものを顕そうとするバルラッハの基本姿勢に基づくものであった。バルラッハは生涯、近代彫刻の主流であった裸婦像を制作せず、ナウムブルクなどのゴシック像を思わせる着衣像を彫り続けたのであった。

バルラッハは、1910年40歳のときから1938年に他界するまで、メクレンブルク地方のギュストロウという小さな町を離れなかった。この町に関連して、バルラッハは次のように述べている。「ギュストロウにはいくらか古くさいが健康な素朴さがある。田舎の生活というものは、ごく限られた人にではあるが、気高い形を与えるものだ。孤独でひとりぼっちで群れをなさない人には、それだけで何か彫塑的なものがある」と。このようにバルラッハは、大地に密着して黙々と生きる人びとの生活の中に、すなわち土着的なものの中に沈潜して、その底に人間的真実を表現するかたち[「かたち」に点]を見いだそうとしたのであった。

芸術は目に映る表面的・付着的なものを描くのでなく、その奥に隠されたものを描かなければならない。すなわち、世界を見えるように見るのではなく、真実あるように見なければならない、とバルラッハは考えた。しかもこのような人間や事物本来の姿や意味を、祈り、歌い、夢見るなどという、日常的な人の姿において表現しようとしたのである。

そこにバルラッハ彫刻のもつ問題性と独特の魅力があるといわねばならない。《Img_0394復讐者》《布をかぶる女乞食》《突っ立つ農夫》などの鋭い刀法による量塊表現の力強さを示す作品を経て到達した1930年ごろの作品、例えば、《乞食》《座る老婆》《じっと待つ女》などの簡素にして明晰(めいせき)な作品には、もの[「もの」に点]そのものがもつ静謐(せいひつ)な確かさImg_2810 [「確かさ」に点]がある。これらの作品には、バルラッハ自身がいった「天と地の間にある人間的状況の象徴」になっているといえるのである。

(週刊朝日百科62 世界の美術 ドイツ表現主義 1979年朝日新聞社)

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手帳から(1906) エルンスト・バールラハ

  彫塑的なものがもつ思想世界は、物質、すなわち石、金属、木などの固い素材という、非常に堅固な概念と結び付いている。山や木はそれ自身のなかに、取り出しうるような感情世界をもっている。その領域は、きっちりと規定されたもの、明確な輪郭をもつ感情、静かに堂々と空をゆく嵐のようなもの、巨人の傲岸、冷酷、ひたむきに深められた世界感情のもつ世界からの隔絶である。それは、雲、風、光、薄明の助けを少しも必要としない。そこには動揺も色の変化も、震えもおずおずとした希望もない。それは厳然と生きている。山は思索者にもその姿をあらわすが、彫塑的なものにおいて人間の魂は、かかる根源形態の表現を見るのである。究極的なものを掘り出し、確信の崇高さそのものを予言し、絶対的自我を包まずに明らかにするという可能性が、そこにみられるのである。

  彫刻家が与える形式は、石やブロンズの本性から導き出されるものである。物質の概念が直観(シャウエン)の規範(ノルム)となるのである。表現される世界は、鉄や石の尺度で測られ、石や鉄の性質に適っているかいなかが検討される。彫刻家の直観は、雑然とした感覚や偶然の動きのすべてを、またすべての過剰や装飾の華美を、世界の基本構造から嵐のように取り去るのである。

  彫塑的視覚(ブリュック)が喜ばしい直観になるのは容易ではない。それは、かなりの人に近より難いような感を与えるように思われる。彫刻の作品の前で多くの人が感嘆しているのは、彫刻本来の姿にではなく、彫刻以外のものに対してではないかと、私には思われさえするのである。石や鉄の内面的な真実が、すなわち冷たく明晰で快い啓示、心を落ちつける絶対性が、それらの人の心に入っていくのは、芸術作品という手段によってではない。

  彫塑的視覚は、自然に向けられる場合、時間と永遠とを同時に見る。地面のなかに、その表面に生えて本来の姿を見えなくしている繊毛をではなく、大地の骨格構造を見るのである。大気のなかに、偉大な空間の息吹を見るのであって、無数の色や音の多くの渦動を見るのではない。それらが見えるのはずっと後になってからなのだ。カメラが、波の上の泡のように存在している無数のものを見るのとは異なって、この視覚は木や灌木のなかに、地面が生み出したものとしての個々の形を見るのである。

  彫刻家が拳で整理するように、われわれは感情で、生命の像からもったいぶった無内容の塵芥を片づけ、それをわれわれの内面のために創造的に作り変えるのである。世界を見えるように見るのでなく、真実あるように見るのである。不器用だが、しかしいつも骨格や筋肉構造を手探りしているわれわれの指の前にあるように、それを見るのである。現実の鳥の羽は、その構造をわれわれが構造的に知り、その飛翔力の範囲を測る前に、飛び去るかもしれない。鳥が空高くはばたき、立派な形のいきいきとした動きとして大空を彩る時、陽の光の下で多彩に輝くその羽がわれわれを喜ばしてくれるように、彫刻の作品においてわれわれは、表面のやわらかな彫りやにぶく光る大理石の面を、共に楽しむのである。

  劇作家が絶対的な基準を手掛りに測定し、胸にこの基準の意識をもって、作り、高め、なめし、明らかにするように、彫刻家の魂のなかには、彼を駆り立てる必然性の意識が生きている。それが、彼をして、英雄的な雄大な計画、偉大なものにおける喜び、苦痛を克服し自由なものを自明なものに形成する喜びを、意図するように強いるのである。彼が従う法則は、分別くさいこせこせした法則ではなく、それとは異なった法則をもつ野放図な理性の雄大な法則なのである。

  創作への刺激を、モデルや人間の生命にではなく、自然のなかに求める彫刻家を私は知っている。人生が与えるより、もっと高い人格の概念をそこで彼は獲得する。神話を見るのである。嵐の疾駆、波の衝撃と落下、その姓名に見合うような人格を彼は創らねばならないのである。

  これまで人は見える(ゼーエン)という要請で、見る(シャウエン)という要請を圧殺してきた。ヴィジョンにもとづく創造は、神的な芸術で、たんなる能力にもとづく現実の芸術より、より高いより良い意味における芸術である。ヴィジョンを持つことは、感覚的視覚の能力である。この「見るという祭典」は、他のものより高い秘蹟(サクラメント)ではないだろうか。はたしてヴィジョンは非現実的であろうか。それは、身体的な対象性と同様に、「自明性」と「真実」に属している。

  非常に誠実な研究が真実でないと感じられることもあるのと同様に、大胆なヴィジョンが真実と感じられることもあるのだ。

  芸術家が、すべてがいかに神秘的であるかを示しても、それは役に立たない。それは大衆にとっては、すべてが不透明なものに留まらねばならないという意味に、理解されるだけだ。芸術家は、神秘的なものを感覚的に形成して、手近な世界にまでした時に、日常的なものを通して無限なものにまでそれを高めたのである。「見よ、世界全体は雄大である。いたるところで」ということを示したのである。なぜならその時、神秘的な内容が完全に日常的なもののなかに入っているからである。

  神話的な直観の下に理解されるものは、神話学ではなく、神話学にまで導いた過程なのだ。ワグナー的なものではない。創作やロマンティックな解釈や風景の擬人化ではない。神話的なものは、かつて神話を形成せしめるに至った原初的な意味での形成作用そのものだ。あらゆる対象は神話的に見られることができる。別の表現をすれば、そのことは、生々とした感情をもち(人間となって)、人間の魂に語りかけている永遠の相貌を汲み尽くすことである。その感情で大切なのは、そうかもしれないという可能性ではなく、われわれがものになじむことであり、人間相互の間に再び知りあうことなのだ。

  人間の魂はたんなる装飾としても美的なものを必要とする。そこで、人間の魂にとっては別の要請が生ずる。すなわち、神の感情や奇蹟の存在を(光の奇蹟だけが奇蹟ではない)、世界感情にまで高めるという要請である。見ることがはっきりと自然のなかから姿を現わした、あの最初の重要な出来事の思い出は、おだやかに次のよういう「自然のなかに身を投げ入れよ、みたところ、地面のものを何ももたないで、しかし全く地面からなっている生命のある種を地面のなかに植えるように」。

  神話的芸術創造のもう一つのあり方は、構築的なものを見ることである。また、ふくれ、波立ち、形にまでなった激しい行為の感情をもって突進する、大地の形式を作ることである。従ってそれは、無限の試みや実験や悲劇の有限な過程である。はるかな太古から変わらない言葉である。その言葉を人はますます明瞭に把握しようとして、包みうつろうものからそれを解放する。秘密に満ちた人の顔からヴェールを剥ぎとるのだ。

  構築的なもの全体のなかに、真理への努力の表現が存在する。それは現実に知りうるのだ。私が誇張しているとしても、それは決して勝手な想像ではない。それは私の人格が、疑いえない規定性を求めていることの現われなのだ。

  単純化と記念碑化、それが永遠の理念の概念を私に与える。しわや柔毛などの奥の自然の相貌の一片が明らかにされる。それが本来どのようにみえるかを示そうと試みる。その過程は、個人を、人格対人格という同じ偉大さへ高めることなのである。 

 

Ernst Barlach : aus EINEM TASCHENBUCH 1906(大原 親 訳)
「ドイツ表現主義4 表現主義の美術・音楽」(河出書房新社)
資料14『手帳から』(1906)を転載

 

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『エルンスト・バルラッハ』 坂崎乙郎

 バルラッハは若い頃一部の人々から「風俗彫刻家」という批評を受けた。むろん、『死せる日』とか、『哀れな従兄弟』とかの戯曲の作がある彼の、詩人的な素質を諷しての冷評である。
 
 ハンブルグの美術学校を出て、21才でドレスデン=アカデミーのロベルト・ディツに師事した最初から、彼は彫刻の基本として課せられた裸体のデッサンには見向きもせず、もっぱら街頭に立って、道行く人にスケッチの筆を走らせるのが常であった。群衆の中の無名の一人物、貧しさに打ちひしがれた路傍の人、社会から置き去りにされた孤独な落伍者等々の姿が、いずれも惨めなコスチュームのままで彼のスケッチ・ブックを埋めていく。そこには、厳密な造形意欲とはいささか趣を異にする主観性の強い社会批判の傾きさえうかがわれたのである。
 
 こうした初期の傾向を知っている人々にとっては、彼の35才の時の作である「托鉢を手にしたロシアの女乞食」はかなり嫌味な作品であったらしい。主題とはまるでかけ離れて、昂然と肩をそびやかせ、大地にどっかりと腰を据えたこの女乞食の彫刻を見て、ある人は「作者はなぜ一介の女乞食に、これほどの威容を与える必要があったのか」と反撥した。またある人は「作者が大まじめなだけに、思わず失笑せざるを得ないカリカチュアだ」と酷評した。そしてごく少数の人々が、この女乞食の外観に、彼女の内面に溢れる宗教的な確信へのアレゴリーを認めたけれども、そこにやはり、作者バルラッハのあまりにも露骨な作意がありはしないかと疑ったのであった。
 
 こういう批判や誤解に答えてバルラッハはある知人への手紙の中で次のように断言している。「貴方がもし私の感性に不信を抱いているのでしたら、どうぞ、私のロシアでのスケッチと、それをもとにして制作したあの肥った女乞食の彫像とを比較していただきたいと思います。私は自分の眼で見たものに何らの変更をも加えておりません。私はこの眼で、あの女乞食の姿に、品位と滑稽と神々しさとを同時に見たのです」
 
 この言葉は、今日バルラッハ研究者によって極めて高く意義付けられている。事実、1906年になされたこのロシア旅行を境にして、彼は彫刻家としては自己の表現世界を確立し、更に歴史的には、ロダン、マイヨールによって集大成された19世紀の造形思潮に新しい世紀の風を導入したと見做されるのである。ロシア旅行の収穫について、彼は強い言葉で告白する。「ロシアは僕に形づくることを教えてくれた。フォルム?―― いや、フォルムなんてその小っぽけなものじゃない。それは青天の霹靂にも似た認識なのだ。“すべてを汝のものとせよ”とこの認識は僕に命令する。もっとも皮相なものともっとも内奥のもの、湧き立つ怒りと砥ぎ澄まされた敬虔の面貌とを、同時に汝のものとせよと ・・・ 」結局彼がロシア ―― この果てしない曠野と、その土に埋もれて暮す貧しい農夫の見聞から得たのは、戯曲『死せる日』の中で書いている「現世は忍苦だ」という認識だった。肉体を地上につながれながら、眼を天に向け、魂に神を待望する先の女乞食の彫像。―― そこにバルラッハは、自らに制作を義務付けるカテゴリカルな命令者の声をきいたのである。
 

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 この旅行以後、バルラッハの表現世界は極めて単純なテーマに限定される。それは物乞う人であり、さまよう人、飢える人、悩む人、孤独者等の姿であるこれら忍苦者の系列では、神すらももはや例外ではない。「この世に混乱の種を播いた者。神。かれが忍苦者でなかろう筈はない」と彼はいう。彼の作品に受難のキリスト像が多いのはこのためである。先にも触れたように、これらの彫像は例外なく独特の衣に身を包んでいる。それどころか多くの作品では、露出している部分といえば僅かに手先と頭巾の下からのぞいている顔にしか過ぎないものもある。こうした作品について、もし「風俗的」という批評がなされるのなら、それは全く当っていないということができるだろう。彼の作品はなるほど人体の裸形を追究してはいない。しかし、ここで試みにロダンの「考える人」と、バルラッハの「懐疑する人」とを比較して見よう。「考える人」はいうまでもなく徹底して現世的である。彼のたくましい肉体は、ひとすじの筋肉も余さず考えることに向って渾身の力を集めている。おそらく彼は真理とは戦いとらねばならないものであることを知っており、この戦いのためにたとえ皮膚が破れ、鮮血がほとばしることがあっても、彼の肉体は遂に憔悴することを知らないであろう。「考える人」の裸像が、見る者に無限の意志を示唆するのはこのためである。一方、われわれは人間の精神が幾世紀にもわたって格闘を続けてきた別の戦いをも知っている。この戦いにおいては、人間は自らの肉体を包むもっとも粗末な衣以外に何らの武器を持たなかった。肉体すらが、すでに彼の敵であったのだ。彼は我と我が身を苛責することによって、その欲求を禁断することによって、この戦いの勝者になろうと試みた。肉体は精神に反逆し、精神は肉体を鞭打った。しかも、束の間の勝利が一瞬の懐疑によって崩れ去るとき、彼は再びあらゆる重荷を背負いなおして、虚無の深淵を最初の一歩から登っていかねばならなかったのである。「懐疑する人」―― 彼はおそらく反問するだろう。なぜ彼がこれ以上赤裸々な裸体でなくてはいけないのかと。
 
 もちろん、この比較にはあまりに局部的・表現内容的なきらいがある。彼の作品を表現形式の点から眺めるとき、そこに明瞭に指摘できるのはユーゲント・シュティール(若い様式)思潮からの影響であろう。印象主義アカデミズムに叛旗をひるがえす原始芸術のエッセンスを包含し、象徴性と装飾性に重きをおくこの思潮は、絵画ではイギリスのビアズレー、オーストリアではグスタフ・クリムトなどを始祖とするが、この二人の独特の線の表現に似たフォルムの処理が、バルラッハのたとえば「ロシアの女乞食」(1907年)などには明らかに感取できる。また、たとえば「眠る男女」(1923年)のレリーフは、クリムトの門に学んだココシュカの「風の花嫁」に極めて酷似した表現形式が認められよう。流動する感情を線で表現する巧みな装飾性(ゴーギャンからムンクを経てバルラッハに及ぶ版画でのこの線の系譜は、本誌4月号で既に述べた)、ジェスチァーを象徴するデフォルマシオンは、バルラッハの場合いかにも着衣の利用を捨てがたいものにしたと思われるのである。「杖を持つ老婆」(1913年)、「復讐者」(1914年)はもとより、重厚な「孤独者」の彫像にすらこのことが云える。

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 ひるがえってロダンを考えてみよう。今世紀の彫刻は、いうまでもなくロダンによって華々しくバトンを渡された。しかし、ロダンが開拓者であると共に一個の完成者として前世紀末に君臨したために、彼に続く世代は、あたかも、「ミケランジェロの死後、彫刻は過ぎ去った時代との対話に終始した」という同じ嘆きを繰り返すかに思われたのである。事実、常に仕事する「手」の造形から、「鼻かけの男」「腕のない彫像」など、さらには「カレーの市民」、「地獄の門」の群像にいたるまで、ロダンが追求してやまなかったのは、ボードレールのいわゆる「酷薄な事実性」、いわば物そのものの厳正なフォルムにあった。つまり、ロダンの休みなく働く手によって捉えられた時、物体はかりそめの生命を宿す束の間の存在であることをやめ、宇宙空間のいかなる破壊作用にも堪えて自らを全うしようとする不滅に存在する意味を賦与されたのである。この不滅の意志こそおそらく19世紀的な人間の確信であった。そこでは美醜に先んじて常に真実が、誤謬も無駄もないむき出しの真実が問題だったのである。
 
 ロダンに踵を接するマイヨールは、この19世紀的な確信にいささかの反証を試みている。彼はロダンに敬服してはいたが、決して彼を愛してはいなかった。「フォルムとは、理念を表現する一手段に過ぎない」とマイヨールはいう。これは、あるいはロダンの「真実にのみ美がある」という信念に対する一つのアンチ・テーゼになったのではなかったろうか。けれども、この両者の間には本質的な対立はない。マイヨールの作品「夜」が誕生したとき、ロダンはあらゆる批評に先んじてこの作品を認めた一人だった。「人間の身体が一個の建造物であることを、われわれはとかく忘れがちである。しかも、それが生命ある建造物であるということを」とロダンは作品「夜」について語っている。
 
 有力な反証はむしろユーゲント・シュティールとそれに続く世代にあった。ベルギーのミンネ、ドイツのレーンブリュック、コールヴィッツ、マルクスなど主として中北欧の表現主義的な空気の中で育った芸術家がそれである。これらの芸術家は、物そのものに対する懐疑と存在への不安から出発する。たとえばコールヴィッツの「ピエタ」、レーンブリュックの「祈る女」を例にあげてみよう。「ピエタ」では宗教的な真実性は初めから作者の考慮の外にある。この小さなブロンズで彼女は年老いた女の姿をあらわそうと思ったのだ。一人の母親がひざまづき、死んだ息子を抱いているといった・・・・。「たぶんこのブロンズはピエタといったようなものになるだろう。だが、それはもはや嘆きではなく、沈思する人の姿になって・・・・」―― 彼女は制作中に日誌にこう書き記している。「祈る女」は顔をのけぞらせ、両手で布を引裂いている女の半身像である。この彫像に寄せた作者の祈りの言葉に耳を傾けてみよう。「深夜、私は両手を暗い夜へ差しのべる。暗黒と虚無の彼方に何かを掴もうと思うのだ。私の両手は空しく虚空を掴み、まさぐり、求めていく。手にすることができるのは、ただ暗黒と虚無だけなのだ・・・・」と、存在に対する確信を奪われた人間のこうした不安と忍苦、それがバルラッハを制作に駆り立てた誘因であった。
 
 もちろん、ユーゲント・シュティールといい表現主義といっても、それは厳密には彫刻の概念ではない。そして、バルラッハを含めて前記五人の彫刻家の間に、それほど緊密な様式の相互関係も存在しないのである。むしろ、レーンブリュックとバルラッハとは、あらゆる意味で対極をなすともいえる。レーンブリュックが西部ドイツ・ドゥイスブルグの産であれば、バルラッハは北ドイツ・ホルスタインの医者の息子(1870年生)である。前者がパリおよびイタリヤで様式を磨いたのに対し、後者はアカデミー・ジュリアンでは何らの成果もなく、フローレンスは「無関心に往復した」に過ぎなかった。さらに彫刻では前者が石、後者が木、版画では銅版に対する木版と彼我の間に対照的な素材への愛好があるのは注目すべき点である。この点、彼らはすべて、同時代の表現主義の画家たちと同様に一人一派の追究者であり、強いていえば、バルラッハは同じく北ドイツを故郷とするノルデと極めて濃い血縁にあるといえるであろう。「拷問台の人間」(1919年)、「縛られた魔女」(1926年)などに見る激しい表現力と人間性の本質に迫る追究、あるいは「踊る老人」(1920年)、「笑う老人」(1937年)などの巨人の洪笑はまさに北欧芸術の伝統である。

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 最後に、現在ケルンのアントニウス教会の会堂を飾る、「飛翔する天使」と、1933年に制作された「静座する老人」を一瞥しておこう。両手を胸の上に組み合わせ、空間を飛翔する形で会堂に吊り下げられたこの特異な天使像が、レーンブリュックの「ひざまづく人」と並んで「ドイツ的な存在意識が生んだ現代彫刻の傑作」(レオポルト・ツァーン)であるのは論をまたないが、同時に、静座する老人像の中に、バルラッハが生涯を賭けた諦観が潜んでいることも忘れてはならないだろう。「学ぶことなくすべてを会得した人間像」―― 彼はこんな表現でこの老人像を語っている。あたかもこの年に始まったナチスの迫害に堪えながらバルラッハは1938年、世を去った。68才であった。

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(「みずえ」No.665 1960年9月号) 
 
 

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