ドイツ旅行記5

ドイツ旅行記2017①~7/22-23出国&エバースドーフ

[7/22] 出国

3年半ぶりのドイツ旅行はハラハラのスタートとなった。フランクフルト空港到着直前に激しい雷雨のため空港業務が一時ストップしていたとかで、ゲートインの手配が整わず、いつぞやも経験したが、タラップを降りて二両の空港バスでのお出迎えとなった。が、乗り継ぐ鉄道の駅に近いターミナル2に着けてくれたし、鉄道駅は地階なので、上階のゲートから入るよりは移動距離も短くなった。事前にネットで脅かされていた入国時の厳しい手荷物検査も無し!拍子抜けするほど簡単に入れてくれた(出国時の方が厳しかった。関空然り)。雨上がりのせいか少し蒸し暑いが、それでも午後2時半の気温は25℃ほど。大阪とは比較にならない。

今日の宿泊地のエアフルトまではここから2時間半。空路に続いてなので、高速のICE(超特急)が有難い。料金は7,500円ほどかかったが、新幹線を思えば安いものだ。切符を買うのに手間取ったけれど、何とか予定通り乗れた。懐かしいドイツの田園風景。―― 馬や牛や羊の放牧、ドラム缶型にくるんだ藁、のんびり回る風力発電の風車、そして落書き落書き…。

E_2エアフルトは、石畳の通りが駅前から延びるこじんまりとしたきれいな街。信号機のアンぺルマンでわかるとおり、旧東ドイツだ(アンぺルマンがあるのは旧東ドイツだけ)。見どころの旧市街は少し先らしい。土曜日なので店じまいは早いが、何とかサンドイッチとサラダを買えた。ROSSMANN(ドイツのドラッグストア・チェーン)有難や、晩酌ワインも買えました。初日のホテルは駅E__3までの近さで選んだ。B&Bと銘打っていたから期待はしていなかったけれど、部屋は全然普通だった。ただ、全館禁煙なのに、なぜかバスルームだけタバコ臭い。部屋が臭わないから良しとしよう。シャワーをして8時頃やっと夕食。でも外はまだ煌々と明るい。案の定ドタバタで始まったが、明日からは少しずつ勘が取り戻せればと願う。

 

[7/23] エバースドーフへ

どんよりと曇り。これまでほぼ24時間徹夜だったので、夕べは9時過ぎにはベッドに入った。切れ切れに4時間位しか眠れなかったけれど(脳はまだ日本時間のまま)、体は8時間休めたので、まずまず元気だ。今日は今回の旅行の一番の目的、エバースドーフ(Ebersdorf)のロイス家墓碑を見に行く。昨日エアフルトまで頑張って移動したのもこのためだ。フランクフルトから動き始めていたら、どこかでもう一泊しないと次のマグデブルクへ今日中に行き着けなかった。つまり、そんな場所まで出かけていくということです。

日曜日はホテルの朝食レストランが開くのが遅く、電車に間に合わないため、キャンセルして駅で簡単な朝食を摂る。このホテルの朝食は別払いなので、むしろ安く済ませられた。エバースドーフ村の最寄駅バート・ローベンシュタインまでは、割引のあるオンライン・チケットを購入していたのだが、直前に確認すると該当する電車が表示されないのに気づき、心配だったので駅の鉄道インフォメーションでチケットを見せて聞いてみた。やはり工事で運休になったとのこと。幸い別の電車に振り替えてくれて、本来ならかかる追加料金も無しで済んだ。

E__4バート・ローベンシュタインまで行く電車は、2両編成のエアフルト・バーン(EB)というローカル線だ。それを二回乗り継いで2時間半、駅からは更にバスに乗る。乗客は少なかったけれど、乗り換える毎に検札はしっかり来たので、エアフルト駅で振替電車を記載した書面を発行してもらっていたのが正解だった。検札係は皆イカツE__5いおばさんばかり。言い訳せずに済むに越したことはない(別に後ろめたいことはしていないが、言葉の壁が…)。空はいよいよ雲行き怪しく、イヤな風も吹いている。これは降られるかな。

EBは、途中バスのように“HALT WUNSCH(停まれ)”ボタンを押して停まってもらう駅がいくつもある。そういう駅ではボタンを押さないと停まらず通過してしまう。乗降客の少ない小さな駅がたくさんあるのだ。周囲の風景は走れば走るほどさびれていく。そして着いたバート・ローベンシュEd_bl タインも廃屋のようにボロボロで何もない小さな駅だった。新設されたように見える駅前のバス乗り場の方がよほど立派だ。こんな田舎町でも都会と変わらず大きなバスが往来している。エバースドーフ村までは10分足らずだったけれど、大通りから細い細い小道に入って田園を走り、可愛らしい集落を抜けた先にやっと見えてくる。

Edロイス・エバースドーフは17世紀にそれまでのロイス・ローベンシュタインが分割されてできた伯爵領で、ロイス伯爵の邸宅だったお城も残っている。墓碑のある公園は広大で、中には小学校も家族連れで憩える大きな池もある。表示板を頼りに歩いていてもほとんど人に会わなかったが、心細くなると向こうから散歩するおじいさんがやって来たりして、少しだけ元気づけられながら薄暗い曇天の小道を進んでいく。そして森の切れた先に、あった!ロイス家墓碑、バルラッハの作品だ。十字架のモニュメントの曲線を描いた両側に背をもたせかけるように座る、ベールに身を包んだ二人の女性像。一人は手を膝の上で重ねて遠くを仰ぎ、もう一人は衣服に隠れた両手を顎まで引き上げて目を閉じている。離れてみると、モニュメントと一体になったように見える。デュッセルドルフのリンデマン墓碑(農婦像)と同じ気高さと敬虔さに包まれた、ため息が出るほど美しい鎮魂の像だ。写真でこの像を初めて見た時、すぐに訪ねたくなって所在地を地図で確認したところ、とても行き着けそうに思えなかったので一旦は諦めたのだが、どうしても思いを捨てきれず、今回が最初で最後と行程に入れたのだった。ここに来られたことに心から感謝!天気は持ち直し、聞こえるのは雨上がりの少し強い風が木々を揺らす音だけ。この静けさこそ、バルラッハの像の居場所だ。もう来ることはないだろうから、ベンチに座って帰りのバスが来るまでの2時間ほどを共にいた。

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旅の行程が進み出すと、訪ねた場所や現地での心境の変化などで当初の組立てが変わっていくことは毎回だ。今回も、メインのハンブルクやギュストロウから行けるいくつかの都市を行程に入れてきたのだけれど、こうしてロイス墓碑に出会えた今、これでもう充分かな、あとはゆっくりバルラッハの彫刻たちのいる場所で過ごそうかなどと感じている。短い時間で慌しくあちこちまわって消耗するよりも、その方がいいかもしれない。墓碑の彫刻が静かな息吹きでそう促してくれたような心の変化だった。

バス停に戻ったら、ほどなく雨がポツポツ。屋根があって助かった。さあ、このあとマグデブルクへ移動だ(乗換二回、4時間半!)。

 

ドイツ旅行記2017②   

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ドイツ旅行記2017②~7/24マグデブルク

M0マグデブルクは薄曇り。今日は雨になるそうだが、そこは夏、日が陰ると涼しくても太陽が出ると汗ばむほどで、シャツの二日使いまわし計画は早くも破綻している。洗濯洗剤持って来てよかった。乾燥しているのか室内でも意外と早く乾いてくれる。何とかこれで凌いでいこう。

今朝はドイツへ来て初めてのまともな朝食。いつもながらドイツのビュフェ朝食は充実している。ハムやチーズの種類の多さにシリアル、卵料理、スモークサーモンとくれば文句のつけようがない。コーヒーは珍しく一杯ずつのドリップ式。野菜はトマト、キュウリ、ピーマンとシンプルだ(朝は野菜よりフルーツなのかな)。それにしてもドイツのパンはやっぱりおいしいなあ。

M0_2今日の目的はただ一つ、マグデブルク大聖堂(Magdeburger Dom)のバルラッハ記念碑だ。ホテルから歩いて行けるので、昨日よりは気分的に遥かに余裕だ。駅のコインロッカーにスーツケースを預けて身軽になり、10分ほどぶらぶら歩いて大聖堂へ。前来た時は大規模な改修工事中で、外壁には足場が組まれ、床には大穴があいていた。あれから7年も経っているのに今も改修は続いているようで、前方の祭壇で作業が行われていた。が、バルラッハの記念碑の前にあいていた穴は塞がれ、今回はじっくりと見ることができた。

12世紀にまで遡る見事な装飾を施した黒や白の彫像群(そのほとんどが聖書の一場面を描いたもの)の中で、軍服姿の茶色いバルラッハの記念碑は異彩を放っている。6人の人物は、立っている兵士とその前に座る人物の二体ずつを一本の木から彫り上げて組み合わせたものだ。年月のせいか、大きなひび割れが何本も走っているが、ぐっと近寄ってその表情を見上げる。ここももうしばらくは来ることはないだろうと思いつつ、カメラに収める。大聖堂の正午の礼拝時間を挟んでたっぷり2時間以上、その後ようやく駅に戻り、駅前のモールで夕食用のパンを買い込む(次のギュストロウ着が遅くなるのと、今夜の宿がマルクトからやや離れているため)。これからいよいよ“バルラッハの町(Barlachstadt)”ギュストロウへ向かう。

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まず、Sバーンでヴィッテンベルゲまで18駅(1時間15分)、そのあとオイロシティ(EC)でビュッヒェンまで45分。初日のエアフルト行きのICEもそうだったけれど、特急や今日のオイロシティなど長距離の電車は、指定席の設定があるため席がとても取りづらい。ICEは座った席が予約席だったらしく、途中で一度立った。次の駅ですいたのを見計らってまた座れたが、今日のECはポーランドから来ているハンブルク行きで満員だった。ドイツの人は4人掛けのボックス席を一人で占領するなんて平気で、聞けば椅子に置いた荷物をどけてくれるのかもしれないけれど(つまり無頓着。逆に座れなきゃそれもOKで、ずっと立ってたりする)、やっぱり聞きづらいし、二駅目で降りるので、出口前に立っていることにした。
時速200キロで轟音、時にはギーギーと悲鳴のような音まであげてぶっ飛ばすECは、日本のお上品な新幹線と違ってヨーロッパ大陸を真っ二つに切り裂いていく勢いだ。ビュッヒェンからはRE(急行)で、これも座席予約が入っている席には液晶で表示が出ているが、所々表示のない席もあって座ることができた(ここは是非とも座らないと。次のビュッツォウまでは12駅、1時間半もかかるのだから)。地方を点々とまわったせいで、これまで一日の大半を移動時間に使っている。疲れるし緊張の連続だが、覚悟の上で立てた計画だ。このギュストロウ行きをクリアすれば、やっと落ち着ける。もう一息!

さて、ビュッツォウで最後の乗継ぎをして、ギュストロウまでの10分間に、外は突然雷雨のどしゃ降りになってしまった。これまで何とか降られずに来られたのに。スーツケースにカバー用のビニールをかけ、お粗末な傘をさしてザーザー降りの中を地図を頼りに宿へと向かう。迷うことはなかったけれど、今回はどうも宿で苦労するなあ(昨日のマグデブルクでは駅前の道路が大工事中で、ホテルまでの道が全くわからず、親切な人に教えていただいたはいいが、駅からかなり離れていることも判明)。

ギュストロウの宿はペンジオン(個人経営の民宿のようなもの)で、出て来たご主人も普通のおじさん。でも気さくでいい人らしい。ここで三泊お世話になる。明日は旧市街を満喫だ。

ドイツ旅行記2017③   

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ドイツ旅行記2017③~7/25ギュストロウ(1)

G_3朝から雨。天候のせいか肌寒い。夜中もずっと降っていた。泊まっているベンジオンは、まだ新しいのかしゃれた内装だ。ドアを開けると一畳ほどの間口があり、備付けのクローゼットと反対側にはバスルームへの入口。奥にもう一つドアがあって、その中が部屋、日本のワンルーム・マンションのような造りだ。中は広々としていて中庭にも出られるようになっている。

G_k2朝食後、まず駅へ行き明日のアトリエハウス行きのバス時刻を確認。それから旧市街へ入るが、雨が結構強いので散策気分には至らず、まっすぐゲルトルード礼拝堂(Gertruden Kapelle バルラッハ博物館)に向かった。受付でアトリエハウスとの共通券を購入し、さっそく屋外の“大地の母”と再会する。そして礼拝堂の中へ。変わらぬ空気、変わらぬ静けさ。丁寧に写真を撮り、ゆっくり一体一体と向かい合う。が、元礼拝堂はレンガ造りで天井が高く、おまけに今日の肌寒さで1時間もいると体が冷えてきたため、名残は尽きないが出ることにする。そして一旦宿に帰ってしばらく休息した。その間雨はピークに。でも、もうギュストロウまで来ているのだし、今日がだめなら明日、何を焦るでもなかった。

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結局その後小降りになったので、ギュストロウ大聖堂(Güstrower Dom)へ出かけ、“天使”に会うことができた。たくさんの人が訪れていて、高齢者の団体も来た。“天使”は記憶の中の姿よりずっと大きかった。明日ももう一度来ようかな。

 

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残念だったのは、書店Opitzが違う店になっていたこと。仕方がないので、近くの書店でギュストロウの地図とガイドブックを買う。買物は最後のハンブルクと決めていたけれど、これだけはハンブルクでは手に入らないだろう。雨はとうとう一日止まなかった。気温も低く、ずっと外にいるとやはり疲れてしまうものだ。部屋で夕食中の午後6時、急に恐ろしい眠気に襲われて、ベッドに横になったら、そのままベッドに体が沈んでいくように眠ってしまった。気づいたら夜中の2時、何と8時間も寝ていた!この4日間たまった疲れが、今日の雨の散策で一気にピークを越えたらしかった。が、これで一区切りついた感じ。朝からは新たな気持ちで後半を始めよう。

 

ドイツ旅行記2017④   

 

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ドイツ旅行記2017④~7/26ギュストロウ(2)

夜中じゅうずっと風が吹いていて、雨も止む気配がなかったが、朝になったら奇跡的(?)に上がっていた。今朝は朝食時間を少し遅らせてもらい、遅めに宿を出て再び大聖堂へ向かった。傘をささずに済むってこんなに気楽なものか!睡眠も充分とったし、今日は体の動きが違うぞ。

空が少し明るいだけで、暗い北翼の“天使”も昨日とは別人のような写真写りだ。今日は小学生のグループが来ていて、係の人に説明を受けていた。その後、11:45のバスに乗るため駅へ。やって来たklein Bus(小型バス)は、前回のような乗合自動車みたいなのではなく、立派な普通のバスだった。

G_a2_2ゲルトレード礼拝堂とアトリエハウス(Atelierhaus)の共通券(1ユーロ割引)は、当日中に二つとも回らなくてよいので助かる。本館の方は新しいバルラッハの写真集が出版されたのを記念した展示が中心で、彫刻もあらかた取り払われていた。私は「バルラッハの彫刻の写真」ではなく「バルラッハの彫刻」に会いたくてここまで来たので、足早に隣のアトリエへ。そこでついにまた彫刻たちと会うことができた!まず撮影、そしてベンチに座ってこの空間を全身で味わう。バルラッハが実際に仕事をしていた姿を感じることができるのは、彼のアトリエであったここだけだから。限られた時間を彫刻たちと、そしてのみを手に固い木に挑むバルラッハの残像と共有した。

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外は時折太陽が顔をのぞかせるまでになった。明朝ハンブルクに立つので、午後は旧市街を歩くことにする。ドイツの古い町に多い石畳の道は全く歩きづらい。車の車体にも悪そうだし、ドイツ人が愛してやまない自転車なんてたまらないだろう。前来た時もあちこちの道が補修中で通行できなくなっていたし、今回も大分きれいに整備はされていたが、やはり工事で狭くなっている道は多かった。ボロボロのままフェンスで囲まれて放っておかれている建物も多い(日本ならさっさと取り壊して更地にするところだろう)。

マルクトから一本はずれた通りをのんびり行くと、やがてギュストロウ城が見えてきた。まだ中に入ったことはないけれど、外から眺めるだけでもほれぼれする美しさだ。落ち着いた風格といい、上品で格調ある佇まいといい、周囲の緑や芝、白鳥や黒鳥が泳ぐ池といい、どこから見ても非の打ちどころがない。もっともっと海外にも誇っていい宝だと思う。

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4回目のギュストロウ。バルラッハという人物を通じて思いがけなくも何度も足を運ぶこととなったドイツの古い町。ハンブルクみたいに華やかな何でも揃うショッピングモールはないけれど、パン屋やソーセージ屋や洋品店やカフェが一つひとつ店を構える昔ながらの町づくりが今も続いている。私など気後れして入ることもできない店が多かったが、ここではそんな店舗の有り方が今も普通なのだ。こんな町がドイツにはたくさんあるのだろう。髪の毛を三色に染めピアスをそこらじゅうに付けた若者や、肌という肌にタトゥーを入れた男女もいっぱいいるのだけれど、そんな彼らが“伝統”を破ることも変えることもなく、この町で生活し続けているのが面白い。彼らにとっては、きっとそれも普通で当たり前のことなのだ。新しいものにぱっと飛びついては古いものなど最早存在しないかのように捨て去っていく我が国とは、歴史や文化や文明といったものに対する根源的な意識が違うのだろう。

ドイツ旅行記2017⑤   

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ドイツ旅行記2017⑤~7/27ハンブルク(1)

やっと晴れた。でもギュストロウとはお別れ。

朝食時、チェックアウト時間について確認したら、「もう済んでいるからカギを置いて帰ってくれてOKです」だって。サインも「ありがとう、さよなら」も無し?慌てて用意してきたおみやげを手渡す。ペンジオンは個人経営だから何かお礼を持っていくといいと読んだことがあって、実行している。以前は和タオルとマコロン、今回はマスキングテープとキャラメモと駄菓子を色々。ご主人に小さいお子さんがいるそうなので、ちょうどよかった。喜んでもらえて、お返しに売り物の灯台の置物を下さった。お世話になりました。

H_2さあ、そのあとだ。いったい何という日になってしまったことだろう。ギュストロウを出たREでは、座れたものの小学生がいっぱいで、やかましい上に熱気で蒸し暑く、乗換えのバート・クライネンでは狭いホームにたくさんの人が待っていて落ち着かない。そして案の定、ハンブルク行きのIC(特急)は座れず、1時間立ちん坊。昼過ぎハンブルクに着くも、鉄道の一日乗車券の買い方にまたも手間取り焦る。その後、まずホテルに荷物を預けようと乗った電車がどんどんまた田園風景へと戻っていく。20分後降りたのは郊外の小さな駅。ここで道に迷ってしまい、やっとの思いでホテルに辿り着く。ほっとしたのも束の間、バルラッハ・ハウス(Ernst Barlach Haus)へSバーンで向かったところ、途中のアルトナ駅が工事のため折返し運転になっている(つまり、バルラッハ・ハウスのある駅まで行かない)ことがわかって愕然!アルトナからバスの振替をしてくれていることを鉄道インフォメーションで教えてもらったが、バス乗り場を探してもたもたするうち一本乗り遅れてしまった。次のバスは20分後、今の時刻は3時、バスの所要時間は1520分、4時になってしまう。―― 結局この日は諦めて、翌日仕切り直して行くことに決めた。あ~あ…

が、よく考えてみれば、ホテルの位置もバルラッハ・ハウスまでの電車がないことも、初日にわかってよかったのだ。これがもし、例えば何も知らないままバルラッハ・ハウスへ翌日出かけていたら、遥かに悲惨な滞在になっていたことだろう。着いた日というのは見えなかったことが色々見えてくるので大変。でもそれがわかれば、対処の仕方もわかってくる。

H1ところで、ハンブルクは実は書店が多い。無類の本好きとしては、それを知って行かない手はない。ネットでリサーチし、無理のない範囲でまわろうと今回計画に入れてきた(それでも10軒ほどはある)。そこで、アルトナ駅から引き返すついでにその中の1軒を早々と訪ね、目抜通りを歩いて市庁舎前へ向かうことにした。やがて、市庁舎前に建つバルラッハの戦没者慰霊碑と再会、ようやくハンブルクへ来たと実感する。やっぱり自分のハンブルクはまずここからなのだなあ。これで気持ちも落ち着いて、明日訪ねようと思っていた3軒ほどの書店をさっさとまわってしまった。ハンブルクへ行くと必ず立ち寄る Dr.Götz (地図と旅行書の専門店)では、ハンブルクの市街地図と、いつか訪ねてみたいと思っているフランクフルト・アン・デア・オーデルの地図を買った(これは日本では絶対置いていない。大体フランクフルトが二つあるなんてほとんどの人が知らない)。

H2最寄駅からホテルまでは、木立の生い茂る小道。そこに何と野ウサギが遊んでいた(ここハンブルクですよ、一応)。すぐ裏にスーパーマーケット、横手には交通量の多い道路が走っているというのに。ホテルは、今回の旅行でいちばん立派なホテルらしいホテルだった。けれど部屋はいちばん狭く、今流行りのちょっと高級なカプセルホテルみたい。シャワーもよくあるボックス式ではなく、トイレとの敷居にカーテンが吊るしてあるだけ。床が排水口に向かってほんの少し傾斜していて、お湯が流れていきやすくしてあった。5Fだが外がすぐ道路と線路なので、窓を開けては寝られないな。でも別に不満はない。ハンブルクの様子はもうわかったし、明日は楽しもう。

ドイツ旅行記2017⑥   

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ドイツ旅行記2017⑥~7/28ハンブルク(2)

晴れ間もあったが基本は曇り空。朝食はとてもリッチ。コンチネンタルの朝食メニュー一揃えに加え、卵料理はシェフがお客の注文で焼きたてを出していた。さすが海の街ハンブルク、魚のオーブン焼きやマリネもあって美味しかった。

H_ebh 昨日の経験を踏まえ、アルトナからバルラッハ・ハウスのあるクライン・フロットベック駅まで初めてバスで向かう。通常なら3ユーロ20セントかかる運賃も、振替輸送なので鉄道チケットを示せば無料だ。これまでバルラッハ・ハウスはSバーン一本で行きやすいという頭だったので、バスと聞いた当初はショックだったけれど、ギュストロウのアトリエハウスだって駅からバスだ。そういうものと意識を変えてしまえばどうということはない。

バルラッハ・ハウスへは開館時間(11:00AM)直前に着いた。私がこの日最初の来館者だ。今回も別の芸術家の回顧展を併設していた。まずはひとまわりして彫刻たちの姿を色々な角度から撮影した。いつか体力的にも来ることのできなくなる日は訪れる。その時のために、できるだけ多くの写真を手元に残しておきたい。今日は一日ここにいたっていいのだから。

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H_ebh12_3耳を澄ます人たちのフリーズ”の中の“巡礼者”。穏やかに微笑む像という印象だったけれど、正面に近い角度から撮ると、全く異なる厳しい表情が見えてくるのに気づいた。慣れ親しんだ故郷を独り出て、神の恩寵のみを求め、町から町へ、国から国へと旅ゆく人。それは肉体的に過酷な道のりであると同時に、精神的にもあらゆるものを脱ぎ捨てていくことを余儀なくされる厳しい旅路だろう。「巡礼」という名前を見た時からただの柔和な人ではないと思っていたが、やはり秘密はあったのだ。

ガラス天井の中央スペースはブロンズの展示室。正午の日射しが明るすぎてうまく撮れない。ところがそこへ突如強い通り雨が来た。おかげで写真にはちょうどよい陰りとなり、撮り直すことができた。

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H_ebh14今日初めて見たのが“泣く老女”の木彫りだ。体をくの字型にかがめて口元を覆う老女の
像は、アトリエハウスにも漆喰製のモデルが展示されていたけれど、ここに木彫りがあるとは知らなかった。貴重な一点ものをまた一つ見ることができて感激だ。

また、映像コーナーで流れているバルラッハの軌跡を辿るビデオに、バルラッハの肉声が収録されているのを発見!また夢中でデジカメに収めてしまった。音声はよくないけれど、こちらです。「eb_voice.THM.AVI」をダウンロード

こうして2時間以上を過ごして中央駅へ戻ってきたところで、またポツポツ来る。ドイツはこのところ全土で天候が不安定らしく、各地で浸水被害も出ているのだそうだ。

午後は中央駅の駅裏通りの散策。事前に調べておいた雑貨店数軒を訪ねてみたがはずれ。書店めぐりも想像していたようには進まず、これは失敗だったかなと思い始めた矢先、南口にほど近い一軒の古本屋(Buchhandlung Antiquariat Bernhardt)で掘出し物を見つけた。バルラッハの最初の理解者の美術商パウル・カッシーラー夫人だった舞台俳優のティラ・ドゥリューの自伝だ。バルラッハは彼女の胸像を製作しており、彼女の方では“耳を澄ます人たちのフリーズ”に資金を出すなど、両者の関わりは深い。その土地でしか手に入らない本に出会う興奮を、何軒目かでやっとドイツでも味わえた。
ここは調べた書店の中でもちょっと場所が離れていたので行こうか省こうか迷っていたのだが、たまたま近くまで来たし覗いてみることにしたのだった。その店構えはこれぞ古本屋!ドアを開けるやいなや、天井までうず高く本がぎっしり。通路は確保されているけれど視界はほとんど無く、どこかでくぐもった会話が聞こえるものの姿は見えず、崩れたら命が危ないので慎重にかき分けていくと、突然目の前に中年のちょっとくたびれImg_2409たお兄さん感のある店主さんが現れた。「何かお探しですか?」と愛想よく声をかけてくれたので、「ドイツ映画の本を」と答えると、「はいはい、こちらです」と案内してくれた。見れば結構奥行きがあり、そこここに客がいた(本しか見えなかったのでわからなかったのだった)。
そう、こういう所に来たかったのだ、私は。昨日まわった数軒は、高級ブティックやカフェの立ち並ぶアルスター湖周辺にあり、古書といってもシミひとつない物やヴィンテージものしか置いていなかった。でもここはまさに本当の“古本”屋。私が買った本もカバーが破けていたので、7ユーロ50セントと書かれていたのを5ユーロにまけてくれた。次来る(来られたら)楽しみができたなあ。お気に入りの店ができると、その街との関係が一歩前進する。拙いドイツ語の会話も、この日今回でいちばん弾んだような気がした。

ドイツ旅行記2017⑦   

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ドイツ旅行記2017⑦~7/29-30帰国まで

[7/29] ハンブルク

雨時々曇り(のち一時晴れ)。今日が実質最後の日だが、朝から雨。昨日のような激しい通り雨もあった。

まず一軒残っていた書店 Lüders へまっすぐ出かける。中央駅からも市庁舎広場Img_4365_2からもUバーン(地下鉄)に乗らないと行けない所、でも書店めぐりをしようと思うきっかけを作ってくれた書店だったので、ぜひ行っておきたかった。場所はUバーンのオスターシュトラッセ駅を上がった正面にあった。店構えからして、長年この地に根づいてきた書店だとわかる。奥行きが広く、入口近くは新刊本、奥が古書となっている。高い書棚には梯子がかけてある。1930年代ぐらいを描いた映画などに登場するクラシックな店の雰囲気がそのままだ。もちろん日本語の本を買うようなわけにはいかないし、私程度の語学力では手に負えないものばかりだけれど、例えばトーマス・マンなどの古典にしても、初版本の装丁のものが、ごく普通に何冊も並んでいる。ここではE・T・A・ホフマンの「ちび助ツァッヒェス」を入手(版画のカットが素敵だったので買ってしまった。6ユーロ)。

それから、まだちっともゆっくり散策できていなかった街なかを歩くため、中央駅に戻る。おみやげ目当てに表通りを歩いて店を覗いたりもしてみたが、ガイドブックに載っていた物でも自分が興味がないので選べず、入っては出るの繰返し。ちょっと焦りが出始めたところで、オイロパ・パサージュ(ショッピング・モール)の Thalia に行く。これが当たりだった。Thalia はもちろんドイツ最大の書店チェーンなのだけれど、雑貨もたくさん置いている。ハンブルクでは、この店自体が名だたるブランド・ショップがいくつも軒を連ねる駅前の目抜通りにハンパない風格でどしんと腰を据えていて、売っている雑貨も(ハンブルクみやげと称する物ですら)町のおみやげ屋みたいな安っぽい品は皆無なのだ。かといって、決して高級すぎて手が出ないわけでもない。ハンブルクでおみやげ探しに困ったら、一度 Thalia を訪ねてみることをお勧めしたい。

H_portさて、用事も済んだので、せっかくハンブルクへ来たのだからと港へ行ってみた。かなりの賑わいだ。日本語も聞こえてきた。あのビルが林立するおしゃれな区域からわずか二駅ほどで、清々しい海の男の町が姿を現わす。これがハンザ都市ハンブルクの魅力だなあ。

そこから歩いて聖ミヒャエル教会の方へ。土曜の午後なので、礼拝があるのかたくさんの人、そして鐘楼の鐘が鳴り渡っていた。前回閉まっていてメモに残しておいた古書店が、今日は開いていた。1948年創業というH_mAntiquariat Reinholt Pabel 。教会の目の前にあり、年配のご夫婦(と、どでかいバーニーズ・マウンテン・ドッグの看板犬。寝そべっているだけだったけど)がこつこつと真面目に一途にやってこられた趣のある店だ。ここでも一冊ホフマン関係の本を買ったほか、本専用のトートバッグ(Büchertascheを買った。「本を読もう、ここへ君の“今日の一冊”を入れて出かけよう」と読書を促すメッセージ・バッグだ。よそでも売っていたけれど、デザインがいちばん気に入った(下の写真)。こういう物を見ると、「電子書籍がなんぼのもんじゃ」という書店業界の心意気を感じるなあ。

H_tasch1_2バルラッハを見るために幾度も訪れているドイツだ。でも今回のハンブルクは、書店めぐりという別の切り口で計画したのが意外に楽しくて、充実した時間を過ごせた。新刊本はともかく、古本はお国の違いはあっても、どこも店主の思い入れがのぞいて面白い。ほこりをかぶっていたり破けていたり印刷がかすんでいたり、そんな捨ててもいいようなものばかり集めて並べる店主、そしてわざわざそれを求めてやって来る客、同じ趣味を持った者じゃなきゃ理解できまい。だから逆に、言葉がわからなくても楽しめてしまうのだろう。初めてハンブルクを、バルラッハ抜きのハンブルクとしてまた訪れたいと思った。こう思わせてくれたこの街と店主さんたちにお礼を言いたいと思う。

 

[7/30] 帰国

天気はついに最後まで回復しなかった。時間に余裕をもって出たこともあり、厳しい手荷物検査(荷物だけでなく全員身体検査までされた)も、早めに無事クリアしてゲートへ。ところが、飛行機がゲートにいない!折返しの便の到着が遅れていて(後で聞いたら、エンジンの故障で別の機を手配していたとのこと。ゾッ!)、そこにまた雷雨。このダブルハプニングでフランクフルト行きは40分遅れ。出国審査も受けなきゃならないのに。それにあの広大なフランクフルト空港の移動(「○○ゲートまで(ここから徒歩で)10分」とかの表示があるほど)。ああ、乗換時間を2時間取っておいてよかった!幸い、到着してから乗換口までの表示はわかりやすく、出国審査場もすいていたので無事関空行きには間に合ったが、全く最後まで気が抜けない旅だった。

今回の旅を振り返ってみて、充実はしていたがやはりキツい行程だったと痛感。バルラッハの彫刻のためならどこまでもと、やや無茶な計画もこれまで幾度となく強行してきたが、今回のエバースドーフ行きでそれも一段落したかなと思う。今後のドイツ行きは、ギュストロウとハンブルク滞在を中心に組み立てていくことになるだろう。ハンブルクに一週間位滞在して、その間に方々のバルラッハゆかりの町(ラッツェブルクやシュレースヴィヒなど)に日帰りでお出かけ、といった風に。これからは、何度でも通ってゆったりと彫刻たちと対話できる旅にしていきたいと思う。

ドイツ旅行記2017①

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ドイツのサイレント映画

 世界中で作られたサイレント映画のスチール写真を、今その多くが失われて久しいと知りつつ眺める時、私たちはぜひその映画を見てみたいという強い欲求にあふれる。ドイツ映画のスチール写真は、おそらくその最たるものだろう。むろん、これは決して単なる大袈裟な愛国心が言わせるのではない。

 スチールに見られるドイツ映画の明暗は、深い意味に基づいて配合されているため、俳優のとるポーズや彼らが移動する空間を手に取るように感じることができる。一言で言えば、これらの写真からは“シュティンムング(Stimmung) ”が滲み出ているのだ。これは事実上翻訳不可能な言葉で、英語なら“mood(雰囲気、ムード)”が近いかもしれない。フランスで出版された拙著『デモーニッシュなスクリーン』では、仏語の“atmosphere”の代わりに“la  Stimmung”の標記が用いられている。

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 初期の『プラーグの大学生』の当時、製作者シュテラン・リエとパウル・ヴェゲナーにとって、屋外シーンをプラハの旧市街で撮影し本物の城を活用するのは全く自然な行為だった。ドイツの映画製作者が国外で撮影を行う道を断たれたのは、第一次世界大戦によって国境が封鎖され、その後長きにわたり、他の諸国であらゆるドイツ的なものが毛嫌いされたことに起因するのだろうか。あるいは、ドイツでは舞台演劇が支配的な勢力であったため、映画製作者たちは光の魔術師と謳われたマックス・ラインハルトの影響を受けて、撮影所の密閉空間に閉じこもったのだろうか。かつてフリッツ・ラングが私に語ったところによると、撮影所のあのガラス張りの建物の中でなら、明暗が醸し出すどんな微妙な印象でも獲得できることを発見したという。上述の神秘的な“シュティンムング”も、こうして創り上げられたものだった。そして、リヒャルト・オスヴァルトのような二流の映画監督が、例えば『ルクレチア・ボルジア』などで突如として鮮烈な映像を送り出す時、そこにもマックス・ラインハルトの影響を辿ることができるのだ。

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 ラインハルト劇団の俳優だったルビッチュは、スチール写真を一瞥すればわかるように、時おりセットを公然と彼の舞台から拝借している。また、舞台装置を思わせる要素は、ルビッチュの『パッション』の各場面からもはっきりと見てとれる。歴史映画、より正確に言うなら“時代もの映画”の多くが基礎に据えているのは、結局のところラインハルトであった。膨大な数のルネッサンス劇は特にそうだ。したがって、リヒャルト・オスヴァルトの『ドン・カルロスとエリーザベト』がシラー原作のラインハルト劇『ドン・カルロス』に極似しているのも驚くにはあたらない。

 ロベルト・ヘールトやヴァルター・レーリヒといったドイツ映画の舞台装飾家によるスケッチでさえ、明暗がもたらすあらゆる効果を驚くほどに暗示している。そしてそれを、経験豊かなカメラマンが日常の職務の中で実現していく。ヘールトによれば、製作スタッフ会議の席では、その映画の技術チームのメンバーすべてが発言権を持っていた。照明係までもが参加し案を提供したという。

 舞台装飾家の影響については、ドイツでは長らく認識がなかった。例えば、ドイツ・トーキー年鑑を著したバウアー博士は、他のすべてのスタッフについては念入りなリストアップを行っておきながら、舞台装飾家については怠惰にも一言も触れていない。これに関しては、博士が次の年鑑を準備される際に注意を喚起しなければならないと思っている。

 明暗の効果は神秘的な印象を生み出し、E・T・A・ホフマンやアイヒェンドルフらすべてのドイツ・ロマン派作家の幻想物語において、重要な役割を演じている。ドイツ幻想映画の多くは、意図的にこの昔ながらの伝統を引き継いでいる。

 舞台演劇や文学とは対照的に、映画が表現主義の影響を受け始めた時期は比較的遅い。カール・マイヤーとハンス・ヤノヴィッツという2人の青年が、表現主義様式を用いて書いた風変わりな原稿『カリガリ』を、とあるプロデューサーのもとに持ち込んだ。当時の舞台設計者が映画撮影所において果たしていた役割が、ここではっきりわかる。原稿は即座に彼らの手に渡されたのだ。「同じ夜私たちはその原稿を読んだ」と、設計者のひとりヘルマン・ヴァルムは語った。やがて、舞台美術家のひとりで表現主義の強い信奉者でもあったヴァルター・ライマンが、同僚のヴァルムとレーリヒを前に断言する。こんな異様な物語は、奇抜な方法、つまり表現主義様式で創り上げるべきだ。セットは壁土で立体的に組み立てるのではなく、巨大なキャンバスに描いたひと続きの絵で構成すべきだと。

 カシミール・エートシュミットがその名高い宣言書の中で語るように、表現主義は印象主義の代表的特性である分解手法に戦いを挑み、つまらない日常生活の断面を“透写”するプチ・ブルの自然主義を拒絶した。現実社会は偽りのリアリズムによってではなく、新しい特殊な方法で提示されねばならない。我ら戦う者は、対象物を“自己の表出として”描くのである。表現主義の芸術家は、理屈や心理、滑稽な個人的悲劇を排した独自の世界を創造する。情趣の代わりに恍惚と緊張を目指す。そして、“シュティンムング”を創り出していた明暗はショックへと変容を遂げ、目をくらます光と深い陰影の強烈なコントラストを呈するのだ。

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 ロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』からは、まだこの強烈なコントラストは感じられない。街灯の下に描かれた光は明るい花模様にも見え、人家の影が斜めに黒く伸びる。前のめりに傾く立方体の家々、貪欲にむさぼり食う大きな口を思わせる歪んだ窓とドア、その間を何処ともなくジグザグに走る、夜のように暗く狭い街路。それらは、統合を欠いた小さな町の様相を、実に効果的に暗示している。

 家や通りの歪みは、俳優のすくむような歪んだ動きをもって調和を見る。『カリガリ博士』では、ミステリアスな博士を演じたヴェルナー・クラウスと、催眠術にあやつられる夢遊病者役のコンラート・ファイトだけが相応な効果を上げている。他の俳優は皆、痙攣でも起こしているようにしか見えない。

 『カリガリ博士』の製作に携わるまで広告映画の監督をしていたヴィーネは、次作『ゲニーネ』でも『カリガリ』の様式を踏襲した。脚本には再びカール・マイヤーを起用、背景画には表現主義の画家セザール・クラインを迎え、前作と同様平面的なセットを採用したにもかかわらず、今回のものは異国風の絨毯柄と評するのがせいぜいだった。また、ポアロ式の衣装を身につけた主役のフェルン・アンドラは、ミュージカル・コメディのスターのように悩ましく身をよじらすだけで、表現主義への理解のかけらも感じられない。『罪と罰』では、ヴィーネは偉大な舞台設計者アンドレイ・アンドレーエフを起用する。元モスクワ芸術劇場の舞台設計者であった彼は、新たな表現主義形態を映画に確立することに成功した。もっとも、この作品に使われた滑らかな照明効果は、表現主義から連想される強烈なコントラストとはかけ離れたものだった。

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 表現主義の要素は、その影響を受けた映画のほとんどすべてに見られるように、しばしば混ざり合って表れる。この顕著なものに、パウル・ヴェゲナーの第二作目の『巨人ゴーレム』がある。彼が有名な建築家のハンス・ポールジクの協力を仰いで製作し、当時の最高傑作のひとつと言われる作品である。幻想的な物語の冒頭に始まり、魔の儀式の聖霊出現場面や狂乱する群集の場面まで、この映画は数々の表現主義的特徴によって活力を得ている。ことに実験室の場面は、ほの白い光が周囲の闇と強いコントラストを成しており、表現主義的ショックを示す素晴らしい一例である。

 表現主義的な効果は、表現主義を標榜しない映画の中にも、物語のヤマ場などに再三見出すことができる。例えばラングの『ドクトル・マブゼ』で、燭台を手にしたトルド伯爵が自らの美術コレクションの間をさまよい歩き、やがて巨大な階段の前に辿りつく場面である。自分は表現主義者ではないと繰り返し断言してきたラングでさえも、この時代の芸術家の誰もがそうであるように、その影響下を脱し得なかったのである。

 完全な表現主義映画と呼べる作品はわずかしかない。カール・マイヤーが着想し、ハンス・コーベが演出した『トルグス―火元』は、自然主義的に追求された『カリガリ博士』の模倣作である。

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 『朝から夜中まで』は、ゲオルク・カイザーの表現主義ドラマを土台に、表現主義演劇の演出家であるカール・ハインツ・マルティンが撮った。表現主義のグラフィック・アートを思わせる作品で、美しい女に心を奪われ、それまでの実直な人生を突如捨て去ってしまう主役の惨めな銀行出納係を、エルンスト・ドイッチュが演じた。俳優のぎくしゃくとした動きによって興味深い効果を得ることに成功している。

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さらに多様化されたものが、パウル・レニの『裏街の怪老窟』の3つのエピソードである。タイトル(原題:『蝋人形館』)だけでなく、屋外市の見世物小屋が舞台という点でも『カリガリ博士』と通じるものがある。この作品で強調すべきなのは、パウル・レニとエルンスト・スターンの手による奇抜な表現主義的セットである。パン職人の妻のエピソードに登場する建物は、発酵するパン生地のようだ。イワン雷帝のエピソードでは、ロシア農家の低い天井が連想を呼ぶ。皇帝の宮殿の中であっても俳優は体をくの字にかがめていなければならないため、『カリガリ博士』にも出演したコンラート・ファイトが体現するように、表現主義特有の姿勢をとることになるのだ。切り裂きジャックのエピソードは無秩序を生み出す。斜めに盛り上がる人影が現れたり消えたりしながら、光に荒々しく引き裂かれる。すなわちここでは、表現主義演劇が時間というものをどう捉えていたかがそっくり反映されているのだ。

 このように、表現主義的セットで統一された映画は稀少な存在であると言える。

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 そのパウル・レニは3年前、舞台監督レオポルド・イエスナーの『裏階段』の“視覚化”に携わっている。自然主義的なモチーフと表現主義的なモチーフが混ざり合った作品である。召使いの娘の悲劇というプチ・ブル的主題は、あらゆる表現主義的傾向と矛盾する。悲し気な郵便配達人、手紙を横取りし愛に幸福を求めるなどほとんど望みもしないこの哀れな男を、凍りつくようなしぐさで演じたフリッツ・コルトナーだけが、真の表現主義的身体表現の域に達している。さらに、表現主義的なセットがもはや作られなくなった後でも、俳優はいくぶん表現主義的な姿勢をとることがよくあった。外国人の中にも、こういった傾向は見られる。ドイツで教育を受けたアメリカ人アーサー・ロビゾンの幻想映画『戦く影』では、アレクザンダー・グラナッハが表現主義スタイルで演じたけちな魔術師が、色にくらんだ人々の影を利用して、その隠れた欲望を暴き出す。ここでは、二重写しによって目を見張るような映像が創り上げられている。

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 イエスナーの『裏階段』を見ると、ドイツの映画スタイルの多様性が非常によくわかる。表現主義は心理作用や個人的悲劇、一言で言うならこの映画を形作っているものすべてを拒絶する。しかし、『裏階段』は『カリガリ博士』を書いた同じカール・マイヤーの手による作品なのである。こうしてマイヤーは、表現主義と対極をなす新しい様式“カンマーシュピール(室内劇)”映画の創始者となったのである! この様式は、室内楽音楽や、マックス・ラインハルトが壮大なドイツ座とは別に心理劇を上演した小劇場と相通じる。日常の出来事から取られた主題をわずか数人の俳優が演じ、繊細な雰囲気に満ちていた。このタイプの代表作には、他に『ニュウ』がある。パウル・ツィンナー作で、エリーザベト・ベルクナーと逞しいエミール・ヤニングス、魅惑的なコンラート・ファイトが出演した。一方で、ルプ・ピックは大胆にも、自作の『破片』と『除夜の悲劇』をもって、お高くとまった表現主義者の横つらに強烈な一発を見舞ってやったと宣言する。室内劇映画の“シュティンムング”や漂うような静かな明暗が好まれたために、純表現主義映画は終焉を迎えたのだろうか。ドイツ映画の歴史は矛盾だらけである。人間心理を土台とする作品の中でさえ、表現主義の痕跡を再三見出すことができるのだから。

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 数多くの映画人の中でも、ぜひ言及しておかなければならない人物がいる。筆頭は、いかなる様式の影響も受けていないと豪語してきたフリッツ・ラングである。彼の作品は、冒険物語と事実に基づくドキュメンタリーの不思議な組合わせで構成されている。妻のテア・フォン・ハルボウとの共同作業を始める以前に作られた、現存する最初の連続もの『蜘蛛』の中に、すでにこのスタイルは明白に見られる。『ドクトル・マブゼ第1部』は「時代の鏡像」という理にかなったサブタイトルを持ち、第2部はこのエピソードにふさわしく「地獄。我らの時代の人間劇」と名付けられた。過去につまらない論評しか書いていない当時の批評家でさえ、この映画がいかに生き生きと同時代のデカダンスを映し出しているかを捉えることができた。ニーチェの言う主人と奴隷の道徳体系に染まった国だけが、傑出した犯罪者を、権力を何よりも求めてやまない超人を生むのだ。『スピオーネ』は、まさしくラングの冒険映画のひとつに位置付けられる作品である。

 ラングはその多様な製作スタイルの根拠について、作品の主題はどれも個別独自に扱うべきものであると説明している。『死滅の谷』は、その詩的な雰囲気が民族音楽を感じさせる作品となっている。

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 『ニーベルンゲン』において厳格に構成された俳優とエキストラの配置は、ラングが建築家志望であったことの現れである。『メトロポリス』には批判も多いが、心が頭脳と働く手の仲介者となるというテア・フォン・ハルボウの感傷的なテーマは、脈打つ機械、摩天楼の上空に伸びる幾筋もの線光、幾何学的な形に集結された群集、壊滅的な大洪水の衝撃といった場面に用いられる二重写しの迫力映像の前に帳消しにされる。同じハルボウの感傷癖が、『月世界の女』では宇宙ロケットの発射場面の独創性によって覆い隠されている。

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 F・W・ムルナウは、スタジオの閉鎖された空間で撮影するドイツ映画製作者のルールを打ち破った。吸血鬼映画の『吸血鬼ノスフェラトゥ』において、自然への郷愁に駆り立てられたムルナウは、バルト海の古い小村やカルパチア地方の実在する城を訪ね、ロケ撮影を行った。またスタジオ撮影を余儀無くされる場合には、透明なガラスの壁を背景に奥行きを出し、空間を広げるために鏡を使った。ある意味でこれは、ハリウッドのスタジオを遠く離れた南太平洋の島々で撮影することとなる彼の最後の作品『タブゥ』の原型と言える。

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 室内劇映画『最後の人』でムルナウは、心の深淵を測り描くために、それまで固定されていたカメラを可動式にした。もはや字幕は不要、光と闇が移りゆく中で、映像がストーリーの全てを語ってくれるのだ。『ファウスト』のプロローグ、天界の場面では、完璧に掌握された明暗法がその頂点を極め、光と動きが調和のとれた統合をみている。

 “様式化された”リアリズムの旗手G・W・パプストは、2本の作品を携えて映画製作に乗り出した。1本目の『財宝』は表現主義的セットの中で自然主義的な意欲のもとに作られ、2本目の『心の不思議』はフロイト式の精神医学が表現主義的映像と結びついた作品である。

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 パプストは、特に女優の演出に定評がある。アスタ・ニールセンとグレタ・ガルボは、インフレ期のウィーンの貧窮状態を描いた彼の『喜びなき街』で印象を刻みつけた。『ヤンネ・ネイの恋』では、ブリギッテ・ヘルムがデビュー作『メトロポリス』よりもはるかに生き生きとした演技を見せている。そして、『パンドラの箱』と『淪落の女の日記』では驚異のルイーズ・ブルックスが抜擢され、まばゆいほどの美貌とモダンな演技を披露した。パプスト自らは、編集時のフィルムのブレを避けることに力を費やした。彼はまず、ひとつのショットのフィルムをカットして続くショットに重ね継ぎ、滑らかな流れを創り出した。

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E・A・デュポンの『古い掟』は、衣装の微妙な色合いで華やかさを増す。白黒でありながら、事実上色彩の感性を持った作品で、心的状態が親密に交錯し合うことにより、徹底した“シュティンムング”を創り上げている。『ヴァリエテ』でも、デュポンはほとんど印象主義的なまでの流れる映像作りに力を入れ、空中ブランコ乗りの曲芸にぴったりな効果を上げている。

 ドイツ映画にとって街路とは、パプストの『喜びなき街』やブルーノ・ラーンの『街の悲劇』、カール・グルーネの『蠱惑の街』に見られるように、誘惑と危険をはらんだ場所として絶えず心を引きつける魔力を持っている。

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 社会的テーマは装飾を施して描かれた。ツェルニックの『織工』では明暗法が使われ、ピエル・ユッツィの『クラウゼン小母さんの幸福への旅』とカール・ユングハンの『人生はかくの如し』では、貧困を美しく飾り立てて捉えている。そのどれも、ベルリンのスラム街の生活を描くハインリッヒ・ツィレの画をもとにゲルハルト・ランプレヒトが撮った『第五階級』のような、純粋な人間性を描くには至らなかった。

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 しかし、ドイツのサイレント映画は消滅の危機に瀕し、隙間なく閉ざされた撮影所を脱出した。ヴァルター・ルットマンは、かつてハンス・リヒターやオスカー・フィッシンガーらと同様、絶対映画という抽象的な実験映画を作っていたが、ジーガ・ベルトフに触発されて活気あふれるベルリンの雑踏に飛び出し、『伯林-大都会交響楽』を撮った。『カリガリ』スタイルと室内劇映画を生み出したあのカール・マイヤーも、脚本家として再度登場する。

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 『日曜日の人々』は、今日よく名の知れた2人の映画作家、ロベルト・ジオドマク(ロバート・シオドマク)とビリー・ヴィルダー(ワイルダー)のデビュー作である。この映画は、題材と財政事情のせいでスタジオ撮影ができなかった。しかしそのおかげで、新鮮かつ身近かに感じられる作品となっている。オイゲン・シェフタンのカメラワークもこの効果を高めた。休日を楽しむ若い労働者たちを描いた素朴な物語で、ベルリンの通りや郊外の松林、ヴァン湖畔の公衆浴場が描かれる。このように、ドイツのサイレント映画であっても、撮影所を出る可能性は秘めていたのである。

 その昔、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』やアルトゥール・フォン・ゲルラッハの『王城秘史』は、野外で素晴らしい映像を生み出した例外的作品だった。そして訪れたトーキーの時代、ジークフリートの夢幻の森をスタジオに築き上げたラングのような人物でさえも、『怪人マブゼ博士』で工場の火災や悪徳博士の追跡シーンを撮るには、広大な森林地帯の方がより無理がないと感じたのだった。

 1930年。私たち20年代の人々は皆ふくれ面で、トーキー映画の“脅威”に対抗すべく熱心に論評を書き綴ったものだ。ドイツの幻想映画はどうなるのか。その言いようのない神秘の世界は? しゃべるゴーレムやノスフェラトゥを誰が想像できるのか。舞台劇を撮影する方がましというものだ。

 やがてアメリカからひとりの男がやって来た。オーストリアのフリッツ・ラングでありG・W・パプストである、ジョセフ・フォン・スタンバーグである。後年彼と親交を結んだ私は、彼の映画の翻訳者としてアルジェリアへ同行した。彼は事あるごとに、ドイツで撮った *唯一無二の映画について語り、私たちはその映画がトーキーへの大躍進を収めた当時のことを振り返り笑ったものだ。みすぼらしい舞台、マレーネが長く美しい脚で樽に怠惰に腰かけるその様。彼女は口を開く、そしてトーキーは始まった。その深く重い声が舞台上を漂い、世界を包む。新たな時代の幕開けである。

      ノイリーにて 1980年

                                                                                   ロッテ・H・アイスナー

    *訳註:『嘆きの天使』(1930)のこと

(“Great Film Stills of the German Silent Era”Dover Publications, Inc.より)

【製作年一覧】

朝から夜中まで(1920

ヴァリエテ(1925

裏階段(1921

裏街の怪老窟(1924

王城秘史(1924

戦く影(1921

怪人マブセ博士(1933

カリガリ博士(1919

吸血鬼ノスフェラトゥ(1922

巨人ゴーレム(1920

蜘蛛(1919

クラウゼン小母さんの幸福への旅(1929

月世界の女(1929

ゲニーネ(1920

蠱惑の街(1923

心の不思議(1926

最後の人(1924

財宝(1923

死滅の谷(1921

織工(1927

除夜の悲劇(1924

人生はかくの如し(1929

スピオーネ(1928

第五階級(1925

タブゥ(1931

罪と罰(1923

ドクトル・マブゼ(1922

トルグス―火元(1921

ドン・カルロスとエリーザベト(1924

ニーベルンゲン(1923

日曜日の人々(1929

ニュウ(1924

パッション(1919

破片(1921

パンドラの箱(1929

ファウスト(1926

プラーグの大学生(1913

古い掟(1923

伯林―大都会交響楽(1927

街の悲劇(1927

メトロポリス(1926

ヤンネ・ネイの恋(1927

喜びなき街(1925

淪落の女の日記(1929

ルクレチア・ボルジア(1922

 

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