『人類が分裂する ~ ナチスとドイツ映画人 』 ロッテ・H・アイスナー
私はあらゆる人間を理解しようと努めてきた。誰かから衝撃的な告白をされても、ユーモアや寛容さを忘れることは決してなかった。ただ一つの例外をおいて。私には、なぜ人がナチ党員となれたかが理解できない。ナチス時代の恐怖、私自身は他の人々ほどに過酷な目に遭ったわけではなかったが、それをここでまた呼びさますつもりはない。ただ、私があの時代以来ずっと、人間を二種類に分類していることを、はっきり言っておきたいだけである。ナチであった人と、ナチでなかった人である。どんな言い訳を浴びせられても滴となって落ちるだけだ。人間性よりも出世に重きを置く者は、私の中では死んだに等しい。
長い月日を経て、ようやく寛大なひと言を口にできたのは、ラジオ・ヨーロッパⅠのインタビューで、強靭なレニ・リーフェンシュタールについて聞かれた時のことである。レニのことは、俳優としてずっと昔から知っていた。彼女は過酷な探検場面のある冒険山岳映画に好んで出演した。その勇敢な姿が私の印象に残っていた。ある時、彼女は編集室にいた私のところにやって来て、落ち着かない様子で机の周りをうろうろしていた。「レニったら、いったいどうしたの?」と私は尋ねた。「ロッテ」と彼女は言った。「貴方をお茶に招待したいの。」私は嫌な予感がした。「とても素敵な人を、ぜひ紹介したいのよ。」「その素敵な人って誰なの、レニ?」「アドルフ・ヒトラーよ」と彼女は答えた。「そんな恐ろしい人と会うのはご免よ。」これが私の答えだった。当時の私にはもちろん、ヒトラーが国家権力を奪い取ることなど予想できなかったが、避けて通るに余りある人物であることはわかっていた。「そんな人じゃないわよ」と、レニは媚びるように言った。「ヒトラーはとってもチャーミングよ、貴方もそう思うわ。」「ノーと言ったらノーよ、レニ。」と私は言った。もし行っていたら ―― ああ、もし行っていたなら、私は拳銃をハンドバッグに忍ばせて、悠然とこの男を撃ち殺していただろう。あるいは彼のお茶にヒ素を振りかけていただろう。こうして私は世界の歴史を変え、現代のジャンヌ・ダルクとなるのだ。刑務所で英雄の生涯を終えるのだ。
だが私は生きていたかった。なぜとはなしに、生きて成すべきことがあるという思いが常にあった。それはまだ書かれていない私の本、そしてジャンヌ・ダルクとしては書けない本だった。
ドイツ国民は是が非でもリーダーを求めていた。だから、仮に私がヒトラーを葬ったとしても、ゲッベルスやヒムラーが彼の地位に就くことになっただろう。
レニ・リーフェンシュタールとヒトラーとの交流は、彼女の職業的野心に翼を与えた。なぜなら彼女は、俳優としての経歴のどこかで、全く別の才能が自分にあることを感じていたに違いないからだ。おそらく彼女が映画監督としての礎を築いたのは、たまたま「死の銀嶺」の未完成のフィルムを持ってフランスにいた時である。彼女はフランス語を一言もしゃべれず、その傍らには[アルノルト・]ファンク監督も、フィルム編集担当のG・W・パプストもいなかった。そこで彼女は自ら編集室を借り、編集者を雇い、自分の判断でフィルムをカットした。出来上がった映画は、フランスで大ヒットした。その後、ヒトラーは彼女にドイツ“一流の”映画監督になるチャンスを与えた。彼女は、フリッツ・ラングの逃亡後空席だったその職責を立派に果たした。ヒトラーは彼女に多額の現金、多くのカメラマンと技術者を与えた。また彼女は、ウーファのベテランたちを頼りにすることもできた。私は、もちろん戦後だいぶ経ってから彼女の映画を初めて見たのだが、感激した作品はない。しかしアメリカでは、若い世代が再びこの手の低俗な大作映画に歓声を送り、レニを栄誉の座に祭り上げているということだ。
この女性の際立つ点は二つある。一つには、頑健で信じられないほどタフだった。彼女は80歳を越えてもスキーをし、一人で砂漠に出かけ、南太平洋の海に潜った。―― そしてもう一つは、彼女はヒトラーの恐怖政治の中、ナチの思想に我を見失っていたにも関わらず、さもなければ命を落としたであろう人々を保護していた。
少なくとも、そのようなことがあったのは確実である。誰もが知るように、ヒトラーやゲッベルスは、自分たちのお気に入りの人物がユダヤ人であろうが半ユダヤ人であろうが、大して気に留めることはなかった。なぜなら彼らは、その全能の力において、誰がユダヤ人であり誰がそうでないかを自ら決めることができたからだ。依ってレニ・リーフェンシュタールは、彼らにとっては半ユダヤ人ではなかった。しかし、彼女はどこかで、たぶん膝の裏あたりで、自分の仕事仲間のユダヤ人たちが、危険にさらされるかもしれないことは感じていたのだ。
映画美術設計技師のロベルト・ヘールトは、ロシア系ユダヤ人と結婚していた。彼はこの時代、最も需要の高かった設計技師の一人で、ムルナウと仕事をしたこともあった。当時ヘールト夫妻と私はすでに友人同士で、つき合いは戦後も続いた。マーニャ夫人と私との間で、盛んな文通が始まった。その内容は主に、私のムルナウ本へのヘールトの貢献についてであった。しかし、もちろん私たちの話は、ナチ時代の出来事にも及んだ。マーニャは次のような話をした。ある日 ―― 彼女の夫は仕事でバヴァリア撮影所へ行っていた。―― ドアの呼び鈴が鳴った。彼女が開けると、ゲシュタポの女が立っていた。「ユダヤ人」と彼女は言った。「身分証明書を持って一緒に来なさい。」彼女はマーニャ・ヘールトをある事務所へ連れて行き、証明書を見せるように言った。マーニャはそこに立っていた、もう二度と夫には会えないと確信して。役人は、彼女の証明書を綿密に調べ、手元の記録と比べていたが、突如態度を変え、とても愛想がよくなった。「ああ、失礼しましたヘールトさん、保護対象の方だったのですね、知らなかったのです。すぐにおっしゃっていただければよかったのに。心からお詫びします。」マーニャには意味が全くわからなかった。「なぜ保護対象なのですか?」「ご存じなかったのですか、リーフェンシュタール嬢が貴方をとりなしておられることを?」正式に“好ましい人物”と宣言されたマーニャ・ヘールトは、それ以降二度と彼らに苦しめられることはなかった。ただ、彼女の娘に対する学校での嫌がらせは続いた。母親がユダヤ人であるため、最後列の椅子に一人で座らされていたのだ。
レニ・リーフェンシュタールは、テア・フォン・ハルボウと同じく、最初から国家社会主義にのめり込んだ。しかし、共産主義者として出
発してナチに終わった者も多かった。中でも一番よく知られているのはグスタフ・グリュントゲンスである。そのカメレオンのような身の振り方を、クラウス・マンが『メフィスト』という格別秀作とも言えない小説に描いている。私はグリュントゲンスをよく知っていた。パウラ・メディーナと連れ立って、私は夜間よくベルリンの同性愛者が集まる居酒屋へ出かけた。彼はそこに出入りしていた。グスタフ・グリュントゲンスは演劇界では新顔だった。トーキー映画が始まると、彼は怪しげな新しいタイプとして、頻繁にスクリーンに登場するようになる。最初の頃、私は彼を支持する劇評を書いていた、その才能を認めていたからである。しかし、彼が初めて舞台でメフィスト役を披露した時、私はぎょっとした。それはすでに、彼が後に低級なファウスト映画で不朽のものとした、道化風の演出だった。パウル・ヴェゲナーが演じた圧巻のメフィストがまだ記憶にありありと残っていた私は、この受け狙いの悪ふざけを冷たく飲み込んだ。私の中のメフィストは、うっとりと人を虜にし、巧みな手管で人を信じ込ませる誘惑者だった。しかしこのグリュントゲンスは、ただ凡庸で思いあがった、嫌らしい田舎役人だった。後になって見れば、彼がヒトラー時代に、なぜあれほどまで早い出世を遂げたかがわかる。彼はまさに、ナチのお偉方が人々を取り込んだドサ周り劇団の一員となったのだ。ともかくも、私はありのままに酷評を書いた。このため、グリュントゲンスは二度と私と口をきくことはなかった。
逃亡した後、私は奇妙な巡りあわせで、パリのどこかの居酒屋で、偶然彼と再会した。彼はバツが悪そうだった。が、私はひそかにこう推察した。彼は国外で足場を固めたかったのだが、フランス人には全く相手にされなかった。そこで、外国でまた一から苦労をなめるよりは、パプストのようにナチに身を売ることを選んだのだ。
ハインリヒ・ゲオルゲもまた、残念なことに共産主義者から国家社会主義への道を辿った。バルラッハ作「青いボル」を見て以来、私は彼を俳優として高く評価していた。彼は意志薄弱で感傷的な一方で、癇癪持ちでもあった。使用人はそれを思い知らされていた。彼はかつて、お抱え運転手の腹を蹴ったとして、労働裁判所で申し開きをしなければならなかった。運転手は言った。主人は、舞台ではいつも蹴られたり殴られたりする労働者を演じて、観客から同情の涙を誘うというのに、一歩外へ出たとなれば、自ら雇人を蹴飛ばすのです。それが何故だかわかりません…。
こうして私は、彼はどう行動したのだろう、あの人はどうしただろうと、いつも気にかけてきた。そして古い知人の一人の行動に問題があったことを知った折、私はいやいやながら、その人物のもとへ出かけることになった。ヴェルナー・クラウ
ス、変幻自在で全く新しい感覚の表現者であり、舞台も映画も楽々こなした彼もまた、残念ながらドイツに背を向ける強さも、また、せめて不快な映画出演を拒否する最低の強さすらも持ち合わせていなかった。私は彼とはもう会いたくなかったのだが、アンリ・ラングロワから、博物館のために小道具か衣装のいくつかをもらい受けてくるよう説得されたのだった。この任務を私はどうにかこなした。ヴェルナー・クラウスは、その言葉からも態度からも、完全に乗り越えてしまっているようだった。「ある血気盛んな俳優が、一度に六つの大役の出演を持ちかけられ、」と彼は言った。「その中に『ユダヤ人ジュス』★なる作品もあった、そして彼はそのえさに食らいついたというわけです。」それ以上私に何が言えただろう?
★『ユダヤ人ジュス』(1940年)ゲッベルスの指導の下制作され、ユダヤ人排斥に使われたナチスのプロパガンダ映画
ハンス・アルバースは違った。当たり役の船乗り姿で、ハリー・リートケから大衆の寵愛を奪い取った彼は、自分に似合わない役は決して引き受けなかった。自分の人気に取り入ろうとするナチの“芸術担当官たち”と、関わりを持つことを彼は嫌った。大柄で、ブロンドの髪と誠実な水色の瞳を持つこのゲルマンの勇士は、気骨の持ち主だった。ヒトラーやゲーリング、ゲッベルスが、撮影スタジオに訪ねてきたりイベントに招いたりと、自分に近づく気配を察知した時には、彼は決まってこう言った。「さて、私ハンス・アルバースは、我が農場に出かけなければなりませんので。」そして姿を消すのだった。
偉大なる舞台俳優にして、イフラントの指輪★の継承者、私たちがすでに少女時代に、室内劇場から出てくるその姿を中庭で待ち伏せていたアルベルト・バサーマンは、老齢に達していたにもかかわらず、祖国を離れる決意をした。妻がユダヤ人だったからである。妻エルゼ・シフも俳優だったが、残念ながら演技は下手だった。しかしそのことに、バサーマンは生涯気づくことはなかった。彼は妻を心底愛し、彼女が出演しない芝居に出ることを拒否した。そして公演後は、知り合いを片端から捕まえては言った。「家内は今回も素晴らしかったろう?」彼にこう聞かれた時、私にはもちろん異議を唱える気などなかった。彼は大変高潔な人物で、どんなに冷徹な批評家であっても、彼の心を傷つけることを望みはしなかったのだ。
★ドイツ語圏で最も優れた俳優が代々受け継ぐ指輪。受け継いだ人物は生涯にわたってこれを保持し、その死去とともに次の人物に継承される。
私の記憶が確かなら、バサーマン夫妻には知的障害を持つ子供がおり、それが二人の絆をより強くしていた。―― これは、アメリカでの競争生活を始めるに当たって決してよい前提とはいえなかったが、不思議なことに、ハリウッドでもこの老優は敬意をもって遇され、条件が合えば小さな役をもらって、何とか生計を立てることができたのだった。私はかつて、バサーマン家にお茶に招待されたことがある。彼がにやりと笑いながら語ったところによれば、夫妻宅にはホームテレホンがあり、彼は妻が恋しくなると決まって電話をかけていた。そしてこう尋ねるのだという。「エルゼ、僕は良い夫かい?」
友人の何人かとは、この深刻な時代中連絡が取れなくなった。例えば、私にジャーナリストとしての最初の仕事を世話してくれた、若き作家アルミン・T・ヴェグナーである。二年前にデュッセルドルフ市からコイトナー賞をもらった際、私は地元のハイネ協会からヴェグナーの消息を聞いた。彼はナチ時代も勇敢に立ち回った。ヒトラー宛てに率直な意見をしたためた手紙を送ることすらあった。その手紙で彼は、ドイツの文化的繁栄は、とりわけユダヤ人に負うところが大きい。その芸術家や知識人たちを、貴方はまさに追放し、根絶やしにしようとしているのだと、厳しく糾弾した。このため彼は強制収容所送りになったが生き延び、まずイスラエルへ行ったものの、なじむことができなかったため、最終的にイタリアに腰を落ち着けていた。
新たにまた一から始める勇気がなかったユダヤ人には、自らをうまく“アーリア化”することができた者も多かった。彼らは自分が非嫡出子であり、父方にアーリア人の血が流れていると主張することで、わずかながらの恩恵や“保護”を受ける必要があった。ハンス・フェルトの新しい雇い主で、女優イェニー・ユーゴに目をかけられていた制作会社AAFAのエーリヒ・エンゲルもそうだった。
フェルト自身の逃亡劇は、ドラマティックなものだった。彼はその時のことを、私がパリ、彼がプラハに住んでいた当時、手紙で知らせてくれた。私たちは同じ時期に脱出していた。『フィルム・クリーア』から追い出されたフェルトは、1932/33年のプログラムを共同プロデュースする仕事をAAFAからもらい、喜んでいた。会社は当時、社の水準を高める努力をしていた。彼がはっきり承諾の意を示したにもかかわらず、この仕事は危うく彼の手をこぼれるところだった。彼の背後でどこかの御仁が、彼がまだ『フィルム・クリーア』の職員であると、管理部門に虚偽の通報をしたのだ。しかし再照会の結果、幸いこの卑劣漢の行為が暴かれた。こうして、新たな映画プログラムの草稿が練られたが、実行に至ることはなかった。1933年3月30日を境にご破算になった企画は、映画制作だけではなかったのだった…。
3月末、フェルトのもとに、かつての秘書から電話が入った。「逃げて下さい。明日役人がそちらに向かうと聞きました!」そこでフェルトは、高齢の両親に電話をかけた。「明日みんなでプラハへ行こう。」それが次の岐路だった。私の父と同様根っからのドイツ人だった彼の父親は、正反対のことを言った。「話にならん、我々はここにいる!」母と息子は遮った。「一緒に行くんだ!」フェルトは電話を切った。何とかなったと思った。彼は礼儀を重んじる人間だったため、翌朝出版人のアルフレート・ヴァイナーのもとへ別れを告げに急ぐと、彼は涙を流し取り乱していた。SAが雑誌を差し押さえたところだった。それが意味することをハンス・フェルトが理解しないうちに、階段を上ってくるSAの重々しいブーツの靴音が聞こえた。彼は脱兎のごとく裏階段を駆け下りた。―― それは、さながら探偵小説のようだった。
銀行に行く途中で、彼は今しがた秘書がそっと手渡した紙切れに目を通した。それは妻からの知らせだった。「子どもにパスポートがないので、連れていくことができません。」フェルトは自分のパスポートを鞄から取り出した。4歳の息子はそこには載っていなかった。銀行へ行く代わりに、彼はヴィルマースドーフの152警察署へ急ぎ、そこでおとぎ話のような話をした。私は緊急の会議に出席するためプラハに行くのだが、その後当地で休暇を過ごすため、妻と息子も連れていきたいのですと。警官は言った。「少尉に聞いてみなければなりません。今休憩中なので、ここで待つように!」彼はパスポートを掴み、姿を消した。1分後彼は戻ってきて言った。「少尉が署名しました。本日はまだ国境通過が可能ですので、ユダヤ人の皆さんをわずらわせることはないでしょう。」
それは、危険を逃れる最後の列車だった。その日を境に、ユダヤ人は外へ引きずり出され、打ちのめされ、拉致され、或いは、ドレスデンのナチ施設へ連行されて拷問後送り返される、という目に遭うことになるのだ。フェルトが家族5人でプラハ行列車の車内に座っている時 ―― 幼い息子ははしかの発熱で体が熱かった。所持金はたった一日分しかなかった。家族それぞれの鞄には、10マルク紙幣が一枚だけ入っていた。家族の誰もチェコ語がしゃべれなかった。夕方プラハ駅に着いた時、外は雨だった。こうして、私の同僚の亡命生活は始まったのだった。
私はまだ、この事態に対応する準備ができていた方だったが、間もなく逃げ出さなければならないことを、家族に覚悟させることはできなかった。パウラとフリッツ★は、そのことについて何も知ろうとしなかった。フリッツは店にとって必要な人間で、その老齢の叔父たちは移住について考えもせず、自分たちが訴えられるかもしれないことなど想像すらできなかった。義姉パウラは逞しい、恐れを知らない人間だった。私は彼女をいつも“ワルキューレ”と呼んだものだ。兄と知り合う前、彼女はワグナーの歌姫になりたかったそうで、体格的にも性格的にも、まさにうってつけだったからだ。彼女なら架空の舞台に立っているかのように、両手を腰にあてがってゲシュタポの男の前に立ちはだかり、命令をはねつけそうだった。しかし、少なくともパウラは認めなければならなかった。私は私の“首が転がる話”★★を彼女にありのまま書き知らせたのだが、その私がヒトラーの政権掌握後、こそこそと逃げ出さざるを得なくなった事実を。彼女は、パリでの生活が落ち着いたら、私の家具や本など、鞄に入らなかった物すべてを送ってくれると約束してくれた。
★フリッツはロッテ・アイスナーの実兄
★★『“映画配達人”は“検閲配達人”へ』参照
母は、事態が危うくなったらパリ行きの切符を買うことを私に約束した。もう一年も前から移住している、最愛の娘シュテファニーに面倒を見てもらえるからだ。私の場合、フランス移住の理由は家族とは無関係だった。敢えて言えばその逆である。なぜなら、これまでほのめかしてきたように、私の妹への愛情はあまり強いとはいえなかったからである。
つらかったのは、心地よく過ごした私の小さな住まい、そして、毎晩劇場から遅く帰る私を待っていて、何かおいしいものを作ってくれたお手伝いさんに、別れを告げなければならないことだった。毎朝私は、彼女に「起きて待っていなくていいから、食べるものの用意だけをしておいて下さい。」と言って出かけた。しかし彼女は必ず待っていた。もう会うことはないだろう、私たちは二人ともそれがわかっていた。ドアを閉める私に、彼女は泣きながら言った。「私はもうどなたのお仕事も受けません。貯めてきたお金で故郷の村にお菓子の店を開きます。」
こうして私は、1933年3月30日夜、パリ行きの一等寝台車の切符を買った。私は義弟に電話をかけ、重い鞄があるので駅まで迎えに来てほしいと頼んだ。翌日の早朝、北駅に降り立った私に、義弟ウジェーヌは言葉をかけた。
「やあロッテ、パリは休暇かい?」
私は答えた。「長い休暇になると思うわ。」
それは50年もの休暇となったのだった。
★および[]:訳注
(Lotte H. Eisner "Die Menschheit teilt sich" "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)
*掲載写真は、原書から転載したものではありません。
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