「三文オペラ」訴訟 ロッテ・H・アイスナー
私がまだベルリンにいた頃、G・W・パプストは全く別の件で公の批判の的となった。それはベルトルト・ブレヒトの舞台の大ヒット作『三文オペラ』の映画化をめぐって起こった。制作会社ネロ・フィルムの社主ネーベンツァール父子が映画の権利を獲得し、パプストは監督として契約を結んだ。同社は後に、フリッツ・ラングの『怪人マブセ博士(ドクトル・マブセの遺言)』の制作も行っている。
ブレヒトとその作曲家ヴァイルがこの会社相手に起こした訴訟の問題点を理解するためには、ブレヒトの仕事のやり方をよくわかっていなければならない。
幸運なことに、私は時折ハーデンベルク通りで製作会議や舞台リハーサルを行う彼の様子を見ることができた。「アイスナリン」と彼は私に言ったものだ。「これは大事なアドバイスです、書く時にはタイプライターを使いなさい。直接タイプすれば、書いたものをすぐに目で確かめることができます。」
彼自身も言葉をタイプして読んでいたが、その際彼は、一語一語のリズムをとれるように大きな声で読み上げるのだった。
[以下、茶字の部分は、月刊誌『Europa Brecht』(1957年刊行)に掲載された
アイスナーの記事の編者による抜粋]
彼は舞台リハーサルを可能な限り自らの手で取り仕切ったが、そこではまさに、この視覚的なものと聴覚的なものに対する彼の炯眼が重要な意味を持っていた。彼の敬愛する演出家エーリヒ・エンゲルは、舞台のために生まれてきたようなその名人芸を目の当たりにし、彼のためすすんで表舞台から退いていた。ブレヒトが情熱的にあれこれと言葉を操り味わい尽くそうとする時、彼の鋭い眼力は観客に及ぶ影響をはっきりと意識していた。
彼の作品に偶然を頼みにする部分は一つとしてない。驚くほど隅々まで考え抜かれた演出だった。『男は男だ』のリハーサル中、私は観客席から立ち、彼の熱のこもった粘り強い仕事ぶりを間近に見ることが許された。彼は一つの台詞に一定の価値を保ち、そこに動作を当てはめ、表情と動きを対位的手法で構成しようと努めていた。こうして彼は、俳優の体勢と台詞回しの調子を同時に変化させた。
台詞が持つ独自の意味、そしてその台詞がある社会世相と結びつき、また敵対することによって、この中心要素と演出法は「傑出した」ものとなった。
しかし、これは彼の最初のリハーサルの手順である。ブレヒトは、作品の核心となる意味と個々の台詞の狙いについて真っ先に説明し終えた後は、俳優たちの提案に耳を傾け、自らもテキストのいくつかの箇所をその場で書いては手直しを行い、その都度彼らの観察眼に信頼して演じさせてみた。
彼自身は観客に徹した。そして口を挟むのは、日常会話からソングを一層際立たせたいと思った時だけである。
これが彼のソングの秘密である。それは大体いつも、舞台の中ほどの高さに掛かる有名なブレヒト幕の前後で響き渡った。パウル・デッサウが書いた『肝っ玉おっ母』や『コーカサスの白墨の輪』の曲が、『男は男だ』や『三文オペラ』のクルト・ヴァイルの曲にどれほど似ているとしても、そのアンチテーゼ的歌詞に対して一度たりともただの伴奏に甘んじたことはない、それが何故かは理解されていただろうか。(…)
ヴァイルと『三文オペラ』の打ち合わせ中だったブレヒトを、私はふいに訪ねたことがある。彼は口笛やピアノを使い、メロディのいくつかを途切れ途切れにきつい調子で奏でていた。アクセントをつけ完璧にやってみせたため、クルト・ヴァイルがそれ以上手を加えることがないほどだった。ちなみに、彼にとってソングは常に作品の核心だった。あたかも実生活から切り抜かれてきたかのように、ソングはシチュエーションの要点を伝え、彼が求める観客との直接の接点を作り出すのだった。その意味でハリウッド時代のヴァイルが、ブレヒトなしでは同等の力や音楽的な豊かさを発揮できず、またラングの映画『真人間』で、早くも自作を剽窃しなければならなかったとは、奇妙なことではないだろうか?
『イングランドのエドワード二世の生涯』以降、ブレヒトはあまり知られていない作品を徹底的に練り上げ、自分のものになるまでその中身を作り変えていくやり方を好んだ。スタンダールのように彼もまた、出会った作品の中に常に利点を探した ―― 良心の咎めるところなく。「模倣というのは」と、彼は戦後『Theaterarbeit』誌に書いた。「それ自体、巨匠が名人たるべき立派な芸術だ。彼はそれを鮮やかにやってのけなければならない。なぜなら、模倣なくして巨匠は、模倣されるにふさわしいものを作り出すことができないからだ。」
彼が試みたのは、頑固なまでに文に流れの原型を作ること、俳優の動きのように、文から装飾をとことん取り払うことであった。こうして彼は、ついに最終目標である秘められた場所を文の中に暴き出し、そこから一つの言葉を取り出し、辛辣な社会的意味を生み出した。―― これをブレヒトは、広く過去の作品について行っていた。
私は彼が聖書の箇所を読んでいるのを何度も目にした。彼は、マルティン・ルターの手で刻まれたこの力強い叙事詩をじっくりと味わった。それから気に入った言い回しを小さな手帳に書き留めた。ドイツのことわざについても同じであった。彼はこの地で生まれた格言集が好きだった。
ある日、彼は私にフランソワ・ヴィヨンのドイツ語訳詩集を貸してほしいと言った。ちなみにそれは、詩人K・L・アマーの手による実に美しい訳だった。彼は長い間この本を手元に置いていた。そして何年も経って返してくれた時、余白は一面メモの走り書きで埋まり、本のあらゆる箇所に詩の断片が書き残されていた。(私はこの本をブレヒト博物館に寄贈した。)
さてもうおわかりだろう、パプストによる『三文オペラ』の映画版が、ブレヒトに強いショックを与えたに違いないわけが。自分の作品の思想や文体が毀損されたことに、彼は我慢がならなかったのだ。
数多くの事前打合わせの結果、ブレヒト、レオ・ラニア、パプストは共同制作を試みることとなった。三人はフランス南部にある、私の記憶が正しければブレヒトがよく訪れていた“ル・ラヴァンドゥー”という地へ赴いた。間もなく、まったくタイプの違う二人の芸術家、ブレヒトとパプストの間で衝突が起こった。そして提案をことごとくはねつけられたブレヒトは、自分の利益を守る役目をラニアに託し立ち去った。
ラニアはアメリカの雑誌『Cinemages』のインタビューで、最初の24時間で共同制作のあらゆる可能性は幻想に終わり、ブレヒトはさっさと「映画から手を引いた」と語った。それはおおよそ私の記憶とも一致する。にもかかわらず、パプスト・フィルムのハンス・カスパリウスの主張によれば、衝突の後ブレヒトはもう一度姿を見せたという。撮影初日のスタジオで、台本を要求されたとおりにその場で書き直したというのだ。時として記憶はあいまいである。パプスト・フィルムの編集者ジャン・オーザーは『Cinemages』誌の別のインタビューで、ヴァイルとブレヒトの事柄を混同しながらも、ブレヒトが勝訴したと主張している。
というのも1930年秋、ブレヒトとヴァイルの2人は4人の弁護士を立て、制作会社ネロ・フィルム相手に訴訟を起こした。だがそれは、裁判官の要請による第一回公判から物別れとなった。ブレヒトは訴えをより詳細に述べた。曰く、編集に関する全権を彼が有するという条項が契約書に追記されたにもかかわらず、彼が全く納得できない台本に基づく映画化が行われようとしている。このように好き勝手な進め方をされては、作品の内容や様式も保証され得ないと。
ヴァイルがこの訴えを支持した。映画には彼が書いていない一節まで付加されている。さらに彼のソングの挿入された位置が原作と異なることも確認した。それゆえ作家の権利を守るため、両者は台本製作の中止を要求し、受け取った報酬については返却することとする。(1)
『ロッテ・H・アイスナーのヴァイガート議院におけるブレヒト訴訟報告抜粋
フィルム・クリーア』1930年10月18日号
ヴァイガート裁判長の質問に対し、ブレヒトが述べる。「私にとって重要なのは、根本である様式の問題です。『三文オペラ』の基本となる要素は、昔の『乞食オペラ』とは全く別のものです。後者はただの原料に過ぎません。私にとって重要なものは、人々はそう信じているようですが、単にタイトルではありません。決め手となるのは、私の様式や内容の根本的要素が、『三文オペラ』の芸術上の独自性が、守られるということなのです。
三文オペラを土台に『乞食オペラ』を撮るということが財政上の損失を意味することは、私にはわかっていました。が、それは大して重要でありません。これは私の著作権に関わる問題なのです。私の作品、即ち作品の内容、様式、タイトルを守ることは私の権利であり、義務でもあります。私は知りたいのです、映画会社に委ねられた作品は、どこまで守られ得るのかを。」
ヴァイガート裁判長は、この問題の芸術的側面について当法廷で判断を下すことはできず、法的な立場に関して判断するのみであることを強調する。
裁判長の質問と反対尋問に対しブレヒトが述べる。自分は『三文オペラ』が自分の意図に沿った形で映画化される権利を保持することを望む。
ヴァイガート裁判長は共感を示しながら審理を進め、映画訴訟の長い経験に基づき和解を助言するが、双方とも拒絶する。
次に、ネロ・フィルムのフィッシャー博士が述べる。『三文オペラ』は翻案であり、従って原作とは言えない、ブレヒトは自分でもアマー/ヴィヨンの歌を借用したと説明している、中世の作品にも著作権はある、彼はこの件における自身の怠慢を強調すべきである。フィッシャー博士は、今ブレヒトから出た著作権保持なる発言に耳を疑い驚きを禁じ得ないという…。
ブレヒトは軽蔑を込めた眼差しで、アマーとの間でそれは了解済みであり、ブレヒトはアマー詩集の新作に序文さえ書いていることを立証した。本件の場合、と彼は説明した、そもそも彼が守るのは自分の著作権、即ち文学上の所有権ではなく、(これが観客に対するブレヒトの非常に独特な姿勢なのだが)― 観客の所有権である、観客には、作家の意図に沿った完全無欠の作品を見る権利がある…。
1930年当時、まだベルリンにも裁判官がおり、議長は頼りになりそうだった。しかし官僚肌の裁判官たちが、ベルトルト・ブレヒトの過激な悲喜劇の社会的な影響範囲について果たしてどれほど理解していただろうか。それに加え、ネーベンツァールの弁護人の悪意ある邪推が彼を苛立たせた。ついに彼は、相手の言葉をまともに聞くことなく激しい異議を唱え、その後の騒動の果てに、弁護士たちに以降の審議を任せ法廷を去った。(2)
訴訟報告抜粋2
フランクフルター博士(配給会社トビスの弁護士)が個々の契約規定に関する証拠書類を取り上げる。博士は語る。著作権とは完成した作品に対し発生するものであって完成前にはない、しかしここに示されたものによると完成には至っていないとある、契約自体においても映画に対する著作権の補償は済んでおり、映画会社には希望があれば今後20年間映画化を行う権利がある。
11月5日、ブレヒトの訴えは却下された。その間パプストは、シュターケンのある撮影所内に建て直された旧ツェッペリン・ホールで、すでに撮影を開始していた。ブレヒトは制作の過程であらゆる議論を恣意的に打ち切り共同編集作業を取り止めたことから、契約の条件を満たさず、また作品の様式を裏切る行為に関する彼の要求は純粋に思想上の問題であり、契約自体によって保証されるものではないとするとのことだ
った。
いつも臨機応変で譲歩する用意のあったヴァイルは、まだ運がよかった。彼はネロ・フィルムから解雇されるまで仕事を続けていたため、自分自身に関する件に勝訴した。人々は皆ブレヒトのために大いに失望した。ホールは彼のファンで埋め尽くされ、ベルリンのほぼすべての知識階級が彼を支持していた。有罪の確定判決を受けたブレヒトは訴訟費用を払い、パプストが撮影した映画は甘ったるく飾り立てた作品となった。私たちジャーナリストはこき下ろしたが、映画は生き延びた。そして今この作品をじっくり見れば、不本意ながらそれなりのものであることは認めざるを得ない。
打ちのめされた作家は肩をすくめた。そして仕事にのめり込んでいった。――(確か彼は、当時ゴーリキーの『母』をドイツ語に翻訳していた)かつて彼の自主独立の精神を愛した人々は、もはや長くドイツに留まることはできないことが、彼にはすっかりわかっていた。
彼はヒトラーの民衆白痴化がドイツを窒息させる前に、友人であるブルガリア人作家スラタン・ドゥード
フと共に、かろうじて一本の映画を自主上映することができた:『クーレ・ヴァンペ』である。失業者の境遇を描いた、やはり叙事詩的な作品であった。特に列車内のシーンにおけるブレヒトの映画的な台詞回しが辛辣に胸に刺さる。彼はドイツを去った。周知のように国会議事堂放火事件の後、あの有名な「もし私がノートルダム寺院の塔を盗んだという容疑をかけられたら…。」★という言葉を残して。(3)
★モンテスキューの引用「もし私がノートルダム寺院の塔を盗んだという容疑をかけられたら逃げ出すところだ。」
そしてこのセンセーショナルな訴訟で、私は裁判官から特別な賛辞を受けた。結審にあたって彼は言った、『フィルム・クリーア』の記者は法律を熟知していると思われる、彼はこの裁判の経緯を正確に伝えた唯一の人物であったと。
この逸話を持ち出したのは自分の賢さを装うためではない。この賛辞が私を温かい気持ちにしたことを鮮明に覚えているからである。友人ハンス・フェルトはいつも私を推してくれていたが、熱い意欲にもかかわらず、今回のような重要な事件に派遣されることは、私には決して多くはなかったのだ。
ベルトルト・ブレヒトは、ベルリンで数少ない耳聡い知識人の一人だった。彼は早くから、国家社会主義が私たちの生命にもたらす危険を察知していた。一方で、ああ私はといえば、あんなにも過激で偏狭な運動は、極右のカップ一揆が衰滅していったように自ずと滅びていくだろうと、まだ見くびっていた。ユダヤ人中傷に関しても、それは絵本に出てくるカフタンを着たヒゲ面の東欧ユダヤ人の話で、自分には関係ないと呑気に思い込んでいた。ブレヒトは国家社会主義の台頭をバイエルンで知った。これに対して私たちは、ベルリンの赤の島で落ち着き払って「文化ボルシェビキ」とののしられるに任せ、ドイツの片田舎にゲルマンの最高神ウォータンがよみがえるのを、手をこまねいて眺めていたのだった。
ブレヒトはより賢明だった。彼はユダヤ人ですらなかったが、ナチスのブラックリストに載っていたため、大至急逃げ出さねばならなかった。パリで『カラールのおかみさんの鉄砲』が1937年に上演された時、私は彼と再会した。私は上演成功のお祝いを言った。彼の隣にはヴァイルがいた。ヴァイルは私を見てはっとしたが、すぐに笑って尋ねた。「ああ、ロッテ・アイスナー、『フィルム・クリーア』の取材ですか?」私はありのままを話した。「いいえ、『フィルム・クリーア』は権力掌握後退職しました。今はパリに住んでいます。」すると彼は、そっけなく背を向け立ち去った。自分の名声を広めてくれない私はもう用無しというわけだ。ブレヒトと一緒の最後のインタビューの後で、この男は私を片隅へ連れて行きこう言った。「私は成功を収めていると語ったと書いておいて下さい。どのみちブレヒトはすでにドイツでは人気を失っていますから。」
そう、こうしてあの時代に何人もの日和見主義者たちがその正体を現した。ブレヒトの別の“親友”アルノルト・ブローネン★は長年左翼に数えられていたが、ナチスの大波に乗ってファシズムへと漂着した。党員となるため、彼はユダヤ人の妻を棄てた。今思い出しても腹立たしいことに、亡命直前私は彼に長いインタビューを行い、自分の新聞に掲載していた…。
★オーストリアの劇作家
★:訳注
注釈
(1)ロッテ・H・アイスナー”Sur le procès de l’ opéra de Quat’ Sous” 月刊誌『ヨーロッパ・ブレヒト』1957年第35巻133-134号P.111-118(抄訳および引用は編者による)
(2)同
(3)同
(Lotte H. Eisner "Der Prozeß um die Dreigroschenoper" "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)
*掲載写真は、原書から転載したものではありません。
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