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『ブレヒトとラングの対立 ~ 映画「死刑執行人もまた死す」をめぐって』 ロッテ・H・アイスナー

 私はドーラ・マンハイムを通じてベルトルト・ブレヒトと知り合った。彼の勇ましい庶民劇と、その言語を駆使する能力を知ってから、ラBrechtbインハルトの舞台解釈は私とは完全に疎遠なものとなった。ブレヒトに比べれば、ラインハルトは天才的な舞台装置家の一人に過ぎなかった。また、私はラインハルトを個人的には知らなかったが、ブレヒトとはとても親しかった。彼と私は、ジャン=ミシェル・パルミエが亡命ユダヤ人に関する著書の中で主張するような友人の間柄ではなかったが(1)、私は彼の演劇を理解し、また賞賛もしていた。そして彼も、私が彼の演劇を理解し賞賛していることを知っていた。ブレヒトの周囲には、彼を理解する女性たちがいた。ドーラはブレヒトから去ったが、図らずもその時、直感的に自分より適した後任の手配を終えていた。彼女の知り合いのエリーザベト・ハウプトマンは、ヴェストファーレン生まれの内気な女性で、ベルリンで秘書の働き口を探していた。ブレヒトが口述筆記者を求めていることを知っていたドーラは、エリーザベトを彼のもとに送った。ブレヒトはたちまち彼女に魅せられた。彼女は地方出身者の澄んだ美しさの持ち主で、ごわごわのスカーフを肩に巻きつけ、素朴でやや世事に疎く、それでいて明敏な知性を感じさせた。私はこの女性と親しくなった。彼女はブレヒト正規の職員、秘書、恋人、共著者となった。アメリカ亡命の際には彼女は先に現地へ入り、彼とその家族の受入れのための下準備を整えた。

 戦後エリーザベト・ハウプトマンは、東ベルリンのブレヒト劇場、すなわちベルリーナー・アンサンブルの文芸部員となった。ブレヒトは彼女の名字を私の名字のようにバイエルンの田舎風に読み替えて、“ハウプトメニン”と呼んでいた。この名字は新しい世界では彼女には重荷だった。世界中の新聞雑誌が書き立てたあの悪名高き児童誘拐、リンドバーグ事件の犯人の名が同じハウプトマンだったのだ! 信じられないことかもしれないが、このままずっとハウプトマンを名乗るのは彼女には耐え難いことだった。そこで彼女は、ブレヒトの二人目の音楽担当者パウル・デッサウと電撃結婚をした。しかし実家を離れることはなく、苦痛逃れの婚姻に過ぎなかったことは誰もが承知していた。

 エリーザベトとは、私がフランスへ立つことを余儀なくされた際も、戦争の勃発までは連絡を取り合っていた。その後私は姿を隠さなければならなくなり、消息を絶った。戦後になって知ったことだが、彼女は私のために合衆国のビザと就労許可証を調達してくれていた。だが私の滞在先を見つけ出すことができなかったため、私はしばらく死んだものと思われていたということだ。

 私が評論家としてヨーロッパに留まったことは、おそらく正解だったのだろう。知識人や芸術家たちは皆ある程度の地歩固めができたというが、評論家からはそんな話は聞かなかった。私の知る限り、映画評論家は誰一人、現地の商売がたきに太刀打ちできなかったのだった。

 ベルトルト・ブレヒトが東ベルリンへ渡った後、もう私たちは会うことはなかった。しかし私はたびたび、彼があの息苦しい東側の空気によく辛抱しているものだと驚かされた ― 自由を何よりも愛したあの人間が。もし彼が望みどおりに、個人としてもプロレタリア文化の広告塔となれたのだとしたら、自分を取り巻く環境を感じ取ってもいたに違いない、何千もの人々が西の方角を向いて忘れようとしていた窮屈な環境を。

 ブレヒトが亡くなった時、私は二つの奇妙な出会いを経験している。パリの“サラ・ベルナール劇場”で彼の追悼公演が行われた。エレベーターに乗った私は、ふいに昔の知り合いの顔に気づいた、それはエルンスト・ブッシュだった。
    *『三文オペラ』に出演、大道芸人役で歌った。

 「ボン・ジュール、ムッシュ・ブッシュ」と私は言った。彼は眉をしかめて尋ねた。「ロッテ・アイスナー、いつからこちらに?」私は笑って答えた。「1933年からですよ。」彼は握手の手を差し出しながら語った。「近頃では握手する人間など誰ももう気にも留めません、相手が人殺しかもしれないなんてことにはね。ドイツで私は強制収容所にいました。―― ひどい目に遭いましたよ。」――「私はフランスのギュルス収容所です。」と私は言った。「そこでの3ヶ月で、4本の歯と夢をいくつか失くしました。―― 確かに生易しいものではなかったですね。」私は、俳優エルンスト・ブッシュがまずギュルス収容所に入れられ、その後ナチスによってドイツ国内の収容所に移送されたことを知った。

 二つ目の出会いがあったのは私の自宅だった。長年家族ぐるみのつき合いをしているエドゥアール・ロディティが、一人の若いアメリカ人兵士を伴ってやって来た。彼は名乗らなかったが、私に手を差し出した。その手を見て私は叫んだ。「まあ、これはブレヒトの手じゃないの!」――「スティーブン・ブレヒトです。」と彼はアメリカの発音で言った。ベルリンにいた頃、私はまだ小さな子供だったシュテファンを膝に乗せたことがあった。が、重大な年月を彼は合衆国で過ごし、両親ヘレーネ・ヴァイゲルとベルトルト・ブレヒトがドイツに帰った後も、そのままアメリカに留まったのだった。
  ★フランス生まれのアメリカの詩人、作家、評論家

 私は、ブレヒトの民衆劇の純正を守る権利に賛同した。また心の中では、口先がうまく如才ないパプスト、実生活のどんな状況下でも渡っていく術をあきれるほど心得ていたあの男に対し、彼を弁護もしてきた。しかしその分、ブレヒトの考えを映画に転用することについての私の見解は時と共に変わった。それは映画史上最大といわれる二度目の対立が起こったからだ。そして、フリッツ・ラングもベルトルト・ブレヒトも、共に私にとって大きな存在だったことから、今回私は苦しい状況に立たざるを得なかった。

 その対立は、ハイドリヒ暗殺事件直後に制作された、有名な1942年の反ナチ映画『死刑執行人もまた死す』をめぐって起こった。ドイツからの亡命者とアメリカ人女優がチェコ人役に扮し、ハリウッドで撮影が行われた。もしラングとブレヒトがドイツに留まっていたなら、おそらく決して一緒に映画を撮ることなどなかっただろう。しかし文化的日照り状態のカリフォルニアが、このドイツからの新参者たちの距離を縮めたのだった。

 ブレヒトは、1942年7月28日の撮影日誌にこう書き留めている。

 この地で労働者に向かって優れた文学作品を読めなどと言うことが、いかに恥知らずで馬鹿馬鹿しいことかよくわかった! こんな環境にいたら私自身もう読む気にもなれない。

Hangmen  こう気づいた彼は、フリッツ・ラング、アメリカ人作家のウェクスリーと共同で『死刑執行人もまた死す』、あるいは当初のタイトル『降伏するな』の脚本を書くにあたって、そもそもアメリカの観客が、もっと気軽に楽しめる芸術(もの)を欲していることを思い知らされたに違いない。―― それは、すでに1934年にアメリカに渡っていたラングが、彼よりも早く学んだ教訓だった。ラングが作者にブレヒトを思いついたのは、彼の脚本に一途な信念や政治への関与、そして何よりも、目下チェコで経過が監視される、悪名高き第三帝国高官の暗殺事件に対する政治的洞察を期待したことによる。ウェクスリーは英語版を書くことになっていた。ブレヒトは英語がほとんどできず、また間もなくドイツへ帰国することができると踏んでいたため、学習する気すらなかったからである。3ヶ月後の協議に、3人の作家はそろって280ページの原稿を提出した。その内容は主としてブレヒト着想のものだった。ところが突然、財政の都合上192ページに切り詰めるようプロデューサーが要求した。撮影開始が3週間早まったという。削除されたのはブレヒトが特に気に入っていた大衆のシーンだったが、ストーリーの進行上は影響がなかった。ウェクスリーが書き、ブレヒトが甘ったるく感傷的と断じたいくつかのシーンが、気がつけば撮影台本に復活していた。そして映画の撮影は、脚本担当の彼が事態を正しく把握もしないうちに始まっていた。ブレヒトはラングの仕事の流儀について、日誌にあからさまで辛辣なコメントを何度も記している。フリッツ・ラングは、この日誌についてはブレヒトの死後しかるべく扱われ、その一部はまったく彼らしくない発言とみなされるだろうと考えていた。ラングはブレヒトの書いたページをとても気に入り、また後に脚本はすべて自分が書いたなどと主張するウェクスリーの、法外な要求から彼を守った。しかし映画の製作過程をめぐる次のような露骨な嘲りの言葉は、実はすべてブレヒトのペンが産んだものである。

1942年6月29日
再三繰り返される注目すべき専門用語、これまでの経過や今後の進行を議論する際に使われるロジックは、「観客に受ける」だ。ゲシュタポが家宅捜索をする際、地下活動のリーダーは窓のカーテンの背後に隠れる、これは観客に受けるぞ、衣装戸棚から落下する警部の死体もだ。また、ナチの恐怖政治下で行われる民衆の「秘密の」集会といったものにラングは「賭ける」が、興味深いことに、その関心はサスペンスよりも観客を驚かすことに向いている。

1942年7月5日
私がストーリーを口述筆記させている間、ラングは撮影所の高い場所で、出資者と交渉を行っている。プロパガンダ映画のように、数字はどんどん下がっていく。そしてとどめを刺されたような叫び声が: 30万ドル-8%。
「もうできない。」私は秘書と庭に出る。大砲の轟音が海から聞こえてくる。…

 その後、自由に使ってよいと言われた俳優たちの写真を芸能プロダクションから受け取った時、ブレヒトの我慢は限界に達していた。「ウルマー市立劇場のプログラム・ノートから抜き出したようなツラだ。」(1942年7月27日)

 もちろん私は、ブレヒトの気持ちに共感もするし、彼の主たる業績が正当に評価されなかったことに憤りも感じる。しかし、彼には映画製作の実務への認識が乏しかった。群衆の場面を大写しで効果的に撮ろうとする場合、プライベートなシーンやクローズアップを間に挿入しなければ、退屈なほど動きがなくなってしまうこと。また、一見取りとめもないおしゃべりのシーンが非常に重要であること。例えば、結婚初夜のネグリジェの襟ぐりの深さについて、ヒロインと叔母がけんかをするシーン。後に新郎新婦がヒトラーの手先によって命を脅かされた時、それが一層の恐怖を呼び起こすことになるのだ。…

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 現実主義者のラングには、プロデューサーの抵抗や観客へのわかりやすさという原則と衝突することなく、ブレヒトのアイディアにどこまでついていけるかがよくわかっていた。その際彼は、映画の真実味を犠牲にすることはなかった。彼にとってものを言うのは事実の力であった。彼は政治的な出来事の数々をあらゆる面から描く。そしてその距離を置いた冷静な撮影スタイルにより、プラハの抵抗者たちは時にとらえどころなく映ることすらある。彼らの戦いをラングはもうすっかり我がものとしていた。―― ヒロインが裏切り者かもしれないという疑念が生まれる瞬間に、群衆がいかに危険な暴徒と化し得るかを彼は描くのだ。

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 文化のないカリフォルニアという地にあって、ブレヒトの悲運は誰の目にも明らかだった。しかし私に言わせるなら、真に痛ましき人物はフリッツ・ラングだったのだ。1920年代の映画の封切の際にはベルリン中を大興奮に巻き込んだ、あの偉大なフリッツ・ラングが、ここではたった一人孤独に戦う片目の戦士であった、ニーベルンゲンの大叙事詩に登場するハーゲン・フォン・トロンイェのように。

*:原注
★:訳注

注釈
(1)ジャン=ミシェル・パルミエ『L’Expressionisme et les arts』パヨ社パリ1980年

 

(Lotte H. Eisner  "Kontroverse Brecht-Lang über: Hangmen Also Die"  "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)

*掲載写真は、原書から転載したものではありません。

 

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