『縁結び』 ロッテ・H・アイスナー
私は、同じ通りに住む隣人とも少しずつ親しくなっていった。そこは本当に住みやすい地域だった。私の住居は新築アパートの4階にあり、部屋からは数本の樹木を目にすることさえできた。今の住居にはそれがない、空き地が建物ですっかり塞がれてしまったからだ。このため私は緑を外から持ち入れている。草花のない生活など私には考えられない。
いつも休みなく働いている義姉が私の持ち物を送ってくれたため、友人たちを自宅に招こうという意欲が戻ってきた。私が交流していたのはラングロワの仲間たちで、そこには外国人もとても多かった。私と同様に、ラングロワは多様な民族の人々の中にいるのが好きだった。世界市民のような気持ちでいた私たちには、少なからぬフランス人があらゆる外国人を横目で見る狭量さが理解できなかった。
アンリが最初に恋したのは、イタリア人のジュリア・ヴェロネージだった。彼女はアンリの助手を務めていた。ジュリアはただ者ではなかった。スラタン・ドゥードフ★がコミュニストの策略によってフランスで投獄された時、彼女はその解放を手伝い、イタリアにいる反ファシストの友人コメンチーニとラットゥアーダの元へ連れていった。アンリは当時まだとても奥手だった。彼はジュリアにまともに近づくこともなかったため、二人の関係はプラトニックに終わった。ややあって、彼はユニークな魅力のダンサー、カトリーヌ・ヘスリングにひと際激しい恋をした。彼女は夫ジャン・ルノワールと別居中だった。このころ私は、カトリーヌやそのブラジル人の女友達ディド・フレイレととても仲が良かった。
開戦直前の1939年7月14日にも、私はカトリーヌと二人で彼女のバルコニーに座り、暗い予感で一杯になりながら、軍の行進を見下ろしていた。フランスはこの戦争への準備ができていないと私たちは思った。
★ブルガリア生まれのドイツの映画監督、脚本家
カトリーヌとディドは同居し、すさんだ生活を送っていた。ラングロワが恋心を抱いた当時、カトリーヌはスイス人男性と付き合っていた。彼女たちはエーテルを吸い、遊びと称して百貨店で万引きをした。しかし、後年ディドはこれら若き日の過ちに触れたがらなかった。彼女はルノワールにも私にもすべて否定した。カトリーヌの方がはるかに奔放だった。彼女がルノワールと別居したのは、自分を主演に撮った初期の作品(『女優ナナ』『ボヴァリー夫人』など)で名を知られるようになった彼が、もっと金になるよう、より有名な女優たちを起用したからだった。これが彼女を怒らせた。カトリーヌは再び原点のダンサーの仕事に情熱を注ぎ込み、華やかなレヴューに出演した。私は一度彼女のヌード・レヴューを見に行ったことがある。黒のハイネックのロングドレスをまとった彼女は、舞台の中央で目を引いていた。赤みがかったブロンドの豊かな髪とのコントラストが艶やかだった。私は、ラングロワの彼女への想いが本物の恋愛に実を結べばいいと思っていた。だが私の後押しにも拘らず、二人の関係は進展しなかった。私の“縁結び”には、全く効き目がなかった。
今思い出しても恐怖にかられることがある。あるレズビアンの女性が私に恋をした、だが私は気づかなかった。これが彼女を、私と結婚したがっていたある男性へと走らせた。それはどちらにも大きな不幸をもたらした。彼女は自殺し、私は自分のせいだと思った。しかし、ディドが友達のカトリーヌにした仕打ちは、ラングロワとカトリーヌの縁を取り持とうとした私の失敗よりも、はるかに不愉快なものだった。
ある日彼女は私に言った。「ロッテ、ジャンとカトリーヌが仲違いしているなんて残念だわ。二人はお互いのものなのに。私、何とかして二人を仲直りさせるつもりよ。」
ルノワールは当時、ローマで撮影する意向の映画『トスカ』の準備に入っていた。ディドはスクリプト・ガールとして同行した。経過は書いて知らせると彼女は私に約束し、最初はその通りにした。多くのハガキがイタリアから届いた。が、突然通信は途絶えた。実のところ、少し前から何か妙な感じはしていたのだ。次に私に届いたのは、ディド・フレイレとジャン・ルノワールが結婚したというニュースだった。しかも、 カトリーヌに知らせることも、その同意を得ることもなく。カトリーヌは泣きながら私のところへやって来た。彼女には、何故こんなことに
なったのか理解できなかった。私は尋ねた、「ねえカトリーヌ、貴方たち教会で結婚したの?」――「違うわ」と、彼女は強い剣幕で否定した。「お父さんのルノワールがきっと許さなかったもの。」――「それなら、」と私は察しをつけた。「こういうことよ。二人はサン・レモで一方的に婚姻を解消して、正式な式を教会で挙げたんだわ。」
それはディドがカトリックだったからだ。この出来事はフランスで大きなスキャンダルとなった。国外にいる間に、ルノワールは重婚を厳しく非難された。彼は長い間母国に足を踏み入れることができず、ハリウッドに逃れ、戦争中はずっとフリッツ・ラングのすぐ隣に住んでいた。
私はルノワールがとても好きだったが、完全にカトリーヌの味方に付いた。しかしやがて、―― 嫉妬深さという点では彼女の上を行く ―― メアリー・メールソンが突如ラングロワのグループに姿を現すと、彼女は私の前からいなくなった。メアリーはまずジュリア・ヴェロネージを追い払った後、思い込みにとらわれやすいラングロワの性格をしたたかに見抜いて、カトリーヌ・ヘスリングに照準を定めた。若い頃には絵画や写真で(ココシュカやマン・レイの)モデルも務めたメアリーは太りやすい体質で、すでに太り始めてもいた。だが彼女は、私と同じく靴に目がなかった。私たちは二人とも、しゃれた靴を買うのが大好きだった。ある日カトリーヌは、メアリーがエレガントな新しい靴を履いているのに気づき、無邪気に感嘆の声を上げた。「メアリー、貴方の今日の靴、なんて素敵なの!」
後日メアリーが街を歩いている時、彼女の靴は真ん中から次々と裂けた。それを彼女はアンリにこう告げた。「カトリーヌはひどい人よ、目つきが陰険だわ。私の新しい靴に焼きもちを焼いて、破けるように細工したのよ。」破けた原因は、彼女の足がそのソフトな革の靴を履くには太くなりすぎていたためだったのだが、ラングロワは彼女の言葉を真に受けた。彼はメアリーを畏れていた。実際カトリーヌは、カリスマ的な魅力を持つ型破りで扱いにくい女性だったため、アンリは彼女が悪女なのだと思い込み、つき合いをやめた。面倒臭くなった私は、この馬鹿らしい事態をしぶしぶ受け入れた。今では、堂々とカトリーヌの味方をすべきだったと後悔している。私はまた、アルベルト・カヴァルカンティのようにきっぱりとした態度も取らなかった。彼はディドのいわゆる“復縁話”の顛末を聞き、ルノワールとのあらゆる関係を断ってしまった。戦後、私はビヴァリー・ヒルズのフリッツ・ラングのもとへ出かけた折、ディドとジャンを訪ねた。二人の家は、そこがハリウッド近郊であることを忘れさせた。彼らは自宅に“優しきフランス”を取り入れて、来客を温かくもてなしていた。訪れた人はフランス製ワインとチーズをふるまわれ、その目は知らず知らずのうちに、見事に手入れされたディドの庭や、壁に掛かる高価なルノワールの小品に釘付けとなった。私には、彼らに対していつまでも冷たい態度を取り続けることはできなかった。
ルノワールが心身ともに衰えを見せ始め、父親同様車椅子の生活になるまで、ディドは夫に誠実に尽くした。父ルノワールは老齢になるとほとんど身動きがきかず、絵筆を指に結びつけて絵を描いていた。晩年のジャンは頭の錯乱が進み、日常のすべてにディドが手を貸していた。
ジャン・ルノワールの映画に思いを馳せる時、私の頭にいつも浮かぶのはあの有名な肖像画、赤みがかった巻き毛が少女のように肩にかかるジャン少年の姿だ。しかしその表情は確かで、赤い頬は健康そのものである。このコントラストはジャンの映画にもまた見ることができる。詩情豊かでロマンティックな傾向と、それとは別の ―― 野蛮な現実へと追い立てる傾向である。『ラ・マルセイエーズ』製作に没頭していた当時、彼は映画の最初のシーンについて描いている構想を、私に話してくれたことがある:
パリのセーヌ川下流の橋の上で、二人の釣り人が談笑している。突然多くの死体が流れてくる。それを見た片方の釣り人が言う、パリで何かが起きているに違いないぞ。
これがルノワールの妥協を知らぬ過激な一面である。だが、残念ながらプロデューサーの反対に遭い、より穏やかな冒頭シーンに変更したのだった。印象派的なロマンティストの面については『ピクニック』が挙げられる。この映画のモノクロの陰影は、父ルノワール風の淡く優しい色合いをたたえている。私がこの作品を見たのは、[俳優]ジェラール・フィリップが亡くなった当日だった。私にとっ
ては二重の哀しみだった。というのも、同じ日の夕刻に、私たちのかけがえのない友でシネマテークの名誉会長でもある、監督のジャン・グレミヨンもまた死去したからだ。すっかり打ちひしがれていた私には、もはや映画の導入を務める気力などなかった。が、私以外にはいなかった。ジャン・ルノワールを観客に紹介し、しかるべきスピーチを行わなければならない。私はメアリーに急き立てられ、何とかこれをやり遂げた。続いて作品を初めて見た私は、一気に幸せな気持ちに包まれ、悲しみを忘れ去った。上映後、私はルノワールのもとに行き、感謝を伝えた。「ジャン、まったくとんでもなく美しい映画でしたわ。」彼は笑って言った、今の言葉は自分の映画に対してもらった最高の賛辞ですよと。
★および[]内の補足:訳注
(Lotte H. Eisner "Match-Making" "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)
*掲載写真は、原書から転載したものではありません。
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