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『シネマテーク初期~メッシーヌ通り7番地(1945-1955年)』  ロッテ・H・アイスナー


[補 足]
開戦直前の数年間、アイスナーは時折郷愁に襲われながらもパリでラングロワらと放縦な日々を送っていた。しかし、1937年ナチスはオーストリアとチェコを併合、プラハのハンス・フェルトは再び亡命を余儀なくされ、ベルリンの兄フリッツにも遂に軍の手が延びる。からくもパリへ脱出した兄は、長男の住むロンドンへ妻と移住する。だがパリの妹一家のもとにいた母は、ベルリンへ一時帰郷したまま捕えられ戻ることはなかった。
1941年5月、パリ在住のドイツ国籍女性に対する警察の出頭命令により、アイスナーは他の女性たちと共にギュルス強制収容所へ送られる。そして苛酷な4ヶ月か月を耐えた後、同情的な士官の手助けによって脱走、義弟が残しておいてくれた200フランと書置きを頼りに、その友人宅に避難する。在留資格のなかったアイスナーは大学に登録し、一時的に学生身分証を得るが、偶然再会した古い友人やラングロワらの支援によって、「アルザス出身のルイーズ・エスコフィエ」として偽の身分証明書を獲得する。だが強いベルリン訛りがあったため安全とは言えなかった。
地方に逃れたアイスナーは、当初ラングロワの依頼で廃城に住み、彼がナチスの没収を恐れて隠しておいたフィルムの確認整理に当たるが、それが済むと女学校の料理人として潜伏する。やがてナチスが進軍し身の危険が及ぶが、レジスタンスを支援する女性マダム・ギターに匿われ終戦を迎える。1945年、迎えにきたラングロワらと共にアイスナーはパリへ戻る。   (by まあしゅ)

 1936年に正式に命名されたシネマテーク・フランセーズは、私が不在だった5年の間にめざましい発展を遂げていた。アンリは、大物の後ろ盾が得られることを初めから信じて疑わなかった。事が動き出すきっかけを作ったのは、最初に若きアンリの発言を見込んだポール・オーギュスト・アルレだった。彼の仲介で、アンリは映画制作会社アルバトロスの社主アレクサンドル・カメンカと知り合った。カメンカは、所有Langlois_20240614065301するフランス最高峰の巨匠の作品をアンリに預けた。[マルセル・]レルビエ、アベル・ガンス、ジャン・エプシュタイン、ルネ・クレール、マルセル・カルネ、ジャック・フェデー、ジェルメーヌ・デュラック、そして全ソ連国立映画大学の作品である。このジェルメーヌ・デュラックが、すでに組織されていた映画アーカイブの国際連合を通じて、シネマテークを公式なポストに位置づけることをまず思いついた。FIAF[国際フィルム・アーカイヴ連盟]が設立されると、シネマテークは政府の管理下で、執務室とささやかな助成金の申請を保障された。アンリがイギリス、ドイツ、アメリカの海外パートナーとフィルム交換を行うルートは、政府で公務に就くスージー・ボレルとイヴォンヌ・ドルネスによって整備された。彼は外交使節を通じてフィルムを無料で送ることができた。さらにドルネスは、パリがナチスに占領され、ハリウッドの反ファシスト映画やロシア映画など、アンリが特に気がかりだった貴重な作品が危険にさらされると、装甲車両を手配してフィルムを地方へ運べるよう力を貸した。蓋を開けるために私の指の爪がささくれてしまった、例のフィルム缶だ。これらの映画が実際どの程度まで危うかったかは、今では正しく判断することはできない。あるいはアンリは、どこか他の古い納屋やキノコ農家、友人たちの家にもフィルムを隠していたのかもしれないが、それについても確かなところは不明だ。例えばもし、私が正確な隠し場所をアンリに伝える前に命を奪われてしまったら、彼は戦後どうやってフィルムを探し出したらよいのだろう? 彼は老優ミシェル・シモンのもとにも、ひと固まりのフィルムを隠していた。戦争はとうに終わっていたが、彼がそれらをどうしたか私は知らない。ある日、このことが一瞬また私の脳裏を横切った。
   ★『決定的な出会い』参照

 「アンリ、もしミシェルが突然亡くなって、家族が散り散りになってしまったらどうなるの? ジェルメーヌ・クルルのことがあったじゃないの。写真のネガ全部を預けていた友達が死んで、みんな無くなってしまったのよ。」
  ★ドイツの写真家

 だが、Meliesfilmアンリは何事も神秘的に捉える質だった。すなわち、自分とコレクションが危険にさらされていると感じるには、常に理由があるのだ。もしなければ、彼は自ら理由を考え出し、またも謎めいた場所に貴重なフィルムをせっせと隠すのだった。戦争前アンリがフィルムを預けた中には、その役割を担うにふさわしい、信頼のおけるキュレーターがいた。私の前任者となる彼は、誰あろう幻想映画のパイオニア、ジョ ルジュ・メリエスその人だった。老齢に至り、引退してオルリー城にある映画人のホームに入居していた彼は、シネマテークと映画博物館の構想に深く共感した。彼の協力によって最初の保管場所の心配がなくなり、アンリと[ジョルジュ・]フランジュは古い映画フィルムをどんどん集めた。映画館主やフィルム製作所の多くは、棚が空き新しいフィルムが貯蔵できることを喜び、専門機関で保護管理されるべきだった昔の映画のさびついたフィルム缶を、この一心不乱なコレクターたちのためにどっさりと下ろした。映画に対する私たちの旺盛な食欲は、用意された部屋の収容能力をはるかに凌駕していた。

Melies  そこでジョルジュ・メリエスは、城の庭園にある馬小屋だった建物を、倉庫に利用することを思いついた。メリエス自身が、その保管所とさびた大きな鍵の管理を任された。しばらくの間は順調だった。やがてドイツ人がやって来ると、アンリはフィルムを一部地方へ避難させたが、残りはパリの占領軍政府に譲渡しなければならなかった。帝国映画アーカイヴがFIAFの運営を引き継ぎ、アンリは一時的にコレクションの一部を奪われた。彼が兵役に就いていた短期間、フィルムはドイツ軍の使用に委ねられた。アンリが兵役から戻った時、そこには何も残っていなかった。フィルムは使った後破棄されてしまったのではないか、彼の心に不安が募った。だが幸いにも、ジェルメーヌ・デュラックと二人で、ラングロワ家の向かいの小さな映画館にフィルムの多くを偶然見つけることができた。デュラックは、ドイツ人の要請で自らの監督作品を探しているところだった。フィルムの管理を命じられていた職員は、その使い途を全くわかっていなかった。彼は喜んでこの正当な持ち主にフィDulac ルムを返却した。

 占領下、アンリは自らの職権を活用して可能な限りのフィルムを救い出し、また姿を隠さなければならなかった友人や、レジスタンス活動を行っていた友人を助けた。解放後まもなく、情報省の管轄に置かれたシネマテークは、メッシーヌ通り7番地に、初めて独自で使える複数の部屋を提供された。国家の助成は受けるが国有ではない、これはラングロワが繰り返し強調していた重要な柱である。なぜなら、国家機関にはアナーキーな精神も革新の精神も無く、詩情と無秩序の区別もつかないからだ。新しい会館につくられたのは、各国の映画関連書籍や新聞、古い雑誌をふんだんに取り揃え、関心のある者は自由に閲覧することのできる図書室と、珍しいスチール写真や撮影風景の写真を収めたフォトライブラリー、また90座席を備える映写室は常に超満員だった。私たちはここで毎日3本の異なる映画を上映した。

 そして1948年には、映画博物館を開くというアンリの夢も実現した。そこはあまりに狭小で、これまで私たちが集めてきた昔の機材やポスター、原稿や背景画、衣装の数々を収めるにふさわしいとはいえなかったが、すでに典型的なラングロワらしさを漂わせていた。彼が心を配ったのは展示品に生命を与えることであり、彼が造ろうとしたのは、ラベルを貼った多くの古いカメラが兵隊の点呼のごとく整然と並ぶ映画技術の博物館 ―― 決してそんなものではなかった。彼は多様な展示物を、目を奪う色彩とフォルムのシンフォニーに編成する術を心得ていた。その手にかかれば、撮影機材はきらびやかな夜会服、パンフレット、背景画と一つに溶け込み、生き生きとした新たな時代を開くのだ。彼は間仕切りや窪み、隠し扉、カーブ、秘密めいた薄暗い曲がり角を取り入れ、独自の迷宮Nielsenの館を造り上げた。人々はそこにまったく新しい価値を見出し、我を忘れて夢中になるのだった。

 1972年、ラングロワがシャイヨー宮に現在の博物館を開くと、ハンガリーの若い無名のドキュメンタリー映画作家が、彼を題材に短編映画を作った。そこには、死んだ物体の数々がラングロワの指で命を取り戻す様子、また、アスタ・ニールセンやルイーズ・ブルックスの衣装のしわを整える、彼の嬉々とした姿が映っている。

 ラングロワは、映画博物館の使命について、全く独自の考えを持っていた。彼が掲げる優先順位は、まず収蔵品を充実させることであった。保存はその次に来る問題だった。

 私は、シネマテーク・フランセーズの成功は、収集を保存よりも常に優先してきたことにあると自覚しています。もし映画が、絵画のように画商自らの手によって保護管理されるものなら、話は違うかもしれません。しかしシネマテーク設立後25年を経た今も、映画プロダクションはその三分の二が存亡の危機に瀕しています。まずはフィルムを救い出さねばなりません。救い出したフィルムをどう扱うかは、そのあとの問題です。私は、精力や予算を整理分類につぎ込むのではなく、あらゆる努力と信用とを注いで、廃棄寸前のフィルムや史料を救い出すフィルムセンターであることを優先させたいのです。これは、救い出したものを正しく保存処理することに反対だというのではありません。しかし、私たちのように使える補助金がごくわずかに限られている団体には、まさに選択が必要なのです。貴重な品が集まるだけ集まってしまえば、ラベルを貼る時間はあとでいくらでもあります。手短に言えばこういうことです、働き手がもし二人いるなら、私は収集と保存の両方を行うでしょう。

 しかし、成功の原則はこれだけではありません。私は集めたものを展示、すなわち人々の目に触れるようにすることに、一層大きな意味があると考えています。宣伝し、人を引きつけ、信望を得る、こうして人々との接点を築くのです。当館のフィルムは極力上映しなければなりません。映画は上映によって生きます。そしてコレクションの数々は、世界中の様々な場所へ送って展示し、でき得る限り多くの人に触れてもらうのです。もしその過程で展示物が失われるようなことがたびたび起こってしまうとすれば、それは残念なことではありますが、だからといって、映画の歴史を頑丈な金庫に封じ込めてしまう理由とはならない。私は映画信仰に背く行為はしません(Ich bin kein Film-Heide!)!

 パリ市立近代美術館での展覧会 ――『映画60年』が終了した時、名もなき人々が私たちのもとを訪れ、まだ知られていない貴重な品々を私たちに見せてくれました。それを彼らは誇らしげに私たちの手に委ねました。収集、上映、保存、展示、これがフィルムセンターの優先すべき使命の順位なのです。(1)

★および[]内の補足:訳注

注釈
(1)アンリ・ラングロワのインタビューの要約。ロッテ・H・アイスナー遺品の個人メモ。独訳および要約は編者による。

(Lotte H. Eisner  "Die ersten Jahre in der Cinémathèque 7, Avenue de Messine(1945-1955) "  "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)
*掲載写真は、原書から転載したものではありません。

 

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