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『お宝発見』  ロッテ・H・アイスナー

 私がシネマテーク・フランセーズの仕事で数知れず各地を旅した中で、ドイツ無声映画の有名な監督パウル・レニ(『裏町の怪老窟』)の夫人と会った時、彼女は私に言った。「くやしいわ。貴方ともっと早く出会っていたら、夫が描いたスケッチをお渡ししていましたのに。そうすればたくさんの展示会で見てもらえたでしょうね。今の映画アーカイヴではただ棚に置かれているだけですもの。」

 アンリ・ラングロワの上映映画の組み方は、彼が衣装をパンフレットと、ポスターを撮影機材と一緒に展示したやり方と同じだった。彼は毎日自ら手書きでパンフレットを作っていたが、整然と年代順に並べたわけではない。彼は昔の名作映画とアヴァン・ギャルド映画を一緒にし、またインド映画を、フランス語字幕版があったにもかかわらず、突如ベンガル語オリジナル版で上映した。このため、字幕を追う頭の作業によって映像の印象が薄まるということはなかった。フィルムは人間のように扱うべきである。空調設備の整った地下の共同墓地に横たえるのではなく、上映して新鮮な空気にさらすべきである。ラングロワはフィルムを生きた人のように家々に置いておくことを何より好んだ。「もし戦争が起こったら、空調が何の役に立つんだい?」

 終戦直後の数年間、メッシーヌ通りの私たちのところへは膨大な数の観客が訪れた。中でも魂の刺激に飢えていた少年たちは、ここで日常には無い映像をたっぷりと吸収していった。私たちのホールは小さかったため、上映のたびに多数の人に帰ってもらわなければならなかった。消防規定を気にする者はいなかったが、問題はそれほどの観客をどうやって中に入れ、どこに座らせるかだった。―― 毎回会場には少なくとも定員の20名以上が収容され、階段や床に腰を下ろしていたが、それでも場所は足りなかった。人々の騒ぎが収まらなければラングロワと私とで落ち着かせ、一人でも多くを中に押し込んだ。もちろん私たちお気に入りの観客もいた、それは熱狂している若者たちだ。彼ら、ゴダールTruffautやトリュフォーらは、上映する三本すべてにやって来て、いつも決まって席にいた。学生時代映画館に入り浸り、まさにアンリのようにずる休みの常習犯だったフランソワ・トリュフォーは、私の「可愛い坊や」だった。

 「トリュフォー少年は、床に座る時いつも一番前に陣取っていました。」と、私は幾度となく語った。当時の私たちの観客が、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの種となった。シネマテーク・フランセーズの上映がなければ、その種は、そしてルイ・マル、フォルカー・シュレンドルフ、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロルらは、皆せいぜい「カスパーと仲間たち」止まりであった。映画史60年を彩る秀作や駄作の数々を絶えず見続けたことが、彼らの眼を研ぎ澄まし、異なる視点を育てた。彼らは、自ら一夜にして映画作家となった。ちなみにラングロワは、決して映画を優劣で区別しなかった。彼の価値判断は全く相対的なものだった。彼はどんなものでも集めすべてを等しく重要とみなした。「それはね」と、その根拠を彼はこんな風に説明した。「今僕らが凡作や駄作とみなしている作品も、10年後、20年後には意味を持つようになるからさ。時代の生き生きした描写や様式化が、ふいに面白く見えてくるんだよ。」
  ★ドイツ語圏で古くから愛される人形劇のキャラクター

Nana  例えばジャン・ルノワールの『女優ナナ』がそうだ。当時の人々から酷評されたこの映画を、今では誰もが傑作と認めている。私がシネマテーク・フランセーズで働いた最初の15年間は、ほんとうに素晴らしい日々だった。戦争による物資欠乏にも拘らず、私は大木も引き抜かんばかりの猛烈なエネルギーを蓄え、めったに寝込むこともなく、また年齢もラングロワより18歳上だったが、一緒に旅に出かければ、その後ろを重たいフィルムを抱えついて行った。それは彼がいつもこう言っていたからだ、「ロッテ、貴方は僕なんかよりずっと力持ちだ。」私は仕事に全力を注ぎ、元気になった。私の正式な役職は“Conservatrice en Chef”すなわち“主任学芸員”だったが、その実体は “La Bonne à tout faire”―― 雑用婦であった。私は資料を収集し、保管し、手紙のやりとりを行い、アンリの手が離せない時には代表役を務めた。映画を鑑賞し、紹介し、講演を行い、展示会を手伝い、アンリに同行してFIAFの会議に出席した。仕事に終わりはなかった。アンリには時間の観念がなく、この一家の要である彼の精神は、建物全体を満たしていた。彼は、同僚たちも同じように働くことが当然だと思っていた。夜中の2時になって、やや疲れを感じ家へ帰って休もうかと思った矢先、デスクから彼の声が飛ぶ。「ロッテ」あるいは「イヴォンヌ、口述筆記をお願いできますか?」そして羽織ったコートをまた脱ぐといった具合だ。彼を非難することもたびたびだった。ある映画監督の次の回顧特集のプログラムに提案をしようと、彼が早朝4時にこの監督を電話で起こそうとした時のことだ。「アンリ」と私は言った。「考えてもみて、アメリカは夜中よ。ジャンは寝ているわ。」

 彼は聞こえないふりをした。なぜなら彼にはわかっていなかったからだ、誰もが自分と同じデーモンに取り憑かれた者であるとは限らないことを。私がそれだった。だからこそ私はここに腰を据え、言われるままに動き、時にはへりくだってアンリに花を持たせ、そして獲物をくわえ持ち帰ったのだ。

 「私は貴方の犬よ」と、いつも私は彼に言っていた。そして、話を公にしかねないジャーナリストがいない気楽なひとときには、彼はこう言って認めた。ロッテ、この博物館にある3分の2は貴方が集めたんです。」実際その通りだった、そしてそれが私は嬉しかった。時々私はこんなことを思ったりした。自分の考古学、美術史、映画史の経験に、“直感の助け”を付け加えようかと。

  『映画60年』展の準備をしている時、私はアンリから、フランスの映画建築家や美術監督を訪ね、出品を依頼してほし60-ans-de-cinmaいと頼まれた。入口を出かかった私に、彼はさらに叫んだ。「マックス・ドゥーイには楽に頼めるので最後にして下さい。彼とは友達だから。」何か妙な胸騒ぎを感じ、私は全く反対の行動、即ち最初にマックス・ドゥーイのもとへ出かけた。彼の家には、グレミヨンやルノワール、オータン=ララ、ベッカー、クルーゾーと働いた膨大な数の作品があった。私はどうにか彼の気持ちを和ませ、選抜きの作品を出してもらうことができた。その貴重な品々を、私はすぐにタクシーで近代美術館へと運んだ。翌朝一本の電話がかかってきた、マックス・ドゥーイの友人からだった。「信じられますか、マックス・ドゥーイの家が夕べ遅く火事に遭って、書割やスケッチが全部灰になってしまったんですよ。」その前日に私が第一級品を救ってくれたことに、ドゥーイは心から感謝していた。――彼は最終的に、その品々をシネマテーク・フランセーズへ遺贈した。
  ★1955年7-10月、パリ市立近代美術館で開催されたシネマテークのイベント

  『映画60年』展は、私たちにとって最も輝かしい、盛大な催しの一つだった。アンリと私は夢中になって取り組み、自宅で眠る時間もないほどだった。疲れると私たちは分厚い絨毯にくるまり、美術館のあちこちで数時間グーグーと雑魚寝をした。準備がすべて整った時、一人のアメリカ人がやって来て尋ねた、「いくらですか(How much)?」
  *「大いびきをかいて眠った」を新版にて改訂。編者の姪ハリエットによる。


 1950年代、モンマルトルに住む全く知らない老人が、突然私を訪ねてきた。彼は、リュミエール兄弟時代の映画チケットやパンフレットをすべて集めていた。「私は1906年にフィルムライブラリーを起ち上げたいと思っていました」と彼は語った。「おわかりでしょうか、私は1895年にLumiere 初めてリュミエールの映画を見た者の一人です。私は当時ルイ・リュミエールに言いました、『貴方は我らの時代のグーテンベルクだ。間もなくもう誰も本など読まなくなりますよ、代わりに貴方の活動写真を見るんです』と。ルイの答えは、彼がメリエスに対して言った答えと同じでした、『私のシネマトグラフに未来はありませんよ。』しかし私はそんなことは信じなかった。そしてパンフレットやポスターや入場券を残らず取っておいたのです。ここにあります。私はあの世に行く前に、これを貴方に渡したかったのです。」 

 私はこの老人をモンマルトルに訪ねた。すると、なんと彼が住んでいたのはジャン・ルノワール生誕の家であった。テルトル通りに立つその美しい田舎風の家を訪れた時の話を、ある日私から聞いたジャンの顔は、今にもとろけそうだった。

 もう一つの小さな歴史的瞬間があったのは、ロシア人映画建築家アンドレ・アンドレイエフを訪ねた時のことだった。彼とはブレヒトを通じ、すでにベルリンにいた頃からの知り合いだった。話の中で彼は、占領時代に石炭が尽きた時、かさばっていた大型セットは近侍(ロシア上流階級の家庭には、たとえどれほど生活に窮しても必ず近侍がいた)が暖炉にくべてしまったんだと打ち明けた。「まあ、アンドレ」度肝を抜かれた私は言った。「なんていうことを、貴方は映画の歴史そのものなのよ!」Raskolnikow

 私は彼に、もう一度地下や天井裏を探し、何か残っていないか確かめてほしいと頼んだ。少しして、彼から電話がかかってきた。「古い下絵を83枚見つけたよ。欲しいかい?」私は先頭のタクシーに飛び乗った。そこにはロベルト・ヴィーネの『罪と罰』(1923)、パプストの『三文オペラ』(1932年)、そして他にも、ドイツ無声映画時代の数多くの舞台デザイン画があった。

 ラングロワは[エルンスト・]ルビッチュを特別気に入っていたが、私はそうでもない。彼もそれは承知していたが、エルンスト・シュテルンの手によるドイツ時代のルビッチュの下絵が一枚もないことに、ずっと腹を立てていた。「何とか手に入れてきてほしいんですがね?」とアンリは言った。どこでシュテルンを探せばよいか、私には全く見当がつかなかった。戦争中、知識人や芸術家たちの間では、まさに民族の大移動が起こっていたのだ。しかし、またも幸運な偶然が手を差し伸べた。私は兄を訪ねるため数日間ロンドンへ出かけた。そこで義姉の口からこんな話が出たのだ。「驚くじゃない、この前パーティーで、ラインハルト劇場のドクトル・シュテルンとばったり会ったのよ。」私はロンドンの電話帳を片端から調べた。だが、方々へ問い合わせた結果、その間にシュテルンが亡くなっていたことがわかった。「それなら奥さんがいるはずだわ」と私は思った。確かに夫人はいた、しかし死の床に就いていた。「もう、いまいましいったらない、じゃあ子どもがいるはずよ」と私は考え、あちこちと電話で尋ねまわった結果、―― 今回の捜索は、時として犯罪捜査の態を帯びていった ―― 結婚してホプキンス夫人となっている令嬢がいることがわかった。著名な翻訳家だった夫を通じて探し当てたのだった。シュテルンの娘さんはとても親切だった。彼女は父親の描いた貴重なスケッチを保管しており、安価で譲りましょうと言ってくれた。というのも、いつでも都合よく無償で手に入るわけではなかったのだ。私たちの予算はとても乏しかったため、大体の場合粘り強い値切り交渉を行っていた。しかし、今回私Pola_negriは恵まれていた。私個人への贈り物までいただいたのだ、それは残念ながら現存しないルビッチュ最後のドイツ映画、1922年の『灼熱の情花』の下絵だった。私は東ドイツの映画アーカイヴで、この映画の断片を一度だけ見たことがある。ドイツ時代のルビッチュの最高傑作だったであろうことが想像できた。ゆえに私はこの贈り物、いくつものシーンを散りばめた精巧な彩色下絵と[主演の]ポーラ・ネグリの肖像とを額に入れ、大切にした。アンリは、うちに来て物欲しそうな眼でこの額絵を見るたびに言った。「ロッテ、この絵はシネマテークのものじゃないのかな。」そのやりとりは既に慣例となっていた。私の答えはいつも同じである。「いいえアンリ、これは私への贈り物なの。私の家に置くという約束でいただいたのよ。私が死んだら、もちろんシネマテークに持っていけばいいわ。」それなのに、まさか年下のアンリの方が、私より先に逝ってしまうとは。

 戦後間もない頃、昔の機材は難なく手に入った。私はパリのがらくた市や古美術店、うさん臭い小さな店を物色して回り、また地方で講演を行った際にはそこでも探した。店主の中には、古い撮影カメラや映写機の取扱いに困っている者もいた。彼らは二束三文でそれらを譲ってくれた。この状況が変化したのは、私たちの初の大規模な展示会がローザンヌ、ブリュッセル、パリで開催された後だ。店主たちは、しだいに自分の店にあるがらくたの価値について見方を変えるようになった。しかし、それでもなお一度、大きな幸運に出くわした。私は19世紀の家財道具が出ている蚤の市に出かけ、ある売り場で極めて珍しいレイノーのプラキシノスコープを見つけた。店主はそれを子どものおもちゃと思い込み、売り払えることを喜んで、150フランで譲ってくれた。その10倍以上の値が付く品だった。
  ★回転式のアニメーション装置。シャルル=エミール・レイノーによる発明

 古い映画書は、当初セーヌ川沿いの露店で手に入れていたが、その店もすぐなくなった。そうこうするうち幾つもの映画書専門店ができ、―― 価格は言うまでもなく跳ね上がった。

 これはある晴れた夏の日の思い出だ、私はラングロワに言った。「アンリ、私息が詰まりそうよ。いいお天気だし、体を動かしたいの。散歩の道すがら、博物館に置く本が見つかるかもしれないわ。ロベルトソンの回想録を探してみるわよ。」アンリは馬鹿にしたように額を叩いて言った。「見つかるもんか。もしあったとしても、ひと財産必要ですよ。」だが、私は彼の疑いの眼など物ともしなかった。「まあ、見てらっしゃい!」フランス革命時代に出た[エティエンヌ=ガスパール・]ロベルトソンの本には、ラテルナ・マギカ★★で製作された豪華な銅版の幽霊画が付いていた。それは私たちもめったに見ることのできない画だった。映画前史に関する展示を行う際、私たちはいつもこの本を国立図書館Fantasmagorie_de_robertson から借りていた。私はまずセーヌ川沿いをぶらぶら歩いた。それから、カルチエ・ラタンやボーザールの小さな書店を巡った。時間を無駄にしないために、店先で直接本の在庫を尋ねた。32の店の主人が首を横に振った。32番目の店主はこうも言った。「ああ、その本はめったに出ませんよ。まず見つからないでしょうね。」私は33番目の店に行った。「ロベルトソンの回想録ね、ありますとも。ただ気球の挿絵部分が欠けているんです。」――「まあ、残念だわ。」と、私は心底落胆したように言った。「でも、見せてはいただけますかしら。」店主は、銅版画が完璧な状態で保存された18世紀の初版本を持ってきた。「気球の絵がなくなっているなんて本当に残念ね。」私は悲しみに暮れた顔で店主に言った。彼は私にすっかり同情し、まさに夢のような安値で売ってくれた。私はこのお宝を手にシネマテークへと走った。ラングロワの執務室に着くと、私は何事もなかったような顔で、散歩でとてもリフレッシュできたわと彼に言ったついでに、「ところで、はい、ロベルトソンの回想録。」
   ★またはロベール。フランスの物理学者、奇術師。気球乗りとしても知られる。
  ★★当時人気の幻灯機を使ったショー。物語が描かれたスライドを壁に映写した。

 しかし、うまくいかずに失望を味わうこともたびたびあった。1955年、私はビヴァリー・ヒルズのフリッツ・ラングを訪ねがてら、私たちの博物館の充実を図ろうと奔走した。大手撮影所の数々が衰退し始めていた頃で、掘出し物を手に入れる格好のチャンスだったからだ。いたるところでオークションや在庫一掃セールが開かれていた。私はアンリから、ロタール・メンデスの映画の書割を探すよう依頼されていた。彼の作品がある場所はすでにわかっていた。だが行ってみると、かさばって場所を取る大きな書割は、前の晩に燃やしてしまったとのことだった。たった一日遅れのことだった。

 私たちがメッシーヌ通りの施設と国の補助金をもらえるようになる前、古い撮影機材のセットを丸ごと逃したことがあった。クローマー氏の個人コレクションで、まずルーブル美術館に話が持ちかけられたが、関心がないとあっさり断られたため、最後はアメリカへ渡っていた。アンリは打ちのめされた。そして恐らくこれが、彼がその後とにかくどんな物でも、たとえ金がなくとも手に入れようとするようになった理由のひとつである。彼はいざとなれば自分の保険料を抜き取り、あるいは電気代を滞納した。こうしてしばし暗い部屋で過ごしてでも、彼はまた一つ貴重な品を救い出すのだった。4devils

 失われてしまった映画の捜索ほど、喪失感に胸の痛むことはなかった。私は[F・W・]ムルナウのハリウッド第二作『四人の悪魔』を、どれほど探した ことか。ケネス・アンガーが所有していた4枚のスチール写真が、私の発見意欲を後押ししたのだ。私は映画を制作したフォックス社のスタッフに連日しつこく付きまとい、彼らのもとに押しかけて、“金庫”の中を調べてほしいと頼んだ。そして実際に「『四人の悪魔』を見つけました」という電話をもらった時、期待一杯に飛んでいってよく見れば、それはムルナウの映画と同じ原作をもとに撮られた、スカンジナビア人監督の映画だったのである。

 エーリヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』が辿った受難の物語は、ずたずたにカットされ台無しになった彼の作品に携わったことがある者なら誰でも知っている。この映画に関するだけで、これまでにおびただしい本が出た。もとは8時間の作品だったが、短縮に短縮を重ね、今日まで残っているのはその2時間分である。現在見ることができるのは、一連の並外れた、しかしほとんど繋がりを欠いた映像であり、それはあたかも偉大な写真家によるスナップショット集のようだ。さらに、映画の全スチールが掲載された本も現存している。そこからぼんやり感じ取れるのは、―― グリフィスのしなやかな手さばきには及ばないものの、彼の『国民の創生』に匹敵する、映画史上の最高傑作の一Greedつに数え上げられたに違いない作品だということだ。いずれにせよ、私はシュトロハイムが誰よりも好きだった。彼と個人として知り合ってから、それはさらに強まった。アメリカの古物史料館で探し物をする時にはいつ も、私は行方のわからなくなった『グリード』のフィルムの入った缶を捜した。ある日アンリがアメリカから一通の電報を受け取った。ジョン・ハウスマンなる人物が、最近この映画の完全版を見たというのだ。(最初のバージョンを私的上映で見た、何人かの個人やジャーナリストがいる。)私は即座に手掛かりを追い、この男性に電報を打った。彼から折り返し電信が来た。そこには、「もし私が完全版を目にしていたとすれば、既に貴社に寄贈しておりましょう」とあった。

 1962年、この偉大な作品の失われた経緯が明らかになった。МGМ社によって廃棄されていたのだ。新しいフィルムを置く場所が必要になったため、昔のネガがリサイクル用に溶かされた。“マクティーグ”という誰も聞いたことのないタイトルラベルの貼られた、正体不明のワンセットのフィルムが処分された。やや事情に通じたある人物が、残ったフィルムの切れ端を手に取り、それがプリント時に『マクティーグ』というタイトルで保管されていた、シュトロハイムの『グリード』の完全版だったことに気づいた。(フランク・ノリスの原作小説『マクティーグ』から取ったのだ。)

*:原注   
★および[]内の補足:訳注

Lotte H. Eisner  "Entdeckungen"  "Ich hatte einst ein schönes Vaterland" dtv 1988年より)

 

*掲載写真は、原書から転載したものではありません。

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